平成23年2月7日

松平慶永 まつだいら・よしなが (松平春嶽)

文政11年9月2日(1828年10月10日)〜明治23年(1890年)6月2日

熊本県熊本市・高橋公園でお会いしました。


幕末期の大名。
越前国福井藩主。
号は春嶽。
父は田安斉匡なりまさ
福井藩主・松平斉善なりさわの没後に養子となり、天保9年(1838年)遺領を相続。
徳川斉昭島津斉彬伊達宗城らと海外・政治情報を頻繁に交換する。
将軍継嗣問題では一橋慶喜を推すが、安政5年(1858年)井伊直弼の大老就任後、不時登城を理由に隠居・謹慎を命じられる。
文久2年(1862年)政界に復帰。
同年、政事総裁職に就任。
将軍後見職一橋慶喜とともに中根雪江、横井小楠らを用いて幕政改革に着手する。
参勤交代の緩和を断行。
公武合体を主張したが挫折。
維新後は議定・内国事務総督・民部卿・大蔵卿などを歴任。
明治3年(1870年)公職を退き著述に専念した。






横井小楠と維新群像
(熊本県熊本市・熊本城前・高橋公園)

右から2番目が松平春嶽像



(平成23年2月7日)

横井小楠をめぐる維新群像

横井小楠 諱いみなは時存ときあり 通称平四郎、幕末維新期の大思想家。
横井家は細川藩士家禄150石の家で、小楠は文化6年(1809)熊本城下の内坪井で生れた。
藩校時習館に学び居寮長に推されて数年、江戸遊学を命ぜられて天下の俊秀と交わり活眼を開く。
帰国後実学を主唱し、中級武士と惣庄屋層の支持を得る。
越前侯松平春嶽しゅんがくに聘せられて福井藩にその経綸を実現し、後春嶽の幕府総裁職就任に当ってはその顧問として幕政改革に貢献、その間に勝海舟と相識り、坂本龍馬にも影響を与えた。
文久3年帰国を命ぜられ士席を除かれて隠栖すること5年、明治元年経世の才を買われて新政府の参与に出仕、抱負の実現を図ったが、翌2年正月京の町で志半ばで凶刃に倒れた。
明治3年熊本藩は実学派の改革を実現し、藩知事細川護久もりひさ 大参事同護美もりよしの下に、藩士山田・嘉悦・内藤等及び惣庄屋層の徳富、竹崎・長野等による肥後の維新の到来を見た。

この群像は横井小楠の生誕190年、没後130年(1999年)を記念して翌2000年3月建立された

(碑文より)




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