松江城 まつえじょう


島根県松江市殿町


松江城 平成16年11月21日

史跡 松江城
昭和9年5月1日国指定

豊臣秀吉徳川家康に仕え、明智光秀討伐戦や関ヶ原の合戦などで武功をたてた堀尾吉晴は慶長5年(1600)出雲隠岐両国23万5千石の大守として広瀬の富田城に入城した。
しかし、富田城はその周辺を高い山に取り囲まれ大砲などを使う近代戦に不利であったことと、侍を住まわせるに広大な城下街を形成しなければならなかったことなどの理由からこの極楽寺山(亀田山とも言う)に城地を移した。
築城工事は、慶長12年(1607)から足かけ5年を費やし慶長16年(1611)に一応の完成をみた。
城地の広さは東西360米、南北560米あり、周囲に幅20~30米の内濠をめぐらす。
標高28.1米の頂上部に本丸を置き、荒神櫓をはじめ6か所の櫓とそれをつなぐ細長い多門がめぐっている。
天守は本丸の東北隅に築かれている。
二之丸は本丸の南側に一段低く隣接し御書院や御広間などがあった。
本丸の東側の平地は二之丸下の段と呼ばれ藩士の扶持米などの米蔵が立ち並んでいた。
その外、本丸の周辺には腰曲輪、中曲輪、外曲輪、後曲輪があった。
城山の南には三之丸(今の県庁附近)があり、藩主の御殿があった。
石垣用の石材は、松江市の東部、大海崎、福富地区の山麓から産出する安山石(いわゆる大海崎石)が大量に使用され堀尾氏の家紋である分銅型などの刻印が認められる。
城主は堀尾氏3代、京極氏1代といずれも嗣子なく断絶した後、松平氏が10代続き一度の戦乱にまき込まれることなく明治維新を迎えた。
明治8年(1875)無用の長物と化した櫓や多門など多くの建物はことごとく壊されたが天守だけは旧藩士や豪農の懇請により保存されることになり山陰地方唯一の現存天守として威風堂々たる偉容を今も宍道湖畔に映し出している。

昭和55年3月
松江市教育委員会

(説明板より)

天守閣 天守閣

説明板の図 (説明板より)


馬溜 馬溜

史跡松江城馬溜うまだまり

ここは、馬溜と呼ばれる一辺46mほどのほぼ正方形の平地です。
入口には大手柵門、右へ曲がるとしゃちほこをつけた壮大な大手門がありました。
西側にある高さ13mの高い石垣や、南・東側の石垣の堀、さらに内側の高さ1mほどの腰石垣による土塁でこの平場を四方から守っていました。
この入口の形態は桝形と呼ばれるもので、敵兵の直進を防ぎ、侵入の勢いを弱める機能と、出撃の際にこの馬溜に城兵を待機させ隊形を整える機能を果たしていたようです。
発掘調査より、江戸時代のものと思われる井戸が2箇所と内堀へ通じる石組水路などの遺構面が現在の地面より約50cm下に見つかりました。

(説明板より)


二之丸下の段 二之丸下の段

二之丸下の段見取り図 二之丸下の段見取り図

史跡松江城二之丸下の段の遺構

この二之丸下の段一帯は、江戸時代に米蔵や屋敷などのあったところである。
米蔵に貯えられた米は主として藩士の扶持米に供されていたが、洪水や飢きんが、しばしば発生するようになったので、米蔵を増築し、より多くの備蓄米を貯えるようになった。
城郭図によれば、築城時(17世紀)にはL字型に建つ2棟の米蔵と門や塀が存するだけであった。
延宝7年(1679)には、越後騒動により配流された高田藩の忠臣荻田本繁(主馬)と、その子民部、久米之助のためにこの地の一角に「荻田配所」が建造された。
さらに18世紀以降になると「荻田稲荷社」をはじめ米蔵が新たに5棟も新造されたが、この内3棟は天保年間に建てられたものである。
やがて明治維新となり不要となった建造物群は明治8年に至り天守閣を除いてことごとく取り壊されてしまった。
その後、一帯は運動場となり明治33年には島根一中と鳥取中により両県初の野球試合が行なわれたり、諸種の建物、施設も出来て文化やスポーツの場にも使われたりした。
松江市では、昭和47年度から3次にわたり米蔵を中心に発掘調査を実施した結果、今見るような石積基壇の遺構が発見され、ほぼ縄張図や城郭図どおりの規模であったことが確認された。

昭和51年3月
松江市教育委員会

(説明板より)


三の丸跡から見た松江城 三の丸跡から見た二の丸

古写真 (説明板より)

史跡松江城二の丸

二の丸は、本丸の南側に位置する南北72間(約141.8m)、東西62間(122.1m)の曲輪くるわです。
江戸時代の二の丸は、藩主が公的な儀式や政務をつかさどる「御廣間おひろま」や生活をしたり私的な接客や面会などを行った「御書院ごしょいん」はじめ「御臺所おだいどころ」、「御式臺おんしきだい」などの御殿が建ち並び、周囲には時打ち太鼓をおいた「太鼓櫓たいこやぐら」や、城下の監視や倉庫に使われた「南櫓みなみやぐら」、「中櫓なかやぐら」をはじめとする5つの櫓などがありました。
これらの櫓、御殿などの建物は、明治維新とともに無用の施設となり、明治8(1875)年に取り壊されました。
その後は公園として利用されてきましたが、平成5(1993)年に策定した「史跡松江城環境整備指針」に基づき、江戸時代の遺構復元整備することとなりました。
事業は、発掘調査の成果をもとに、古写真、絵図、文献史料を参考にして、「南櫓」、「中櫓」、「太鼓櫓」、「井戸屋形いどやかた」などの建物および「塀へい」を実物大にて復元し「御廣間」跡、「下御臺所しもおだいどころ」跡、「御式臺」跡を平面整備し平成13(2001)年春に完成しました。

(説明板より)

二の丸跡 二の丸跡

二之丸

本丸南側の一段低い平地で、江戸時代には中央に御書院があり松平家2代藩主綱隆つなたかの時まで藩主の居宅となっていました。
(以下略)

(説明板より)

太鼓櫓 太鼓櫓

太鼓櫓

太鼓櫓は、二之丸の北東角すみに建てられた平屋建ての櫓やぐらです。
中櫓と同規模の櫓ですが、入口に庇ひさしが付くところが異なります。
江戸時代前期から幕末までの文献や絵図には、いずれも「太鼓櫓」という名前で記されているように、城内に時刻や号令を告げる太鼓が置かれていた櫓であったことが考えられます。

(説明板より)

南櫓 南櫓
南櫓の内部


南櫓の内部


ここで松江城に関するビデオ映像を見ることができます。
『石垣修復』『城郭建築の特徴』
『櫓・塀修復工事』『鬼瓦復元』
『史跡松江城建造物復元』などがありました。

(平成16年11月21日)

南櫓

南櫓は、二之丸の南東角に建てられた2階建ての建物です。
江戸時代前期の文献や絵図に「南櫓みなみやぐら」または「南ノ貮重にじゅう屋くら」という名前がみられ、幕末には「御召蔵おめしぐら」とも呼ばれていました。
この櫓の用途は分かっていませんが、建てられた位置から考えると、城下町の南東方向を監視する櫓であったことが考えられます。

二之丸番所跡 二ノ丸番所跡

二ノ丸番所跡

松江城二ノ丸は松江松平藩2代綱隆公の時代《寛文6年(1666)~延宝3年(1675)》まで藩主の居住した御殿があった場所ですが、その御殿の入口を警備する人々が詰めていたのが、「二ノ丸番所」です。
『松江城縄張図』《元禄5年頃(1692)》という古絵図を見ると、この付近には東西12間半(22.875m)・南北3間半(6.405m)の建物(番所跡)が記載されています。
平成4年に松江市教育委員会で発掘調査を実施したところ、南北約3間半(6.3m)の台状の貼床(はりゆか)が検出されたので、ここには確かに番所跡があったものと考えられます。

平成5年7月
松江市

(説明板より)


一ノ門 一ノ門

古写真 古写真

明治初年の松江城

明治8年(1875)には天守閣を除いて取り壊したから、それ以前の写真である。
本丸の天守閣。
二の丸の中櫓、御式台、広間、南櫓、御書院が見える。
石垣の下が三の丸で、そこに建つのが長屋門、この奥に藩主の御殿があった。

(興雲閣内の展示写真及び写真の説明文より)

古写真 古写真(昭和25年)

松江城昭和の大修理

松江城天守は腐朽や破損、天守台が沈むなど痛みがひどかったため、昭和25年から30年にかけて大々的な解体修理が行われた。
総工費5,357万円。

(興雲閣内の展示写真及び写真の説明文より)


天守閣内部の展示品 天守閣内部の展示品

本丸の復元模型 本丸の復元模型

天守閣内部 天守閣の内部

柱は寄木柱です。

寄木柱

柱は、肥え松の一本の柱の外側に、板を揃えて寄せ合わせ、これを金輪で締めて太い柱が作られている。
この寄木柱の方が、普通の柱より力学的に強く、吉晴の苦心の作である。

(『松江城』のリーフレットより)

天守閣内部



天守閣内部


階段は桐の木で出来ています。



(平成16年11月21日)

桐の階段

板の厚さ約10センチメートル、階段の幅1.6メートルで1階から4階の各階の間に設けてある。
階段を引上げたり、防火防腐のために桐を使ったもので他の城では見られない特殊なものである。

(『松江城』のリーフレットより)


歴代藩主

堀尾氏(1600年~1634年)23万5千石 
初代 堀尾吉晴よしはる 関ヶ原の戦功で富田城に入る。
しかし戦略上の理由で松江に城地を移した。
2代 堀尾忠氏ただうじ  
3代 堀尾忠晴ただはる
京極氏(1634年~1638年)24万石 
初代 京極忠高ただたか 4年間の短い治世の間に治水に努めた。
継嗣がないため松平氏に代わった。
松平氏(1638年~1871年)18万6千石 
初代 松平直政なおまさ 結城秀康の三男、徳川家康の孫。松本から移封。
2代 松平綱隆つなたか  
3代 松平綱近つなちか
4代 松平吉透よしとう
5代 松平宣維のぶずみ
6代 松平宗衍むねのぶ
7代 松平治郷はるさと(不昧ふまい
8代 松平斉恒なりつね
9代 松平斉斎なりよし(斉貴なりたけ
10代 松平定安さだやす

石垣 石垣
石垣 石垣

電気発祥之地 『電気発祥之地』の碑
(松江城・椿谷)

碑文

明治28年10月1日 松江市の産業文化発展のために 桑原羊次郎 織原万次郎 山本誠兵衛 清原宗太郎各氏らの奔走により この地に松江電燈株式会社の発電所が建設され 市内で始めて250燈の明りがつきました

建設発起人代表
中国電力株式会社島根支店長
西田正四郎

昭和46年8月8日建之


千鳥橋 千鳥橋(御廊下橋)

御廊下橋 (説明板より)

千鳥橋ちどりばし

この橋は、江戸時代には「御廊下橋ごろうかばし」とよばれ、お城の中心部と藩主の館がありました三之丸御殿を結ぶ大変重要な橋で屋根がかかっていました。
現在の橋は、屋根はありませんが絵図により橋脚を二ヵ所三本建てとし堅い国産のヒバの木を使い平成6年3月に完成したものです。

(説明板より)

北惣門橋 北惣門橋

北惣門 (説明板より)

北惣門橋きたそうもんばし

この橋は、江戸時代には内堀の東側にあった家老屋敷と城内を結ぶ重要な通路でありましたが、明治時代の中頃に石造りのアーチ橋に変わり、長らく「眼鏡橋めがねばし」と呼ばれていました。
そこで、史跡にふさわしい江戸時代の木橋とするため橋下の発掘調査や絵図や文献史料を検討して長さ18.54m(九間四尺五寸)、幅3.82m(二間)の規模で平成6年11月に復元完成したものです。

(説明板より)

宇賀橋



宇賀橋






(平成16年11月21日)

宇賀橋うがばし

現在の松江城がある地を亀田山(標高28米)といい、さらに宇賀山・赤山と続いていたが、築城の際に宇賀山を掘削し、ここに内堀と武家屋敷街(現在の塩見縄手)をつくりました。
この橋名は宇賀山にちなんでつけられました。

(説明板より)

内堀 内堀

案内

開城時間
4月1日~9月30日 午前7時~午後7時30分
10月1日~3月31日 午前8時30分~午後5時
登閣時間
4月1日~9月30日 午前8時30分~午後6時30分
10月1日~3月31日 午前8時30分~午後5時
年中無休


松江城



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