松井康直 まつい・やすなお

(松平康英 まつだいら・やすひで

文政13年5月26日(1830年7月16日)〜明治37年(1904年)7月5日


松井松平家の分家・松井康斉の長男。
外国奉行、神奈川奉行を歴任。
文久2年(1862年)開港延期交渉使節団副使として渡欧し、翌年帰国。
のちに勘定奉行、町奉行。
元治元年(1864年)本家棚倉藩主・松平康泰やすひろの養子となり、遺領を相続。
棚倉藩主となり、康英と改名する。
寺社奉行、老中を歴任。
慶応2年(1866年)川越藩主となる。







松井康直(松平康英)
(福島県東白川郡棚倉町・棚倉城

中央公民館展示写真より






(平成21年9月13日)

松平周防守康英まつだいらすおうのかみやすひで(1830〜1904)

松平周防守家の分家である旗本の家に生まれ、はじめ旗本の松平康済の家を継ぎ、駿河加判するがかはん、火事場見廻役、寄合肝煎よりあいきもいり(中級〜下級の旗本や御家人の世話役)を経て、安政6年(1859)外国奉行兼神奈川奉行を務める。
文久元年(1861)には再び外国奉行を務め、前老中の阿部正外あべまさとうが独断で締結した兵庫開港・大阪開市が、国内の攘夷運動の激化により実現が困難であるため、諸外国から延期を取り付けるべく、文久2年の末に幕府の交渉使節団の副使として参加し、ヨーロッパ各国を歴訪し、ロシアでは樺太国境画定を試み、文久2年12月に帰国した。
その後は勘定奉行を務め、関税策定や貨幣交換比率の諸外国との交渉を担当した。
その後は大目付おおめつけ、南町奉行を務め、元治元年(1864)に棚倉藩主松平康泰やすひら(16歳で没する)の養子となり棚倉藩主となる。
慶応2年には天狗党事件で、常陸に兵を出した功績もあり、2万石加増され石高が8万石となる。
康英34歳の時である。
慶応2年に幕府は白河藩主の阿部正静まさきよを棚倉に転封させ、代わりに康英を白河に移すように命令があったが、中止となり川越に転封となった。

(棚倉町中央公民館資料室・展示パネルより)




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