平成26年11月22日

松森胤保 まつもり・たねやす

文政8年6月21日(1825年8月5日)~明治25年(1892年)4月3日

山形県酒田市・松山城でお会いしました。








 松森胤保翁像
 (山形県酒田市・松山城跡)




(平成26年11月22日)

松森胤保翁は文政8年鶴岡に生れ 荘内藩校致道館に学び
のち松山藩付家老を勤め 戊辰の役には軍務総裁に任ぜられ
各地に転戦よく武名を挙げた 戦後は松山藩校里仁館惣管と
して教学に努め 松嶺区長・県会議員を歴任 教育や行政に
貢献した 『両羽博物図譜』『開物経歴』にみられる動植物等
博物万般 飛行機の設計等科学面での博学多才は驚異とされ
文武両道に傑出した偉人である

平成元年6月建立
松森翁顕彰会会長 松山町長 土方大美
 同 協賛者代表       松森俊子

(銘板・碑文より)


【松森家】

松森家の祖先は、下総(千葉県)の千葉常胤という人。
その後、三河国(愛知県)に住み、丸山の姓を名乗る。
丸山八郎右衛門の代に、甲斐国(山梨県)の武田信虎、晴信(武田信玄)に仕え、その子、半右衛門も晴信、勝頼に仕えていた。
武田氏が滅ぶと、次子の右近助うこんのすけ重識しげおりは、徳川家康の家臣となっている。
母方は甲州藩に仕え、長坂の姓であったことから、右近助重識の時に、丸山の姓から「長坂」に姓を替えたようである。
右近重識の子・源右衛門げんうえもんは、家康の子・忠輝に従い、信越国(新潟県)の高田に移るが、忠輝の犯した罪により、家臣を離れる。
正保元年(1644年)に出羽国(山形県)の荘内藩主・酒井忠勝に仕え、以来、庄内藩に仕えた家柄である。

【松森胤保】

松森胤保は庄内藩酒井家に仕え、禄高200石で足軽を率いる物頭ものがしらという役に就いていた長坂家8代目・市右衛門治禮はるよし、母・富山の長男として、文政8年(1825年)6月21日に鶴岡二百人町で生まれ、長坂家9代目にあたる。
5人の弟がいるが、胤保が松山藩付家老つけがろうの役職に就くと、5人の弟も庄内藩から松山藩に移っている。

9歳の頃から鉱物、昆虫、化石、石器、土器など、変わったものや珍しいものを集めていた。
また、7歳から小鳥の飼育を始め、最初に飼ったのはヤマガラで、以後、いろいろな小鳥の飼育をし、鳥の絵を描き出したのもこの頃からで、14歳の時の絵が残っている。

天保8年(1837年)、13歳の時、坂尾清風の紹介で荻生徂徠の徂徠学を教義とする庄内藩の藩校「致道館」に入る。
天保12年(1841年)10月、終日詰に移り、翌年10月には外舎に移り宿学する。
弘化2年(1845年)10月、内舎に移り、句読師を命ぜられ、安政3年(1856年)9月、助教の官に任命される。

※終日詰しゅうじつづめ=中学校相当の内容。15~16歳が多く、会読に出たり読書、作詩を自学自習した。
※外舎がいしゃ=高等学校相当の内容。1室2名の部屋が与えられ、会読、読書、作詩を自学し、武芸の稽古もやり、年4回の試験があった。

この頃の学問は、知育のみではなく、体育も(武道)も重んじられている。
武芸については、胤保は、抜刀は祖父・泰治に教えられ、田宮流の居合いを学び、撃剣は藩士・石川仁兵衛の門で新九流を学んだ。
槍術は18歳の時、祖父のもとで、宝蔵院流二間柄の十文字を、砲術も祖父に種ヶ島流の小銃を学んだ。
馬術は藩士・旅河平次兵衛から大坪本流の馬術を習い、水練(水泳)も、松山藩付家老を命ぜられるまで習っている。

安政3年(1856年)、藩医の長女・鉄井(20歳)と結婚。(胤保は32歳)
文久2年(1862年)2月、胤保は38歳で家督を継ぎ、物頭という役を命ぜられ、200石を賜る。
文久3年(1863年)3月、藩主より物頭という役職を命ぜられた(弓砲隊23人を預かる)ので、致道館を去る。
同年6月1日、39歳で松山藩付家老を命ぜられ、7月1日、藩主・酒井忠良から賜った武具を持って、鶴岡から松山へ赴任し、石川市郎衛門の旧邸にに住む。
この時、一族全員が松山に移り住む。
翌元治元年(1864年)1月、内町にある辻克己の旧邸に移り、以来17年間を松山で過ごすこととなる。

同年6月、胤保は江戸へ出府。
この頃、江戸は尊王攘夷をめぐり、激しく揺れ動く不穏な世の中であったので、警備も厳重で、胤保は江戸市中見廻り役として、千住方面の治安を担当した。
慶応元年(1865年)1月、日光御用掛ごようがけを命じられる。
2月9日、胤保は江戸本所北番場で、自分の肖像写真を、嶋一成に撮影してもらい、これを家蔵にしたと記録に残っている。
3月9日の日光山における家康二百五十回忌法要で、松山藩は日光新道口の警備に当たった。
胤保は任務を終え、5月15日に江戸を出発し、27日に松山に帰着。(江戸から松山まで13日間の旅)

慶応3年(1867年)10月14日、徳川慶喜は大政奉還を朝廷に上奏したが、同日、倒幕の密勅が薩摩・長州に出されており、大政奉還運動は出鼻をくじかれた形となった。
これにより、同年12月4日、胤保は再び松山を出発し、江戸に向かう。
同年12月23日の夜、三田にあった庄内巡邏兵屯所じゅんらへいとんじょが襲撃されるという事件が起きた。
その襲撃犯が薩摩の浪人であったことがわかり、翌25日の夜明けと共に、庄内藩・松山藩の兵約千名を主力部隊とし、これに鯖江・上ノ山藩等の兵千名を加えて、三田にある薩摩藩邸並びに支藩の佐土原藩邸を攻撃し、これを焼き払った。
この薩摩藩邸焼き討ちの時、松山藩の総大将を務め、兵の先頭に立って正門より討ち入ったのが松森胤保(当時の名は長坂欣之助)であった。
この時、胤保は、相討ちを避けるため、目印を帯の前後に掛けることとし、合言葉を「松」に対して「山」とすること、もし、父子兄弟が討死しても人を怨むことのないようにと訓示した。
藩邸焼き討ちは幕府軍の勝利に終わり、この功績により、藩主・酒井忠良は、胤保に10人口米を永世に与えることにした。

慶応4年(1868年)1月3日、京都の鳥羽・伏見で京都を守っていた旧幕府軍と薩摩・長州連合軍とが戦ったのが、戊辰戦争の始まりである。
同年4月5日に、胤保は松山藩軍務総裁に任ぜられ、5月30日には松山藩一番隊長兼庄内藩一番大隊参謀として、白河へ出兵するように言われた。
しかし、松山藩主・酒井忠良は、逸材の誉れ高かった胤保が松山を離れるのことには反対だった。
胤保自身も白河へ行くのは反対で、それは、白河に出兵すると江戸攻めになりそうだったからである。
これまで松山藩・庄内藩は江戸市中の治安を担当しており、市民に親近感を持っていること、もし江戸攻撃が行われたら、松山・庄内藩は必ず江戸市民から仇敵視されることを恐れたからである。
胤保は白河へ出兵するより、越後境へ出兵する方が良いと主張したが聞き入れてもらえなかった。
同年7月4日、松山藩一番隊157人の隊長として、また庄内藩兵1200人の参謀として白河へ出陣。
出陣を前にした6月17日、名前を欣之助から祖先の名である「右近之助」と改めている。
白河へ向かって進軍したが、秋田方面での戦いが良くないため、途中、上ノ山から新庄、中村、院内、湯沢、横手、角館、上淀川、大曲、矢島、小滝と転戦し、9月22日に松山に帰った。
9月26日、藩主・酒井忠良は、胤保がすばらしい活躍をし、松山を守ってくれたことに感謝の意味も含めて「松守」の姓を贈った。
しかし、胤保はこれを固辞し、「守」を「森」に改めて「松森」とし、また、名前も右近之助から嘉世かせ右衛門として、実名を胤保とした。(胤保44歳)

明治元年(1868年)11月23日、胤保は藩主・酒井忠良と共に、戊辰戦争の謝罪のため東京に向かう。
藩主の忠良は隠居を発表し、翌明治2年1月に酒井信三郎忠匡ただまさが酒井家8代目を継ぐ。
明治2年4月13日、胤保は東京で写真のことについて勉強した。
この頃から、胤保はリューマチに罹り、かなりの重病であった。
大小便も他人から面倒を見てもらったと「身世記事しんせいきじ」に書いている。
同年5月、旧藩主・酒井忠良から「松嶺御備金おそなえきん取締」の役を命ぜられ、松嶺藩(旧・松山藩)家臣救済のため、藩地を返上した後の財政を担当した。
同年7月24日、胤保は新しい藩主・忠匡と東京を出発し、8月8日に松山に帰る。

明治3年6月1日、胤保は松嶺藩(旧・松山藩)知事、酒井忠匡の下で「松嶺大参事」を拝命。(胤保46歳)
翌年、胤保47歳の時、父・治禮が亡くなる。

明治4年7月14日、廃藩置県の詔勅が出されて、「松嶺県」が置かれたが、11月2日に廃止され、酒田県へ組み入れられた。
同年11月7日、胤保は東京勤番のため、天利十右衛門と一緒に松嶺を出発し、12月1日に東京に着く。
翌明治5年1月10日から4日間、初めて蒸気船に乗り、横浜・鎌倉・江の島を遊覧した。
同年1月24日に東京を出発して松嶺に帰ることになるが、途中の宇都宮で神経痛がひどくなり、帰郷が遅れ、到着すると病床についた。

明治5年に酒田県が置かれると、参事も免官になり、「松嶺区長」に就任。(胤保48歳)
同年8月、松嶺藩校の里仁館の惣管そうかん(校長)である武藤半蔵が家命により上京したため、胤保が代わって惣管となり、大教授(教師)も兼任した。
この頃から、各地に小学校が設立されるようになり、藩校廃止論も話題となったが、胤保は「学問は1日たりとも廃すべきではない」と藩校存続の必要性を話している。

明治8年6月、松嶺区長を辞めて、第5大区内にある13校の「学区取締」を命じられる。
しかし、9月に病気を理由にこの職を辞し、さらに里仁館惣管兼大教授も辞める。
また、腸チフスに罹り、9ヶ月間も療養に努める。

明治10年頃、胤保っを頭取や社長にして、銀行の設立や米商会社を作る動きや、また、酒田の豪商・渡辺作左衛門、鶴岡の豪商・駿河屋するがや半九郎らが、胤保に働いてもらおうとしたが、胤保はこれを断っている。
明治11年1月、胤保は開進中学校校長を拝命したが、翌明治12年9月にこの職を辞す。
明治12年4月、55歳になった胤保は、松嶺の本邸を医師の門山周智に320円で売り渡し、5月から6月にかけて仙台、塩釜、東京、信州、新潟、佐渡を旅行し、東京では博物館、佐渡では鉱山を見学した。
同年9月、嫡子・又次郎に家督を譲り、鶴岡の宝町に引っ越す。

明治14年12月17日、戸長一同の推挙によって山形県会議員に当選。(得票1896票)
翌明治15年1月25日、初めて議会に出て、自分の考えていたこととは、全く違った議会であったと言っている。
話が上手な者が、主導権を握っていることに対する憤りであった。
また、役所に勤めている人についても、上に立つ者の顔色を見て勤めているようで、ただ日給をもらうために勤めているようなもので、その道を守るような者は一人もいないと評している。

明治17年3月、胤保は県会議員を辞めたのち、酒田本町1丁目ほか24ケ町の戸長こちょうとなった。
翌明治18年には病気を理由に戸長を辞め、一切の公職から離れて、これまでの研究や著述のまとめに没頭した。

明治20年、63歳の時に左眼上瞼まぶたに小腫物しゅもつが出たが、これが不治の眼病になった。
明治23年に羽柴雄輔らと奥羽人類学会を組織し、その初代会長に推される。
同年8月、飛行機「鳥羽単羽号」を設計する。

明治25年4月3日、松永胤保は鶴岡宝町にて亡くなる。享年68歳。
菩提寺は鶴岡市禅源寺である。

胤保は、幕末明治の動乱期に活躍しながら、究理学きゅうりがく・博物学・考古学・工芸機器の改良、発明などあらゆる面に手を広げて足跡を残している。
自然科学の面では、記録と収集を独学で丁寧に記録している。
また、若い頃から機械好きで、澱粉の製造、紡織機械、網織機、水揚機械などの発明改良や、はては飛行機械までも考え、ミシン、自転車、水陸両用車も考えていた。
写真術には早くから興味を示し、これを修得した。
胤保の子孫が代々写真店を営んでいるのは、そのためである。
このように、あらゆる方面にわたって、膨大な記録と著作を残し、その数は300冊を超える。

(参考:松森胤保翁顕彰会 編 『郷土の偉才 松森胤保』 平成元年7月発行)




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