松本城 まつもとじょう

長野県松本市丸の内


松本城 平成20年10月25日

創始

松本城は戦国時代の永正時代初めに造られた深志城が始まりです。
戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の山麓の林地区に移すと、その家臣らは林城を取り囲むように、支城を構えて守りを固めました。
深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られたのです。
その後甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としました。
その後、天正10年(1582)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めました。

天守築造

豊臣秀吉は天正18年(1590)に小田原城に北条氏直を下し天下を統一すると、徳川家康を関東に移封しました。
この時松本城主小笠原秀政が家康に従って下総へ移ると、秀吉は石川数正を松本城に封じました。
数正・康長父子は、城と城下町の経営に力を尽くし、康長の代には天守三棟(天守・乾小天守・渡櫓)はじめ、御殿・太鼓門・黒門・櫓・塀などを造り、本丸・二の丸を固め、三の丸に武士を集め、また城下町の整備をすすめ、近世城郭としての松本城の基礎を固めました。
天守の築造年代は、康長の文禄2年から3年(1593〜4)と考えられています。

(リーフレットより)

本丸 本丸御殿跡

本丸御殿跡

御殿は天守の完成後の建造で、城主の居所と政庁を兼ねていた。
いわば政治の中枢部であった。
享保12年(1727)に焼失、以後再建されませんでした。

(リーフレットより)

 説明板より

江戸時代中期の松本城の様子

本丸と二の丸からなるこの地域は、松本城の中枢部である。
本丸には、面積約2730平方メートルの本丸御殿(政庁)と五重の天守閣がそびえていた。
二の丸には、東から面積約2330平方メートルの二の丸御殿(藩庁)、面積約700平方メートルの古山地御殿(城主私邸)、藩の籾蔵、幕府の八千俵蔵(備蓄米2000石貯蔵)、焔硝蔵えんしょうぐらが並び、また、外敵に備えて5棟の隅櫓すみやぐらがおかれていた。
なお、現在二の丸御殿跡は平面復原されている。

(説明板より)

清正駒つなぎの桜




清正駒つなぎの桜






(平成20年10月25日)

清正駒つなぎの桜

熊本城加藤清正は、江戸からの帰りに松本城に立ち寄った。
城主石川玄蕃頭は、遠来の客を手厚くもてなした後、騎馬2頭を引き出し「土産にどちらでもお気に召した方を1頭差し上げましょう。」といった。
清正は志のほどを感謝して「貴殿の目利きで選んでは誠に申し訳ない。取り立てた駒を我らほどの目利きで選んでは誠に申し訳ない。2頭共申し受けるのが礼儀と心得る。」といって2頭を頂戴して帰ったという。
これを伝え聞いた人々はさすが清正公と感じ入ったという。
この時駒を繋いだのがこの桜の木だと伝えられている。

「加藤清正伝」より

(説明板より)

松本藩戊辰出兵記念碑




松本藩戊辰出兵記念碑






(平成20年10月25日)

松本藩戊辰出兵記念碑

新政府は明治元(戊辰)年1月、鳥羽伏見の戦いに勝利すると、徳川慶喜と会津藩へ追討令を発し、東海・東山・北陸道から江戸に兵を発した。
松本藩は征討軍が木曾路を過ぎた2月29日、急遽藩士を二の丸書院に集め、佐幕か勤皇かの帰趨を求めた。
議論白熱衆論決せず、夜半に至って藩主の裁断でようやく帰順に決した。
松本藩はこれ以後官軍の先鋒として宇都宮や北越に転戦して北越・会津戦争の勝利に貢献した。
この碑には戊辰戦争出兵の経過と従軍武士261名の氏名が刻まれている。

(説明板より)

第52回 国宝松本城 お城まつり
平成20年度 第27回 人形飾り物展
大坂夏の陣「袖留橋そでとめばし」の別れ

製作:穂高人形保存顕彰一真会
大和郡山城への転封てんぽうを拒否した豊臣秀頼に対して、再度大坂攻め(夏の陣)を決意した徳川家康(大御所)が諸大名に出陣の命令を下したのは、慶長20年(1615)4月4日であった。
これに応じて、松本城主小笠原秀政ひでまさが270騎の将士しょうしを率いて当地を出立したのは、4月11日、次いで16日には長男忠脩ただなが、二男忠政ただまさが小笠原隼人政直や島立内膳貞正らを伴って松本を立ち、大坂での戦いに行くことになった。
忠脩、忠政ともみずみずしい若武者で、殊に弱冠18歳の忠政は袖つきの陣羽織を着用していた。
この出陣に不吉を感じた彼らの乳母うばは、城下本町境さかい、長沢ながさわ川のほとりまで後を追い、袖にすがって離さず別れを惜しんだ。
さすがの忠政も心がゆらぎためらうものがあったが、意を決して袖を振りちぎって出立し、戦いに向かったという。
残された乳母の手には、忠政の陣羽織の袖が残っていた。
果たしてそれから20日ばかりたった5月7日、大坂天王寺口の大混戦のなかで、秀政・忠脩父子は討死、忠政も重傷を負う悲惨事ひさんじとなった。
長沢川にかかるこの橋は以来袖留橋と言われるようになった。
明治11年この橋が石橋にかけかえられた時緑橋みどりばしと改められ、今もその名前が刻まれている。
なお、大坂夏の陣で父と兄を失った忠政は、元和げんな元年(1615)7月、伏見城で家康に拝謁し父の遺領いりょうを賜り、元和3年7月には2万石加増で播磨明石はりまあかしに転封となった。

(解説板より)
矢狭間・鉄砲狭間




矢狭間やざま・鉄砲狭間てっぽうざま






(平成20年10月25日)

矢狭間・鉄砲狭間

松本城天守が築造されたのは、慶長5年(1600年)の関が原合戦以前である。
そのため武装強化に意が用いられている。
弓や鉄砲を発射する狭間ざまの数が多いのはその現れである。
小さい方形のものを鉄砲狭間、長方形のものを矢狭間と呼び、内側が広く外側が狭い。
蓋のない初期的構造である。
(矢狭間60箇所、鉄砲狭間55箇所)

(説明板より)

渡櫓二階




渡櫓二階






(平成20年10月25日)

渡櫓二階

松本城天守は天守と乾いぬい小天守が渡櫓わたりやぐらで連結し、辰巳附たつみつけ櫓と月見櫓が複合しているので、連結複合式天守と呼ばれる。
渡櫓二階の床面と乾小天守の床面には高低差がなく平であるが、天守床面とは大きな段差があって大変接続がわるい。
南へ向かって狭い3段の階段(1m)を下りた所が、天守一階の武者走むしゃはしり(入側いりかわ)で、天守一階の床面はそれより50cm高く、渡櫓一階は入側より1.4m低い不思議な構造である。

(説明板より)

渡櫓わたりやぐら(天守への入口)

天守と乾小天守をつないでいるのが渡櫓です。
天守閣への入り口である大手口は、頑丈な扉があり、簡単には中に入れないように造られています。
二階には、天守の瓦や、鍛冶屋が1本1本作った和釘わくぎなどが展示されています。

(リーフレットより)

武者走




武者走
(天守一階)





(平成20年10月25日)

武者走

天守一階の周囲1間けん通りは、内側の床より50cm低い。
これを入側いりかわまたは武者走むしゃはしりと呼ぶ。
戦闘の時、武士が矢玉を持ってここを走りまわるのでその名がついたという。
武者走の外側の柱列をよくみると曲線を描いていることがわかる。
これは下の天守台石垣の天端の線が糸まき状曲線に仕上げてあるためである。
この影響は二階にも及んでいる。

(説明板より)

松本城鉄砲蔵(天守二階)

松本城鉄砲蔵

松本城天守は、我が国へ天文12年(1543)に初めて火縄銃が伝わってから、50年後の文禄2年から3年(1593〜94)にかけて築造された。
天守の厚い塗りごめの壁や鉄砲を撃つための数多くの狭間などは、火縄銃の攻防を予想して築かれたものである。
松本市出身の故 赤羽通重氏は、か代子夫人とともに一生涯をかけて、数多くの鉄砲・装備品・文書類などを収集された。
赤羽氏はこの貴重なコレクションを鉄砲戦を想定して築造された松本城に展示することは意義が深いと考えられ、鉄砲141挺をはじめ数多くの装備品や文書類を松本市に寄贈された。
松本市では、平成3年4月に「松本城鉄砲蔵」を開設し、さらに質・量ともに充実した赤羽コレクションを、平成11年3月に松本城天守二階と松本市立博物館とに分けて展示した。
松本城天守には火縄銃の種類や製銃地などを、また松本市立博物館には武器を歴史の流れにそって位置づけて展示してある。

(説明板より)

天守二階




天守二階






(平成20年10月25日)

天守二階

天守二階の母屋もやの中の柱間はしらま(京間寸法)は東西7間、南北6間で、柱に残る小舞こまい穴の痕跡から、この階は8室に部屋割りされていたことが分る。
武者窓(竪格子たてごうし窓)からの明かりも多く、有事には武者達の営所に当てることができた。

(説明板より)

武者窓と突上戸

武者窓と突上戸

天守二階の東・南・西側と四階の東と西側は柱間に5本の竪格子をはめた武者窓である。
格子は4寸から4寸5分(12cm〜13.5cm)の角材を用い、上下の框かまちも大きい。
内側から武者窓を見ると、外光を遮さえぎる明暗の縦縞が大変美しい。
なかでもこの窓が五連あるいは三連の二階南側と東側は城らしく豪壮な感じを受ける。
なお、外側は上部に蝶番ちょうづがいのついた突上戸つきあげどで風雨を防いでいる。

(説明板より)

天守三階




天守三階






(平成20年10月25日)

天守三階

この階は天守二重の屋根裏に設けられているので窓が全くない。
明かりは南側千鳥破風の木連格子きつれごうしからわずかに入るだけである。
そのため当時は「暗闇重くらやみじゅう」と呼ばれていた。
外部からの遮しゃへいが強いので有事には「武者溜たまり」に当てる、との説もあるが普段は倉庫であった。
この階から四階への階段は対角線の位置に2箇所ある。

(説明板より)

御座の間




御座の間(天守四階)





(平成20年10月25日)

天守四階

天守四階は、三階までの各階とガラリと室内の趣が異なっている。
柱が少なく天井が高い上に、四方から外光が入るので明るく広々とした感じを受ける。
柱・鴨居かもい・長押なげしなどはすべて鉋かんな仕上げで、鴨居の上には小壁もあり居室風に設えてある。
敷居しきいがないので建具は用いられていなかったが、幕や屏風びょうぶで仕切れば入側いりかわと二つの部屋に分かれる。
有事の際、六階とともに城主の座所に当てられた場所と考えられる。

(説明板より)

天守五階




天守五階





(平成20年10月25日)

天守五階

天守五階は、中央に3間×3間の大広間を置き、周囲は入側いりかわと4つの破風はふ入込間いりこみまという構成である。
有事には幹部の居所に当てられるものと推定される。
四方に窓が開いていて六階とともに戦況を見るのに都合がよい。
なお、この階の柱は全部で30本あり、すべて創建当時のものである。
うち入側隅柱4本(ヒノキ1、アスヒ3)は六階との通し柱である。
また、北側・東よりの柱には明治修理の際綱をかけて柱を引き起こした擦痕さっこんがある。

(説明板より)

   
六階に登る階段

六階に登る階段(天守五階)

重臣たちが戦いの作戦会議を開く場所と考えられています。
ほかの階にくらべて天井が高く4.54メートルあり、そのために六階に登るこの階段にだけはおどり場が設けられ、階段が緩ゆるやかになっています。

(リーフレットより)

階段

松本城天守の階段は、一階から六階までに7箇所設けられている。
その位置がお互いに離れているばかりでなく、どの階段も勾配が急(55°〜61°)で、特に四階から五階へと登る階段は蹴上げが約40cmあり最も険しい。

(説明板より)

最上階(天守六階)

天守六階

天守六階は周囲に3尺(90cm)通りの入側いりかわが巡る3間の一部屋となっている。
無目敷居が回っているので、畳を敷くことも可能である(階段を除き京間16畳となる)。
有事には最高幹部の司令塔(城主の座所)となるところである。
六階の床面は地上22.1m、堀水面上23.9mあり、東は山辺谷から美ヶ原高原、南は松本市外の中心部と塩尻・木曾方面、西は安曇平が広がり、その向こうに北アルプス(乗鞍岳・槍ヶ岳・常念岳・燕岳など)、北は信州大学・重文開智学校から放光寺・城山方面が一望できる。

寄贈 松本城まつもとおしろロータリークラブ

(説明板より)

最上階から見た景色
辰巳附櫓二階




辰巳附櫓二階






(平成20年10月25日)

辰巳附櫓二階

天守の辰巳たつみ(南東)にあたり、隣接している月見櫓とともに松平直政によって寛永年間に増築されました。
櫓西面の北から2本の柱は天守の柱に添えられていて、付設されたことがわかります。
上方が狭く下方が曲線状にひろがった花頭窓は、禅宗建築とともに鎌倉時代に中国から伝わり、次第に城郭建築にも広がりました。
松本城天守には乾小天守四階にも設けられています。

(説明板より)

花頭窓




花頭窓






(平成20年10月25日)

花頭窓

窓の上方が尖った特殊なアーチ型になった窓を花頭窓かとうまどという。
禅宗寺院の建築に見られる形式で、中国におこり我が国へは鎌倉時代に入った。
それが後には、城郭建築にも広がった。
松本城では乾いぬい小天守四階に4箇所、辰巳附櫓二階に2箇所設けられている。
窓の内側には、引分の板戸が付き、下の敷居には水切りの小穴があけられている。

(説明板より)

月見櫓内部
月見櫓




左手前:月見櫓






(平成20年10月25日)

月見櫓

北・東・南に設えてある舞良戸まいらどを外すと、三方吹き抜けになり、回りに巡らされた朱塗りの回縁や船底型の天井など書院風の造りと相まって、優雅な雰囲気を醸し出し、天守・渡櫓・乾小天守と比べ開放的で、平和な時代に造られたことがよく分る。
この月見櫓は松本城主松平直政(家康の孫)によって、一国一城令という統制の厳しい中、寛永年中に三代将軍家光を迎えるため、増築されたものである。
現存する城郭建築の中で月見櫓を持つのは松本城と岡山城だけであるが、天守と一体となっているのは、松本城だけである。

(説明板より)

 (展示古写真)

松本城古写真(明治35年頃)
明治の修理直前の松本城天守。
荒廃が進み倒壊が心配された。

(説明文より)

 (展示古写真)

明治の修理実施中の天守(明治43年頃)
天守3重以上の修理が済んでいる。
明治の修理が完了したのは大正2年前後10年間かかった。

(説明文より)

本丸水門跡




松本城 本丸 水門跡






(平成20年10月25日)

松本城と城下町

松本城はもと深志ふかし城と呼ばれ、中世には小笠原氏の一支城であった。
そのころすでに今の二の丸東側には市町いちまちが形成されていたが、西方一帯は沼地であった。
本格的な近世城づくりが始まったのは1580年代で、城郭と城下町一体の都市計画を推進したのは、豊臣大名としてこの地に入った石川氏である。
天守を建てたのは2代康長の時で1593〜94年と推定される。
3重の水堀と塁を巡らして郭の縄張りを行い、本丸と二の丸を内郭とし三の丸を外郭とした。
この広さはおよそ39万uで、内郭には天守、御殿、蔵など城主と藩の施設を置き外郭は城主の親衛隊である上級家臣の屋敷地とした。
総延長3.5キロの塁上には隙き間なく土塀をかけ、前面は完全囲繞いにょうの水堀で、厳重な城門を構える虎口こぐち(枡形ますがたと馬出し)だけが城内への通路である。
城外は南から北へ通る善光寺街道に沿って城下町を割り、その東側に寺社を配置した。
城下の町筋は格子状のものより鍵かぎの手やT字型交差が多い。
居住区分は厳格で士さむらいと町人の混住はまったくなく、士屋敷地は木戸の内と外に分けて中級と軽輩の居住区とし、町人地は親おや町3町、枝えだ町10町、24小路にランク付けして、身分と職業によって住まわせた。
左図は城郭の北東上空から南方を望む鳥瞰かん図である。

(説明板より)

 説明板より

松本藩 歴代藩主(6家23代)
石川氏
(1590年〜1613年)
1代 石川数正 8万石
2代 石川康長
小笠原氏
(1613年〜1617年)
3代 小笠原秀政 8万石
4代 小笠原忠真
(先)戸田氏
(1617年〜1633年)
5代 戸田康長 7万石
6代 戸田康直
松平氏
(1633年〜1638年)
7代 松平直政 7万石
堀田氏
(1638年〜1642年)
8代 堀田正盛 10万石(うち、松本藩分7万石)
水野氏
(1642年〜1725年)
9代 水野忠清 7万石
10代 水野忠職
11代 水野忠直
12代 水野忠周
13代 水野忠幹
14代 水野忠恒
(後)戸田氏
(1726年〜1869年)
15代 戸田光慈 6万石
16代 戸田光雄
17代 戸田光徳
18代 戸田光和
19代 戸田光悌
20代 戸田光行
21代 戸田光年
22代 戸田光庸
23代 戸田光則
松本城保存の功労者碑




「松本城保存の功労者」碑






(平成20年10月25日)

松本城保存の功労者

小林有也うなり先生
先生は大阪(和泉国泉北郡伯太村)の出身で、安政2年(1855)藩の江戸屋敷で生れた。
初代松本中学校長として来任し29年間子弟の教育に尽した。
その間、荒廃した天守を憂い、明治34年(1901)天守閣保存会を起こして修理に当たり(12年間)天守を倒壊の危機から救った。

市川量造先生
先生は信濃国松本の人、弘化元年(1844)北深志町下横田で生れた。
明治5年(1872)松本城天守が235両1分と永150文で競売されたのを憂い、幾多の困難を克服して天守を買いもどし、その保存に貢献した。
後に戸長、県会議員等歴任。

(説明板より)

黒門

黒門

本丸に入る正門で、櫓門と枡形からなり、本丸防衛の要である。
一の門(櫓門)は昭和35年(1960)に復興し、二の門と袖塀は平成2年(1990)に復元されました。

(リーフレットより)

一の門(櫓門) 玄蕃石(中央に見える大きな石)
二の門(高麗門) 太鼓門枡形

太鼓門枡形の由来

城の入り口を固く守るためには様々な工夫がなされた。
その典型的なものが枡形門で、石垣・土塀を四角に囲って、外と内に門を二重に構えたものである。
松本城には、大手門・太鼓門・黒門の三つの枡形門があった。
太鼓門は、天守築造後の文禄4年(1595)頃に石川康長によって築造され、それから270余年後の明治4年11月、旧物破壊の風潮の中で取り壊されたままになっていた。
その後第2次世界大戦後になって文化財保護の思想が高まり、松本城国宝保存工事、黒門の復興等を経て、平成11年3月、128年ぶりに太鼓門枡形が復元された。
この門の名称の由来となった太鼓楼は門台北石垣上に置かれ、太鼓や鐘がおかれて様々な合図が発信され、また櫓門の脇には、築造者の官名に因む、重量22.5トンの巨石、「玄蕃石」を控え威風堂々とした枡形門を形造っていた。
一般に城の重要な門には、威厳をそえるため巨石を据えることが多かった。
この玄蕃石も同様な意味を持つものである。
石川康長のころには天守を中心として本丸二の丸(内曲輪)を「御本城」として整備拡充し、三の丸(外曲輪)には武士を集住させるための武家屋敷は建設途上であり、五ヵ所の城戸(柵門)はいずれも櫓門に変えられたが、大手門が枡形門に整えられたのは、康長の改易後に入封した小笠原秀政の治世下と考えられる。

(説明板より)

太鼓櫓内部

復原された太鼓門枡形

松本城には、大手門・太鼓門・黒門の三つの枡形門があり、この中で、太鼓門は大手門に次ぐ規模を誇る枡形門でした。
太鼓門は、一の門(櫓門やぐらもん)や二の門(高麗門こうらいもん)、さらには太鼓楼ろうや番所・土塀からできていましたが、今回復元されたのは、一の門・二の門・土塀の三か所であります。
○一の門(櫓門)
一重二階・木造入母屋いりもや造り・本瓦葺き・白漆喰塗りと黒の下見板張り・櫓部平面積174.64u
○二の門(高麗門)
木造切妻きりづま造り・本瓦葺き
○土塀
屋根塀本瓦葺き・白漆喰塗りと黒の下見板張り・延長62.187m

重厚な壁と本瓦葺きの屋根

一の門の仕上げ壁は、柱間はしらまに丸竹の二重木舞を縄で巻き、外部は白漆喰、内部は真壁しんかべの白漆喰塗りです。
二の門と土塀は、大壁おおかべの白漆喰塗りです。
荒壁打ちは、だんご状にした壁土を手で投げつけるようにして塗ります。
壁土は四賀村の土で、藁わらすさを入れてよく切り返し、1年間寝かせたものを使用しています。
この後、大直おおなおし・中塗なかぬり・漆喰上塗うわぬりを経て壁は仕上がりとなります。
屋根は、岐阜産の瓦を使った本瓦葺きで、下地したじは、軒と土塀以外は土居葺きです。
平瓦ひらがわらの下には、葺き土を置いて瓦の線を揃え、丸瓦の下には、砂漆喰を敷いてあります。
しゃちは高さ90cmで、滋賀県長浜の鬼師が、松本城天守の鯱を参考にして造りました。

伝統的な工法による柱と梁

柱は、県内産の桧ひのき材です。
柱底部と礎石上面がぴったり合うように光づけという方法で調整し、礎石上に鏡柱と脇柱が立っています。
梁は二重梁構造で、敷梁しきばりの上に束柱つかばしらが立てられ、骨梁8本が東西に渡され、骨組みががっちりと組まれています。
この梁は、すべてが県内産の松材の丸太で、しかもみごとなチョウナによる瓜むき肌の削り跡が刻まれています。
また、東西の側柱がわばしらの上に渡っている梁は、いずれも自然の曲がったままの原木を使用しております。
こうした柱と梁の木組みに、日本古来の伝統的な工法が使われています。

(展示パネル説明文より)

二の丸御殿跡

二の丸御殿跡

本丸御殿焼失後、藩の政庁が二の丸御殿に移され、幕末まで中枢機関とされた。
昭和54年から6年間かけて発掘され、史跡公園として整備され、平面復元されました。

(リーフレットより)

 (説明板より)

二の丸御殿絵図
〜発掘調査の結果と「御年寄部屋原図」による〜

二の丸御殿は初め藩の副政庁として造営されたが、享保12年(1727)本丸御殿焼失後は正政庁となった。
廃藩後、一時筑摩県庁舎として用いられたが、明治9年(1876)6月焼失した。

敷地約1900坪(6270u)
建坪約600坪(1980u)
部屋数約50

(説明板より)

明治天皇駐蹕遺址碑




明治天皇駐蹕遺址碑






(平成20年10月25日)

明治天皇駐蹕遺址碑について

明治13年(1880)6月、明治天皇が松本地方へご巡幸になり同月25日には当時この地(二の丸御殿跡)に新築開設された松本区裁判所へお立ち寄りになった。
このご駐れんを光栄とする松本市民は大正10年6月、ここに印された玉址を永遠に伝えるため駐蹕遺址碑を建て、記念とした。
その後、昭和53年に裁判所(長野地裁松本支部)が三の丸に移った。
この地は史跡松本城二の丸御殿跡として整備され公園となった。
その際、この碑は建碑の意に添って現在地に残された。

(説明板より)

土蔵




土蔵






(平成20年10月25日)

土蔵

この土蔵は慶応3年(1867)、新築されたもので当時は御金蔵ごきんぞうとして使用されたという。
明治9年(1876)の旧二の丸御殿(当時は筑摩県庁)火災に焼け残り、その後昭和59年(1984)10月解体修理を完了する。

松本市教育委員会

(説明板より)


【観覧案内】

観覧料:大人600円
公開時間:午前8時30分〜午後5時
公開期間:1月4日〜12月28日


【松本城】

この地に初めて城が造られたのは、戦国初期の永正元年(1504年)と伝えられている。
当時、松本地方を支配していたのは、東山の林城に拠る守護・小笠原氏である。
その一族の島立貞永しまだてさだながが林城の支城として築いた城で、深志城と称した。

やがて、小笠原氏は隣国甲斐かい(山梨県)の武田信玄に追われ、深志城は武田氏の所有となる。
信玄は深志城に馬場信房らを駐屯させて、北信制覇の拠点とした。
武田氏が滅亡すると、代わって木曾義昌が領したが、本能寺の変の後、越後(新潟県)の上杉景勝かげかつが侵入し、小笠原洞雪どうせつを城代に置く。
しかし、上杉氏の占領は1ヵ月余りしか続かず、天正10年(1582年)7月、守護・小笠原家の遺児である貞慶さだよしが遺臣団に奉じられて深志城を攻略。
32年ぶりに旧領を回復するとともに、城の名前も松本城と改めた。

だが、小笠原氏もまた、父祖の地に永住することはできなかった。
天正18年、小田原の役の終結を機に、小笠原氏は下総しもうさ(茨城県)古河こが3万石に移封となり、あらたに8万石で松本に封じられたのは石川数正だった。
今にそびえる天守を松本城に築き上げたのは、この石川数正である。

天守は、五層六階の大天守を中心に、北は三層の乾いぬい小天守が渡り櫓で連なり、東南に巽たつみ付櫓・月見櫓が付属する、見事な連結複合式天守である。
その規模は、長野県内ではむろん最大で、35万石の大藩・彦根井伊藩、あるいは24万石の雄藩・土佐(高知県)山内藩などの天守をも凌駕している。
大天守の総高は実に32メートルで、小藩の天守としては極めて規模雄大なものである。

それだけに、石川氏は築造にあたり、ずいぶん無理を重ねたようで、領民に苛酷な負担も強いたらしい。
石川氏は二代・康長の慶長18年(1613年)に突如、改易かいえきに処されるが、『信府統記』は原因の一つに、身分不相応の城普請、城下町づくりをあげている。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月8日 追記)


【傾いた天守】

松本地方の伝説によると、天守が傾いたのは築城からおよそ100年後のことという。
天和3年(1683年)、松本領内は大凶作に見舞われ、それから数年凶作が続いた。
そのため農民一揆が突発し、中萱なかかや村の旧庄屋加助らが、奉行所に減税と救済を訴え出たところ、藩当局は加助をはじめ首謀者全員を捕え、1ヵ月余りのち、家族ともども死刑に処した。
はりつけ台に晒された加助は、怒りを込めて天守を睨みつけ、「天守を傾けてみせる」と叫んだ瞬間、天守が大音響とともに西南の方に「く」の字型に傾いたという。

昭和25年、勢高せいたか刑場の跡とみられる城山の一角から、松本史談会の手によって18体の人骨が発掘された。
勢高刑場は加助らを処刑するための臨時の刑場だったが、18という人数は当時の記録と合致することなどから、これこそ加助の遺骨であろうということになり、今は現地には塚が建てられている。
しかし、天守が傾いたのと加助の怨念とは何も関係はない。

なぜ天守が傾いたのか。
昭和25年から5年をかけた解体修理の結果、その原因が明らかとなった。
天守の荷重は、普通は天守台の石垣によって支えられるものなのに、松本城の場合は、土台石の下に16尺3寸(1尺は約30センチ、1寸は約3センチ)の支持柱16本を碁盤の目状に配し、更にその下を栂つが材の捨て杭が支えるという構造になっていた。
ところが現場は低湿地帯であるため、栂材が腐朽して上部構造物を支える力を失い、それが原因で天守は傾いたのであった。
このような構造は、松本城独特のものという。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月8日 追記)




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