松波勘十郎 まつなみ・かんじゅうろう (松波良利よしとし

?〜宝永7年11月19日(1711年1月7日)


勘十郎堀


勘十郎堀
(茨城県鉾田市紅葉)




(平成22年1月9日)
勘十郎堀


勘十郎堀
(茨城県鉾田市紅葉)




(平成22年1月9日)

勘十郎堀

勘十郎堀は、涸沼の海老沢から城ノ内を経て巴川の紅葉を結ぶ運河です。
水戸藩3代藩主徳川綱条は、寛文7年(1667)以来、数回にわたり計画、中断していた運河計画を美濃の人、松波勘十郎を登用し、宝永4年(1707)に着工、宝永6年(1709)まで工事を行いました。
この運河は、水戸藩をはじめ東北諸藩の年貢米や物資を、那珂川、北浦などを経て江戸へ運ぶ内陸水路を貫通させ、藩の財政立て直しを図るため計画されたものです。
しかし、土質がもろいなど工事は難航しました。
難工事に動員されたあげく労賃の支払いもとどこおったため、宝永5年(1708)12月、領民代表が江戸におしかけるほどの農民一揆を引き起こし、松波勘十郎は水戸藩から追放され、財政改革は中止されました。
しかし、水戸藩では宝暦5年(1755)工事を再開します。
富田村(旧麻生町)の勧農役、羽生惣右衛門が工事を行いましたが巴川との水位差が大きく断念、「羽生堀」と名付け11月終了しました。

鉾田市教育委員会

(説明板より)


羽生堀の碑


羽生堀の碑
(茨城県鉾田市紅葉)




(平成22年1月9日)

羽生堀の碑と勘十郎堀

羽生堀(はにゅうぼり)の碑は江戸時代の中頃、宝暦5年(1755)に勘十郎堀(紅葉運河)の改修を記念して建てられた。
この改修工事の発起人は行方郡富田村(現 行方市)の羽生惣衛門(はにゅう・そうえもん)で、水戸藩より勧農役に任じられていた。
勘十郎堀は涸沼の海老沢から城ノ内をへて巴川の紅葉を結ぶ運河で、宝永4年(1707)水戸藩の財政改革を担当していた松波勘十郎(まつなみ・かんじゅうろう)が計画し、多くの人々を動員して掘削された。
この運河計画は、水戸藩をはじめ、東北諸藩の年貢米や物資を、那珂川河口〜涸沼から、この運河を経て、北浦・利根川・江戸川経由で江戸へ運ぶ内陸水路を貫通させることをめざした。
しかし、海老沢〜紅葉間の約7.2キロは台地で、水位に差があり、土質はもろく、工事は難行した。
水路を多くの水門で仕切り、舟を人手で引き上げるなど手数がかかり、実用性にとぼしく、未完成であった。
一方難工事に動員されたあげく、労賃の支払いもとどこおったため、宝永5年12月領民代表が大挙江戸におしかけるほどの農民一揆を引き起こし、松波勘十郎は水戸藩から追放され、財政改革は中止された。
勘十郎堀の跡は、当地より北約500メートルの地点で県道の東側に見ることができる。
羽生堀は、水戸藩の農政刷新の一環として、勘十郎堀の改修と再興をはかったもので、碑面には、「名羽生堀」「宝暦五年十一月成就」などと刻まれている。
当地を東日本内陸水路の拠点としようとしたが、成功しなかった先人の努力の記念碑といえよう。

平成6年(1994)3月 鉾田市教育委員会

(説明板より)




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