松根東洋城 まつね・とうようじょう

明治11年(1878年)2月25日〜昭和39年(1964年)10月28日


松根東洋城大洲旧居



俳人 松根東洋城 大洲旧居

(愛媛県大洲市・大洲城二の丸跡近く)





(平成19年11月8日)

俳人松根東洋城 大洲旧居

まゆずみを濃うせよ草くさは芳かんばしき    東洋城

正岡子規没後の日本俳壇の中で、高浜虚子、河東碧梧桐かわひがしへきごどうと並ぶ俳人に松根東洋城がいる。
東洋城は本名を松根豊次郎とよじろうといい、明治11年(1878)2月25日、東京の築地に松根権六ごんろく(宇和島藩城代家老松根図書ずしょの長男)を父に、敏子としこ(宇和島藩主伊達宗城の次女)を母に長男として生まれた。
明治23年(1890)10月父権六が、大洲区裁判所判事として、大洲に赴任するに伴って東洋城も大洲尋常高等小学校に転校して来た。
当時、この屋敷が裁判官判事の宿舎で、明治31年(1898)10月、権六が退官するまで、約8年間、松根家の人々はここに居住した。
東洋城は明治25年、大洲尋常小学校を卒業すると、松山の愛媛県尋常中学校(のちの松山中学校)に入学した。
4年生の時、夏目漱石が英語教師として赴任し、ふたりの運命的出会いが、その後の東洋城の生き方に大きな影響を及ぼすことになった。
俳人東洋城は俳誌『渋柿しぶがき』を創刊(大正8)、多くの同人を指導し、大洲にもしばしば訪れた。
昭和8年(1933)この「大洲旧居」にも立ち寄り「幼時ようじを母を憶おもふ」と次の句を詠んでいる。

さびしさや昔むかしの家の古き春    東洋城

また大洲の東洋城の句碑には、如法寺ねほうじ河原かわら

芋鍋いもなべの煮ゆるや秋の音こえしずか   東洋城

がある。
大洲史談会により平成5年(1993)建立された。
東洋城は戦後、虚子と共に芸術院会員となり昭和39年(1964)10月28日東京で87歳で死去した。
墓は宇和島市金剛山こんごうざん大隆寺だいりゅうじにある。
なお、ここの家屋(平屋建)は、明治2年(1869)4月、大洲城二の丸金櫓跡に建てられたもので、江戸時代末期の武家屋敷の遺構が一部のこされている。

(2004年5月吉日 文責 澄田恭一)

(説明板より)


松根東洋城

松根家の遠祖は、戦国時代の奥州の勇将・最上義光であり、その子・光広が庄内の松根に城を移し、名字を改めて松根備前守となったと伝えられている。

松根東洋城は、明治11年(1878年)2月25日、東京築地で生まれた。
父・権六は宇和島藩の家老・松根図書の長男。
母・敏子は宇和島藩8代藩主・伊達宗城の次女である。
本名は豊次郎。
父が裁判官だったので、東京築地の文海学校から栃木、東京の小学校を経て、愛媛県大洲小学校を卒業した。
愛媛県立尋常中学校(旧・松山中学校、現・松山東高校)に入学し、同校5年生の時、夏目漱石が来任し、英語の教授を受けた。
のち、第一高等学校、東京大学を経て京都大学法学部卒。
宮内省に入って、式部官、宮内書記官などを歴任。
大正8年(1919年)9月退官。
俳句は漱石、子規に学び、高浜虚子と同行して、国民新聞の俳壇の選を虚子から引き継いだが、大正5年(1916年)4月、小説から俳句に復帰した虚子が国民新聞の俳壇の選者を占めたことから、虚子およびホトトギスと絶縁した。
大正4年、『渋柿』を創刊して主宰し、松尾芭蕉を尊び、人間修業としての俳句の境地を説き、連句を重んじた。
昭和29年(1954年)、芸術院会員に推された。
同39年(1964年)10月28日、東京で没する。
享年87歳。

(参考:宇和島文化協会発行 『宇和島の自然と文化(6訂版)』 平成11年)

(平成22年11月30日追記)




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