松尾芭蕉銅像 平成16年2月8日

松尾芭蕉 まつお・ばしょう

正保元年(1644年)〜元禄7年10月12日(1694年11月28日)

三重県上野市 近鉄上野市駅前でお会いしました。


本名は松尾忠右衛門宗房。
伊賀国上野の地侍クラスの農人の子として生れ、津藩の侍大将・藤堂良精よしきよに仕えました。
俳諧は10代半ば頃からたしなみ、北村季吟の指導を受けました。
31歳頃、俳諧師として立つために江戸に下り、翌年談林派の総帥・宗因に認められ、同派の江戸宗匠として活躍しました。
今までの戯笑俳諧にあきたらず、貞享元年(1684年)頃、新たに蕉風俳諧を打ち立て、俳諧を和歌と対等の地位に引き上げました。
旅を好み「野ざらし紀行」「おくのほそ道」などの紀行文を残しましたが、九州に向かう途中、大阪で客死しました。


松尾芭蕉像


松尾芭蕉像

(三重県上野市 近鉄上野市駅前)





(平成16年2月8日)

生家


松尾芭蕉翁生家
(三重県上野市赤坂町)





生家内部



生家内部






釣月軒



釣月ちょうげつ
(生家の敷地内)




釣月軒の由来記

釣月軒は芭蕉翁の生家松尾氏の後園に建てられた草庵である
寛文12年(1672)正月25日 ここで芭蕉は自撰の処女集である「貝おほひ」を執筆し 上野天神に奉納して江戸に下ったといわれている
この「貝おほひ」は「三十番俳諧合」というごとく 芭蕉が郷里の上野の諸俳士の発句に自句を交えて これを左右に番えて三十番の句合あわせとし 更に自ら判詞を記して勝負を定めたものである
書名は遊戯の「貝おほひ」の「合わせて勝負を見る」ところによったもので 序文に「寛文十二年正月二十五日 伊賀上野松尾氏宗房 釣月軒にしてみづから序す」とある通り 伊賀を出て 数年間 季吟門に学び 伊賀に帰った芭蕉が 上野においてこの書を編み 折から菅公770年の忌日にこれを奉納したものと思われる
版行は久しく不明であったが昭和10年天理図書館が所蔵している
本書は29才のときの芭蕉撰集であるとともに 芭蕉の生前中 自署して 自著として刊行した唯一の出版物である
芭蕉は判詞は当時の軽妙な洒脱を自由自在に駆使したもので その闊達で奔放な気分は 談林俳諧の先駆的なものとなったことはいうまでもない
いわば 釣月軒は芭蕉翁立志の端緒をしめす文学遺跡であり 芭蕉文学の思想 作風などの変遷を知る大切なものである

(説明板より)

釣月軒の内部



釣月軒の内部





(平成16年2月8日)

俳聖殿



俳聖殿
(三重県上野市・伊賀上野城内)




(平成16年2月8日)

市指定重要文化財・建造物
俳聖殿

松尾芭蕉の生誕300年を記念して昭和17年(1942)に建てられたもので、下層八角形平面、上層円形平面の木造重層で、屋根は上下層とも檜皮葺きである。
外観は、芭蕉の旅姿を建築に表そうとした建立の発意者故川崎克氏の着想を、伊藤忠太博士の指導により極めてまれにみる和風建築としてまとめたものである。
上層の屋根は、芭蕉の笠、その下部が顔を、下層の屋根は蓑と衣を着た姿で、堂は脚部に、廻廊の柱は杖と脚を表現する。
堂内には、芭蕉の等身大伊賀焼の座像が安置されている。
これは長谷川栄作氏の原像をもって川崎克氏が製作したものである。
(昭和60年3月18日指定)
上野市教育委員会

(説明板より)

芭蕉の坐像



俳聖殿に安置されている芭蕉の坐像






(平成16年2月8日)

芭蕉翁記念館


芭蕉翁記念館
三重県上野市丸之内117−13
伊賀上野城内(上野公園)



(平成16年2月8日)

芭蕉翁記念館

昭和34年(1959)神部満之助氏の篤志寄付により俳聖芭蕉翁を顕彰する事業の一つとして建てられました。
館内の芭蕉文庫には翁の事蹟をはじめ近世〜現代に至る連歌俳諧に関する資料等が数多く保存されています。
展示室ではこれらの資料を展示しています。


延宝8年(1680)冬 江戸・深川の草庵に隠棲
延宝9年(1681) 草庵を芭蕉庵と称し、俳号も芭蕉を用いるようになる
天和2年(1682)暮 八百屋お七の大火で草庵を焼失
天和3年(1683)夏 母親の死を知る
「野ざらし紀行」の旅に出る
貞享2年(1685)春 「野ざらし紀行」の旅を終える
貞享4年(1687)秋 「笈おいの小文」の旅に出る
元禄2年(1689)3月 「奥の細道」の旅に出る(46歳)
元禄7年(1694) 没す(享年51歳)

(平成17年2月1日記)

松尾芭蕉像 平成18年2月21日

東京都江東区・芭蕉庵史跡展望庭園でお会いしました。

松尾芭蕉像



松尾芭蕉像
(芭蕉庵史跡展望庭園)





(平成18年2月21日)

芭蕉翁之像

この像は、芭蕉の古参門人で経済的な庇護者であり、深川芭蕉庵の提供者ともいわれる杉山杉風さんぷう(1647〜1732)が描き、京都の画家 吉田堰武えんぶが忠実に模写した芭蕉翁之像畫により制作したものです。
(原画 岐阜県高山市 加藤功氏蔵)

平成7年4月

(銘板より)

史跡庭園入り口

深川芭蕉庵跡

江東区芭蕉庵史跡展望庭園入り口
(東京都江東区常盤1−1)

開園時間 午前9時15分〜午後4時30分
入園無料


(平成18年2月21日)

深川芭蕉庵

ここ深川の芭蕉庵は蕉風俳諧誕生・発展の故地である。
延宝8年(1680)冬、当時桃青と号していた芭蕉は、日本橋小田原町からこの地に移り住んだ。
門人杉風所有の生簀の番小屋であったともいう。
繁華な日本橋界隈に比べれば、深川はまだ開発途上の閑静な土地であった。
翌年春、門人李下の贈った芭蕉一株がよく繁茂して、やがて草庵の名となり、庵主自らの名ともなった。
以後没年の元禄7年(1694)に至る15年間に、三次にわたる芭蕉庵が営まれたが、その位置はすべてこの近くであった。
その間、芭蕉は庵住と行脚の生活のくり返しの中で、新風を模索し完成して行くことになる。
草庵からは遠く富士山が望まれ、浅草観音の大屋根が花の雲の中に浮かんで見えた。
目の前の隅田川は三つ又と呼ばれる月見の名所で、大小の船が往来した。
それに因んで一時泊船堂とも号した。

第1次芭蕉庵には、芭蕉は延宝8年冬から、天和2年暮江戸大火に類焼するまでのあしかけ3年をここに住み、貧寒孤独な生活の中で新風俳諧の模索に身を削った。

櫓の声波ヲ打つて腸氷ル夜や涙
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
氷苦く偃鼠が咽をうるほせり

天和3年(1683)冬、友人素堂たちの好意で、53名の寄謝を得て、「本番所森田惣左衛門御屋敷」の内に、第2次芭蕉庵が完成した。
草庵の内部は、壁を丸く切りぬき砂利を敷き出山の釈迦像を安置し、へっついが2つ、茶碗が10個と菜刀1枚、米入れの瓢が台所の柱に掛けてあった。
『野ざらし紀行』『鹿島詣』『笈の小文』の旅はここから旅立った。

古池や蛙とびこむ水の音
花の雲鐘は上野か浅草か
蓑虫の音を聞きに来よ草の庵

元禄2年(1689)『おくのほそ道』の旅立ちの際手離された旧庵の近くに、元禄5年5月杉風らの尽力で第3次芭蕉庵が成った。
新庵は、3部屋から成り、葭垣、枝折戸をめぐらし、池を前に南面し、水楼の趣があった。
他に預けてあった芭蕉も移し植えられた。

名月や門に指し来る潮頭
川上とこの川下や月の友
秋に添うて行かばや末は小松川

芭蕉庵の所在地は、元禄10年松平遠江守の屋敷となり、翌11年には、深川森下町長慶寺門前に、什物もそのまま移築されたようである。

平成7年4月
江東区

(説明板より)

芭蕉稲荷神社



芭蕉庵史蹟・芭蕉稲荷神社
(東京都江東区常盤1−3)





(平成18年2月21日)
芭蕉庵跡の碑



「史蹟 芭蕉庵跡」の碑

(芭蕉稲荷神社)





(平成18年2月21日)

深川芭蕉庵旧地の由来

俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝8年から元禄7年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
たまたま大正6年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同10年東京府は常盤1丁目を旧跡に指定した。
昭和20年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和30年復旧に尽した。
しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。

昭和56年3月吉日
芭蕉遺蹟保存会

(説明板より)

江東区芭蕉記念館



江東区芭蕉記念館
(東京都江東区常盤1−6−3)





(平成18年2月21日)
記念館の庭



記念館の庭







(平成18年2月21日)

芭蕉記念館利用案内

芭蕉記念館は芭蕉関係資料の収集及び展示をし、俳句等文学活動の振興を図ることにより区民の文化的向上に資するため設置された施設です。

観覧料 展示室 大人100円

図書室は、芭蕉・俳文学等に関する図書の閲覧ができます。

開館時間 午前9時30分〜午後5時(入館は午後4時30分まで)

休館日 毎週月曜日(但し祝日は除く)

交通 都営新宿線・都営大江戸線:森下駅A1出口(徒歩7分)

芭蕉年譜
年号 西暦 年齢 年譜事項
寛永21年 1644 伊賀国上野赤坂(三重県上野市)に生れる。
幼名金作、長じて忠右衛門、甚七郎を(甚四郎とも)称す。
兄は半左衛門、姉一人、妹三人。
寛文 2年 1662 19 この前後から、藤堂藩伊賀付侍大将・藤堂新七郎良精の嫡子良忠に仕える。
忠右衛門宗房と名乗る。
貞門派の季吟に師事し俳諧に親しむ。
延宝 3年 1675 32 江戸への下向は、前年の冬もしくはこの春か?
延宝 4年 1676 33 夏、帰郷して甥の桃印(16歳)を連れて江戸に戻る。
延宝 5年 1677 34 この頃から神田上水関係の仕事に携わる。
延宝 6年 1678 35 この年もしくは前年春に俳諧宗匠ろして立机。
延宝 8年 1680 37 杉風・卜尺・其角・嵐雪ら優秀な門弟を擁し、江戸俳壇に勢力を確立。
冬、深川の草庵に移る。当初、庵を泊船堂と称した。
この頃、深川臨川庵に滞在中の仏頂禅師と交わる。
延宝 9年 1681 38 春、門人李下から芭蕉の株を贈られる。
これが、庵号・俳号の由来となる。
天和 2年 1682 39 12月28日、駒込大円寺に発した大火(八百屋お七の火事)で芭蕉庵類焼。
天和 3年 1683 40 冬、門人らの寄附金で再建された第二次芭蕉庵に入る。
貞享元年 1684 41 8月、門人千里を伴い『野ざらし紀行』の旅に出る。
伊賀で越年。
貞享 2年 1685 42 4月末、帰庵。
貞享 4年 1687 44 8月、曽良、宗波を伴い『鹿島紀行(鹿島詣)』の旅。
10月25日、東海道を下り『笈の小文』の旅に出る。
郷里で越年。
貞享 5年 1688 45 2月18日、亡父三十三回忌法要に出席。
3月19日、杜国(万菊丸)を伴い、吉野の花見の旅に出る。
8月11日、越人を伴い『更科紀行』の旅。8月下旬に江戸に帰る。
元禄 2年 1689 46 2月末、芭蕉庵を人に譲り、杉風の別墅に移る。
3月、曽良を伴い『おくのほそ道』の旅に出る。膳所で越年。
元禄 5年 1692 49 5月中旬、新築の第三次芭蕉庵に入る。
元禄 6年 1693 50 3月下旬、甥の桃印(33歳)、芭蕉庵で病没。
元禄 7年 1694 51 5月11日、次郎兵衛を伴って上方へ。
6月2日、芭蕉庵で寿貞没。
京、伊賀上野、奈良を経て大阪へ。
9月10日、之道宅で発病。
10月5日、病床を花屋仁右(左)衛門方の貸座敷に移す。
10月12日、午後4時ごろ没。
遺言により遺体を大津の義仲寺に移し、14日に埋葬。

江東区芭蕉記念館の「芭蕉年譜」パンフレットより抜粋


深川めしと天ぷら定食


深川めし+天ぷら定食(2,500円)

(割烹 みや古)

ランチタイムとして「深川めしセット(1,500円)」がありますが、平日のみのセットです。



(平成18年2月21日)
みや古


創業大正13年
深川めし本家
割烹 みや古

(東京都江東区常盤2−7−1)




(平成18年2月21日)

本家深川めしの由来

古来より深川特産のあさりは、種々の調理法があって、池波正太郎先生の作品にも度々登場しております。
剥き身と長ねぎの味噌仕立ての汁かけ丼や、炊き込み飯等がありますが、当店の二代目■義が戦前に調理人として諸国を板場修行をして会得したその体験と味覚を充分に発揮して、あさりの持味を最大限に出し切り加味した、独創的な炊き込みめしが、「深川めし」であります。
戦後は諸般の事情に依り供膳を中断しておりましたが近来は水質も良好となって良質な「あさり」採集されるようになり、再度研究を重ねて風味を一層加えて、食器をも考慮して現在の「本家深川めし」として客膳供しましたるところ、絶大なる御好評を頂きまして、御陰様にて千客万来の賑わいであります。
この上は尚一層の御愛顧を御願い申し上げます。

みや古店主敬白

(説明板より)

※ ■は判読できなかった文字です。


古池の句碑



「古池の句」碑

(東京都江東区・清澄庭園内)

もとは隅田川の岸辺にありました。



(平成18年2月22日)

「古池の句」碑由来

当庭園より北北西4百メートル程の所に深川芭蕉庵跡(江東区常盤1丁目3番・都指定旧跡)があります。
松尾芭蕉は、延宝8年(1680)から元禄7年(1694)まで、門人の杉山杉風の生簀いけすの番屋を改築して、芭蕉庵として住んでいました。
かの有名な「古池の句」は、この芭蕉庵で貞享3年(1685)の春、詠まれています。
この碑は、昭和9年に其角堂きかくどう9代目の晋永湖しんえいこという神田生れの俳人が建てたものですが、芭蕉庵の改修の際、その敷地が狭いので、特に東京市長にお願をしてこの地に移したものです。
従って、この場所が芭蕉庵と直接ゆかりがあると言うことではありません。
なお、当庭園の南東側、海辺橋緑地に採茶庵さいとあん跡がありますが、芭蕉は元禄2年(1689)に「奥の細道」の旅をここから出発しました。

(説明板より)

清澄庭園



清澄庭園きよすみていえん
(東京都江東区清澄3−3−9)





(平成18年2月22日)

名勝 東京都 清澄庭園

この庭園は、泉水せんすい、築山つきやま、枯山水かれさんすいを主体とした「廻遊式築山林泉庭園」で、江戸時代の大名庭園の造園手法を明治時代に引き継がれ、近代化して完成したものです。
この地の一部に江戸の豪商・紀ノ国屋文左衛門みのくにやぶんざえもんの屋敷があった、と言われています。
享保年間(1716〜1736)には下総しもふさ国関宿せきやど城主・久世大和守くぜやまとのかみの下屋敷となり、この頃に庭園の原形が形づくられました。
明治11年、岩崎彌太郎やたろうが荒廃していたこの邸地を含む3万坪(約10万平方メートル)を買い取り、明治13年(1880年)4月「深川親睦園」と命名し、三菱社員の慰安や内外賓客を招き、招待の場として用いることとした。
岩崎彌太郎亡きあと、さらに岩崎彌之助(彌太郎の弟)が庭園に手を加え、隅田川の水を引いた大泉水とし、全国から取り寄せた奇岩名石きがんめいせきを配した造園工事が行われ、明治24年、明治時代を代表する庭園が完成されました。
関東大震災ではこの地域は大被害を被りましたが、この庭園は救いの場となり被害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命が助かりました。
岩崎久彌ひさや(彌太郎の嗣子しし)は、こうした庭園の持つ防災機能を注視し、被害の少ない現在の庭園部分(「深川親睦園」時代の約半分)を東京市に寄付しました。
東京市は、大正記念館・深川図書館などを整備移築し、昭和7年7月24日「清澄庭園」として開園しました。
昭和48年、庭園の西側の隣接地を買収し、昭和52年6月1日から一般の都立公園として開園しました。
なお、清澄庭園は、昭和54年3月31日付で東京都の名勝に指定されています。

開園年月日 昭和7年7月24日
庭園面積 38,967u

清澄庭園管理所

(説明板より)

案内

開園時間 午前9時〜午後5時(入園は午後4時30分まで)
休園日 年末年始
入園料 一般150円
交通(地下鉄) 都営大江戸線・半蔵門線「清澄白河」駅下車 徒歩3分
※駐車場はありません。

芭蕉像 平成18年2月22日

東京都江東区深川・採茶庵跡でお会いしました。

採茶庵跡

採茶庵さいとあん

(東京都江東区深川1−10・海辺橋うみべばし南詰)

芭蕉の門人杉山杉風の別墅べっしょ(別荘)。
平成3年(1991)に芭蕉像が作られ、周辺が整備されました。




(平成18年2月22日)

採茶庵さいとあん

芭蕉の門人鯉屋杉風は今の中央区室町1丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ深川芭蕉庵もその持家であったがまた平野町内の3百坪ほどの地に採茶庵を建てみずからも採茶庵と号した芭蕉はしばしばこの庵に遊び「白露■こぼさぬ萩のうねりかな」の句をよんだことがあり元禄2年奥の細道の旅はこの採茶庵から出発した
昭和33年10月1日江東区第7号

(説明石柱の碑文より)

※ ■は判読できなかった文字を表します。

採茶庵跡




採茶庵跡






(平成18年2月22日)

松尾芭蕉像 平成17年4月9日

滋賀県大津市 京阪石山坂本線・京阪石山駅前でお会いしました。

松尾芭蕉像



松尾芭蕉像
(滋賀県大津市・京阪石山駅前)




(平成17年4月9日)

東海道を旅する芭蕉

松尾芭蕉(1644〜1694)

伊賀上野に生れた芭蕉は42歳(数え年、貞享2・1685)のときはじめて大津を訪れた。
「野ざらし紀行」の旅の途中、大津に滞在していた芭蕉のもとに門弟が集まり湖南蕉門が形成された。
以来、大津が気に入った芭蕉は、木曽塚の草庵(現・義仲寺、大津市馬場1丁目)に仮住まいし、その後(元禄3・1690)近津尾神社(大津市国分2丁目)境内にあった草庵「幻住庵」に滞在し、ここですごした4か月を「幻住庵記」に記している。
旅先の大阪で51歳の生涯を閉じ(元禄7・1694)、遺体は遺言により義仲寺に埋葬された。

旧東海道

旧東海道は、現在位置である石山駅前広場の東端を南北にとおり、江戸幕府による調査記録から、このあたりの道幅は三間余(約6m)あったようである。
石山駅付近の旧東海道沿いには近江八景「粟津の晴嵐」で知られる松並木が広がっていた。

(説明板より)

松尾芭蕉銅像 平成16年2月7日

三重県津市 国道23号線丸之内商店街(歴史散歩道)でお会いしました。

松尾芭蕉銅像



松尾芭蕉翁の像
(三重県津市)




(平成16年2月7日)

松尾芭蕉翁

松尾芭蕉は正保元年(1644)伊賀上野いがうえのの赤坂あかさかで松尾家の次男として生まれました。
子供のころから俳諧はいかいを志す彼は、35歳の頃、江戸で俳諧の宗匠そうしょうとなり、門人もんじんたちから芭蕉庵ばしょうあんがおくられ、名を芭蕉と号しました。
彼は各地を旅し、元禄2年(1689)150日に及ぶ旅で、全国に「奥の細道」を残したあと、伊勢に向かいます。
大垣・桑名を経て津に立ち寄り、岩田川河畔から阿漕浦あこぎうらを望み『月の夜の何を阿子木あこぎになく千鳥ちどり』と詠まれたといわれています。

(説明銘板より)


【痔】

芭蕉は西行を偲んで旅をするわけですが、彼の『おくのほそ道』行に同行したのは門人曾良そら一人です。
西行の時代とは大違いです。
しかも、芭蕉が門人を連れていったのには理由があった。
というのは「芭蕉の長雪隠ながせっちん」という言葉がいみじくもあるように、彼は気の毒にも“痔主じぬしさん”であり、しかも体が弱い。
それで一人旅ができないという事情がありました。
もし、彼が壮健であれば、一人旅をしたはずなのです。

(参考:渡部昇一・谷沢永一 著 『こんな「歴史」に誰がした』 文春文庫 2000年2月10日第1刷)

(平成27年3月16日追記)


松尾芭蕉像 平成19年10月21日

栃木県大田原市・『黒羽芭蕉の館』前でお会いしました。

「那須の黒羽といふという所に知人あれば」とて 松尾芭蕉は『おくのほそ道』行脚の途次黒羽を訪れた。
元禄2年4月3日のことである 途中那須野路にさしかかった折、草刈る男に馬を借りた。
その跡慕う小姫を曽良は
  かさねとは八重撫子の名なるべし
と詠んでいる。
翁は浄法寺図書、鹿子畑翠桃兄弟の厚遇を受け、13泊14日の長期逗留の間に、郊外に逍遥しては歴史・傳統の地を尋ね寺社に詣でて句を残し、あるいは地元俳人たちと歌仙の興行があるなどして、心楽しい日々を過ごした。
そうして黒羽を立った日に
  野を横に馬牽むけよほとゝぎす
の馬上■があった。
これらのことに因み、ここに馬上姿の芭蕉翁と曽良の像を建立し、千歳の形見として敬仰するものである。

平成元年10月21日
黒羽町 芭蕉像をつくる会
国画会会員 
制作 関谷 光生
誇れるまつづくり委員会会長
撰文 蓮実 彊

(碑文より)

芭蕉翁と曽良の像



芭蕉翁と曽良の像

(栃木県大田原市・黒羽城三の丸跡・『黒羽芭蕉の館』前)





(平成19年10月21日)
黒羽芭蕉の館



黒羽芭蕉の館
(栃木県大田原市前田980−1)

松尾芭蕉の黒羽滞在に関する資料館です。



(平成19年10月21日)

芭蕉と曽良像 平成15年7月5日

芭蕉と曽良

福島県白河市 「白河関の森公園」でお会いしました。


白河関の森公園 白河関の森公園の「芭蕉と曽良の像」

白河関の森公園
開園時間:午前9時〜午後5時
休園日:毎週水曜、年末年始
入園料:無料

”白河の関”のすぐ側にあります。
福島県白河市大字旗宿字白河内7−2

(平成15年7月5日)

曽良 そら

1649年〜1710年5月22日
江戸前期の俳人。
姓は高野、のちに岩波・河合を称しました。名は正字まさたか
信濃国諏訪で生れ、伊勢国長島藩に仕えましたが、延宝4年(1676年)〜貞享元年(1684年)頃に江戸に出て吉川惟足よしかわ・これたり・芭蕉に入門し、それぞれから神道・俳諧を学びました。
芭蕉の信任が厚く、「おくのほそ道」の同行者に選ばれました。
晩年は幕府の諸国巡見使の随員に加えられ、壱岐国勝本で客死しました。
最近は幕府の隠密という説もあり、没年月日にも疑義が出されています。

関屋
検問所(関屋)

白河関の森公園にあります。

検問所(関屋)

白河関の唯一の絵画資料は、「国宝一遍聖絵」いっぺんひじりえに描かれた白河関の段である。
一遍上人は、時宗じしゅうの始祖で鎌倉時代の弘安こうあん3年(1280)秋に白河関を越えている。
この一遍の行状絵巻は社会・民族史のかけがいのない資料とされ、古文書等の文献以外の歴史の証左とされている。
この検問所は、国宝一遍聖絵の白河関の場面に描かれた関屋の再現である。
屋根押さえのある板葺き・切り妻屋根の小さな関屋には、板床に円座えんざを敷き、侍烏帽子さむらいえぼしの関守二人が通行人を見張っている。
既に関の機能が停止し、白河庄を支配する鎌倉武士団の結城白川氏に属していた頃の関屋の建物である。

(説明板より)

ビジュアルハウス ビジュアルハウス

白河関公園内にあります。
「白河の関を訪れた歌人たちをグラフィック展示により紹介します」ということでしたが・・・
閉鎖されていて・・・・廃墟!

白河の関



白河の関





(平成15年7月5日訪問)

国指定史跡
白河の関跡

指定年月日 昭和41年9月12日
指定面積 57,897平方メートル
所有者 白河神社・白河市他
管理団体 白河市

白河の関は、古くよりみちのくの関門として歴史にその名を刻みまた文学の世界では歌枕として数多くの古歌に詠まれた場所である。
関の位置については久しく不明であったが、江戸時代中期、時の白河藩主松平定信の考証により、この地が白河関跡であると推定され、寛政12年(1800)に「古関蹟」の碑が建てられ、今日に至っている。
関が置かれた年代については不明であるが、承和2年(835)、延暦18年(799)太政官符には「白河関」の名が認められることや歴史的な背景からみて、大化の改新以後7・8世紀頃には存在していたものと考えられる。
また、廃絶も明確ではないが、12、3世紀頃と考えられている。
昭和34年から38年までに実施された発掘調査では、竪穴住居跡や、掘立柱建物跡、空堀、土塁、柵列などの古代から中世にいたる遺構が発見され、縄文土器、土師器、須恵器、灰釉陶器、鉄製品などの遺物が出土している。
出土した土師器の中には「門、大室、□舟」などの墨書土器がみられる。
白河の関の全体像についてはまだ未解明な点もあるが、現在も奥羽三関の一つとして多くの人々に親しまれ、空堀、土塁などの遺構の一部が現存し、歴史のひとこまに触れることができる場となっている。
また、春には藤やかたくりの花が咲き、訪れる人々の心を和ませている。

文部省
白河市教育委員会

(説明板より)

白河の関跡

白河の関は、勿来、念珠とともに、奥州三古関の一つとして知られている。
5世紀頃に、蝦夷の南下を防ぐ砦として設けられたといわれている。
後に交通検問所となり、辺境の歌枕の地として多くの歌人にうたわれた。
この地を訪れた人々も多く、能因法師、西行などが味わい深い歌を残している。
この能因、西行の足跡をたずね来たのが芭蕉であり、この地は「奥の細道」の始まりの地となっている。

(パンフレットより)

松尾芭蕉と曽良像 平成15年8月3日

宮城県石巻市・日和山公園でお会いしました。

元禄2年(1689)6月26日(旧5月10日)芭蕉が曽良を伴って千石町(旧新田町)四兵衛宅(現石巻グランドホテル)に宿して居る
俳聖芭蕉と曽良の師弟愛を顕彰し記念とする。

昭和63年6月26日 石巻観光協会々長 鈴木義三

銅像製作 日展彫塑家 田畑功
監修 石巻観光協会事務局長 濱尾正剛
鋳造 高岡市 (株)藤田銅器製作所
施行 宮三石材店 宮本新吾

(碑文より)


 平成26年11月23日 

山形県酒田市・日和山公園でお会いしました。







 松尾芭蕉像 
 (山形県酒田市・日和山ひよりやま公園)




(平成26年11月23日)






 句碑 
 (山形県酒田市・日和山ひよりやま公園)




(平成26年11月23日)

松尾芭蕉 

暑き日を海に入れたり最上川  芭蕉

昭和54年酒田ロータリークラブが建立。
元禄2年(1689)奥の細道の途次、酒田滞在中によまれた句。
書は素竜本からとって刻まれた。

(説明板より)







 句碑 
 (山形県酒田市・日和山ひよりやま公園)





(平成26年11月23日)

松尾芭蕉 

温海山や吹浦かけてゆふ涼

元禄2年(1689)芭蕉が奥の細道の途次とじ、酒田の伊東不玉ふぎょう宅で詠まれた句である。
なお芭蕉自筆『おくの細道』によると、「温海山」は「あつみ山」である。
この碑は、天明8年(1788)、酒田の俳人柳下舎寸昌りゅうかしゃすんしょうが、須磨明石すまあかしの俳人武然ぶねんの書で立てたと伝えられる。

平成19年4月 補記

(説明板より)






 句碑 
 (山形県酒田市・日和山ひよりやま公園)






(平成26年11月23日)

松尾芭蕉 

あふみや玉志亭にして
納涼の佳興に瓜を
もてなして発句を
こふて曰 句なきものは喰
事あたはしと戯れけれは
  初真桑四にや断ん輪に切ん    はせを
  初瓜やかふり廻しをおもい出つ  ソ良
  三人の中に翁や初真桑       不玉
  興にめててこゝもとなし瓜の味   玉志
        元禄二年晩夏末

芭蕉が酒田在中の元禄2年(1689)6月23日、市内のあふみやに招かれて、即興の発句会を催した時の作で、芭蕉が懐紙に残しており、本間美術館に保存されている。

(説明板より)







 芭蕉坂 
 (山形県酒田市・日和山公園)





(平成26年11月23日)

芭蕉坂 

昔、鶴岡・酒田間は赤川を走る日通し船で主に往来していた。
旅人は御米置場付近から上陸するとこの坂を歩き、鶴岡街道とよばれる出町・六間小路を通って町へ出た。
古い石段はそれを物語る。
俳聖芭蕉も曽良とともにこの坂を歩いて伊東不玉宅を訪れたのであろう。

昭和63年2月
酒田市

(説明標柱より)







 旧 出町 
 (山形県酒田市日吉町2丁目)





(平成26年11月23日)

 出町でまち 

明暦図や天和3年(1683)巡見使覚書には猟師町りょうしまちと出ている。
元禄以降船場町が栄えると共にできたものであろう。
ここから秋田町に至る通りを鶴岡街道といい、鶴岡から赤川を下ってくる旅人で賑わった。
芭蕉翁もここを通ったものと思われる。

昭和61年3月 (平成7年3月修補)
酒田市

(説明標柱より)



『不玉宅跡』碑 
(山形県酒田市中町1丁目)

昭和35年6月13日建立
酒田観光協会

(平成26年11月22日)

芭蕉遺跡 不玉亭 

元禄2年(1689)の夏、芭蕉と曽良が訪れた伊東玄順(俳号不玉)宅跡である。
象潟行の前後を通じ9泊した「奥の細道」ゆかりの地であり、この間翁は左の名句を残した。
不玉の墓は妙法寺に再建されている。

  暑き日を海に入りたり最上川

  温海山や吹うらかけてゆふ涼

  初真桑四にや断ン輪に切ン

(説明板より)



奥の細道 玉志近江屋三郎兵衛宅跡 
(山形県酒田市中町1−13−1・荘内證券)

(平成26年11月22日)

松尾芭蕉像 平成20年4月12日

福井県敦賀市・気比神宮でお会いしました。

松尾芭蕉像


松尾芭蕉像
(福井県敦賀市・気比神宮)


創立50周年記念 敦賀信用金庫 1982.11.13
富永直樹 作


(平成20年4月12日)

芭蕉像のこと

片雲の風にさそわれて元禄2年3月27日江戸深川の草庵を立った芭蕉は日々旅を■として敦賀に杖を止めたのはその年の8月14日夕刻である
芭蕉はまず待宵のここ気比神宮に詣で月下の社頭で二代遊行上人砂持ちの古例を知り深く感じて「なみだしくや遊行のもてる砂の露」と詠み更に推敲を重ねて
   月清し遊行のもてる砂の上   芭蕉
となし「おくのほそ道」にこの句をとどめた
この由緒深い神域にこの度日本芸術院会員富永直樹氏の創作になる芭蕉像の建立を見たことはこの地に相応しい盛事であり俳諧の誠を伝えて意義が深い
仰ぎ見る芭蕉像には長途の漂泊の果てに得た安らぎの姿をとらえて余すところがない
なお台座正面の芭蕉の句は敦賀市新道野の西村家秘蔵の素龍本「おくのほそ道」の原本より書体を写した

(銘板・碑文より)

句碑



句碑

(福井県敦賀市・気比神宮)

芭蕉翁月五句



(平成20年4月12日)
句碑



句碑

(福井県敦賀市・気比神宮)

なみだしくや遊行のもてる砂の露



(平成20年4月12日)
気比神宮



気比神宮
(福井県敦賀市曙町11−68)





(平成20年4月12日)

御祭神

伊奢沙別命いささわけのみこと、仲哀天皇ちゅうあいてんのう、神功皇后じんぐこうごう、日本武尊やまとたけるのみこと、応神天皇おうじんてんのう、玉妃命たまひめのみこと、武内宿禰命たけうちのすくねのみこと

由緒沿革

伊奢沙別命は、笥飯大神けひのおおかみ、御食津大神みけつおおかみとも称し、2千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境ひもろぎいわさかの形態を留めている。
上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。
仲哀天皇は御即位の後、当宮親謁せられ国家の安泰を御祈願された。
神功皇后は勅命により御妹玉姫命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。
その時に笥飯大神が玉姫命に神憑りして「天皇外患を憂ひ給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずして自ら帰順すべし」と御神託があったという。
文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に玉姫命を平殿宮に部内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。
明治28年3月26日に神宮号宣下の御沙汰に依って気比神宮と改められた。
延喜式神名帳に「越前國敦賀郡気比神社七座並名神大社」とあり、中古より越前國一ノ宮と定められ、明治28年に官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。
当神宮の神領は持統天皇の御代より増封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当神宮の御厨となった。渤海使停宿の処として、天平神護2年(766)勅によって松原客館が建設され、これを、気比神宮宮司が検校した。
延元元年(1336)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ヶ崎城を築いて奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は減ぜられたが、なお、24万石を所領できたという。
元亀元年(1570)4月大神司憲直等一族は国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰燼に帰し、四十八家の祠官三十六坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭儀は廃絶するに至った。
慶長19年(1614)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営されると共に社家八家を復興し、社領100石を寄進された。
この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治39年国宝に指定されたが戦災(昭和20年7月12日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。
その後、昭和25年御本殿の再建につづき同37年拝殿、社務所の建設九社の宮の復興を見て、祭祀の巖修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和57年気比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御世に至って御大典記念気比の社造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至る。

(『北陸道総鎮守 気比神宮略記』より)


芭蕉翁逗留出雲屋敷跡



芭蕉翁逗留出雲屋敷跡

(福井県敦賀市)





(平成20年4月11日)

【おくのほそ道旧跡】
芭蕉翁逗留出雲屋敷跡

月清し遊行の持てる砂の上

元禄2年(1689)、『おくのほそ道』の旅で敦賀を訪れた松尾芭蕉が気比神宮で詠んだ句です。
遊行ゆぎょう宗(時宗)2世の他阿真教たあしんきょう上人が、人々のために自ら砂を運んで参道を整備したという「お砂持ち」の故事を踏まえたものです。
この故事を芭蕉に伝えたのが、ここ唐仁橋こうじんばし町(現相生町)の宿・出雲屋の主人弥一郎です。
芭蕉は福井で再会した神戸洞哉かんべとうさいとともに、中秋の名月の前日、8月14日に敦賀に入り出雲屋に泊まりました。
その夜、月明かりの中を、芭蕉は弥一郎の案内で気比神宮に参詣しました。
芭蕉は出雲屋に、長い旅で用いた笠と杖を残していきました。
出雲屋は早くに絶えますが、その隣家で親戚であった冨士屋が跡を継ぎ、芭蕉宿として多くの文人墨客に親しまれました。
芭蕉の足跡を訪ね、多くの客の投宿したことが『宿句帳』から窺えます。
笠は失われましたが、『芭蕉宿』の宿額等も、芭蕉の残した杖とともに今に伝えられています。

(説明板より)


芭蕉翁月塚



芭蕉翁月塚
(福井県敦賀市・敦賀市民文化センター)





(平成20年4月11日)

気比の海

国々の八景更に気比の月   芭蕉

この句は俳聖芭蕉翁が月下の気比の海即ち敦賀の海のあまりの美しさに感動して詠まれたものである
元禄2年8月14日芭蕉翁は奥の細道の途次名月は敦賀の津でと福井を■った
その道中及び敦賀滞在中の月の句即ち芭蕉翁月一夜十五句が昭和34年大垣市にていわゆる荊口句帳から発見されたその中にこの気比の海の句がありその時はじめて世に出た貴重な一句である
芭蕉翁をして斯く詠ましめた往時の気比の海を偲び翁の求道の誠を頌るにあたり敦賀ロータリークラブ創立25周年の記念事業として荊口句帳より書体を写し茲にこの碑を建立した

昭和57年6月
敦賀ロータリークラブ

(碑文より)


鐘塚



芭蕉翁鐘塚

(福井県敦賀市・金前寺)

元禄2年8月15日
俳人松尾芭蕉訪れる


(平成20年4月12日)
金前寺



金前寺
(福井県敦賀市金ヶ崎町1−4)





(平成20年4月12日)

高野山真言宗 金前寺こんぜんじ々歴

天平8年(736)45代聖武天皇の勅により泰澄大師が十一面観世音菩薩の座像を刻み、本尊として開創(現在金ヶ崎宮の地)
弘仁2年(811)弘法大師(空海)ご留錫あり、その頃は十二坊を有し壮麗であった。
南北朝の延元元年〜2年(1337)にわたる一大血戦の本営となり、足利尊氏の軍に敗れた新田義貞は敗走し、後醍醐天皇の第二皇子尊良親王及び新田義顕は当山観音堂にて自害される。(落城3月6日)
元亀元年(1570)織田信長の天筒山攻めの兵火により堂宇全焼。
寛文2年(1662)現在地に観音堂を再建。
元禄2年(1689)俳聖芭蕉来遊し延元の戦いと沈鐘の物語を聞き
   月いづこ鐘は沈るうみのそこ  はせを  と詠む。
宝暦11年(1761)芭蕉滅後68年目に鐘塚建立。(境内に在り)
昭和20年7月12日(1945)米空軍の爆撃により堂宇寺宝の一切灰塵と化せり。
昭和32年10月 高浜虚子、星野立子ら鐘塚を訪れ
   句碑を訪うおりから月もなかりけり  虚子  と詠む。
昭和63年10月(1988)檀信徒の浄財により、本堂再建す。

本尊 十一面観世音菩薩
脇仏 不動明王  毘沙門天

平成元年3月
掲額

(説明板より)

松尾芭蕉像 平成19年4月3日

岐阜県大垣市・『奥の細道むずびの地』でお会いしました。

芭蕉像と木因翁
芭蕉翁と木因翁

(大垣市・『奥の細道むすびの地』)

寄贈
コーテック株式会社 創立35周年記念
取締役社長 朝田晃年
作 鈴木正道
書 窪田華堂
昭和63年3月27日

(平成19年4月3日)

大垣市指定史跡
奥の細道むすびの地

「蛤はまぐりのふたみに別わかれゆくあきそ」
俳聖はいせい松尾芭蕉がこの地で詠んだ俳諧はいかい紀行「奥の細道」のむすびの句です。
元禄2年(1689)3月27日、江戸深川を出発した芭蕉は、門人もんじん曽良そらとともに奥州おうしゅうから北陸を経て、ここ大垣で「奥の細道」の旅を終えました。
9月6日には、俳友はいゆうの谷木因たにぼくいんや近藤如行じょこうら大垣の俳人たちに見送られ、伊勢神宮の遷宮せんぐう参拝のため、この船町ふなまち港から桑名へ舟で下りました。

(説明板より)

奥の細道むすびの地 大垣

元禄2年(1689)の秋、俳聖・松尾芭蕉は、約5ヶ月の漂泊の旅を、ここ大垣で終えました。
世に名高い「奥の細道」の旅です。
その折、芭蕉は「蛤のふたみに別行秋そ」と詠んで、水門川の船町港から桑名へ舟で下りました。
芭蕉が最初に大垣に訪れたのは、貞享元年(1684)、「野ざらし紀行」の旅の途中、俳友・谷木因を訪ねたのが始まりで、以後3回来垣しています。
芭蕉と木因とは、京都の北村季吟きぎんの門下生でした。
当時、大垣の俳諧は、大垣十万石の城主戸田公の文教奨励もあって、谷木因の指導のもと、大垣藩士らを中心に盛んでしたが、芭蕉の4回にわたる大垣への訪れは大垣俳壇に新風を吹き込みました。
これを機に、「蕉風」俳諧は美濃一円に広がり、以後美濃俳諧としての基礎が固まりました。
明治、大正、昭和、そして平成。
私たちのまち大垣は、奥の細道むすびの地として歴史的な遺産を大切に守りながら、近代的な文化の香り高いまちづくりに取り組んでいます。

(『芭蕉と大垣』パンフレットより)

水門川



水門川

(大垣市・『奥の細道むすびの地』)





(平成19年4月3日)

水門川の歴史

水門川すいもんがわは、大垣市から南流し揖斐川いびがわに合流する運河で、永禄4年(1561)大垣城主氏家直元うじいえなおもとが城池じょうち改築の際に開堀したと伝えられています。
江戸時代に大垣藩初代藩主戸田氏鉄とだうじかねにより改修され、この地方に集散する貨客かきゃくの水運は産業の振興とともに発展し、文化の興隆こうりゅうに大きく貢献しました。
当時は多量の自噴水じふんすいが水門川にそそぎ、清らかな流れをみせ、アユやハエなどの清流魚せいりゅうぎょが泳ぎまわるなど庶民生活と結びつき、広く親しまれ育はぐくまれてきました。
また、この川は大垣城の外堀そとぼりとして幾多の攻防の歴史に秘められた物語も多く、沿線一帯には「奥の細道むすびの地」や「住吉燈台」などの文化財が残され、水と緑の調和の中に詩情豊かな潤いのある風情をたたえています。

(説明板より)

住吉燈台・船町港跡



住吉燈台・船町港跡

(大垣市・『奥の細道むすびの地』)





(平成19年7月13日)

岐阜県指定史跡 住吉燈台
大垣市指定史跡 船町港跡

船町港は、江戸時代から明治時代にかけて大垣城下と伊勢を結ぶ運河「水門川」の河港で、物資の集散と人の往来の中心であった。
明治16年(1883)には、大垣―桑名間に蒸気船が就航したが、昭和期に入ると鉄道の発達に伴い衰退した。
住吉燈台は、元禄年間(1688〜1704)前後に港の標識と夜間の目印として建てられたものである。
高さは約8m、四角の寄棟造りで、最上部の四方には油紙障子をはめ込んであり形全体の優美さは芸術品としても十二分に価値がある。

大垣市教育委員会

(説明板より)

奥の細道むすびの地記念館



奥の細道むすびの地記念館
(大垣市総合福祉会館内)

“記念館”となっていますが、実際には“記念室”程度の展示スペースでした。



(平成19年4月3日)
大垣市総合福祉会館


大垣市総合福祉会館
(岐阜県大垣市馬場町124)

この建物の1階に“記念館”があります。




(平成19年4月3日)

句碑



句碑
(滋賀県長浜市・慶雲館





(平成18年4月8日)

芭蕉の句碑

「蓬莱ほうらいにきかはや伊勢の初たより はせを」と記された日本最大の句碑。
「はせを」とは、松尾芭蕉のこと。
句の意味は、元旦のめでたい蓬莱飾りの時、伊勢から年賀状が届けば嬉しいのだが、と解されている。
芭蕉はこの句を記した元禄7年(1694)この世を去るが、不老不死の象徴である蓬莱と神都である、伊勢の組み合わせは偶然とは思えない。
この句碑が建てられたのは、書家である露城ろじょうが活躍した明治後期と想定される。

(説明板より)


句碑



松尾芭蕉句碑
(愛知県田原市・龍泉寺)





(平成20年4月5日)

寿久三行や馬上尓
        氷る影本うし

尾張藩を追われた愛弟子・杜国とこくを訪ねて貞享4年厳冬、潮風の吹きさらしを保美に向かう芭蕉は、天津畷なわて(豊橋市杉山町大津地内)のあたりで、こう詠んだのでした。
“すくみ行や馬上に氷る影法師かげぼうし
寒風に身のすくむ思いで馬上の自分の姿は氷りついた影法師のようであると言うのです。
一般には初五が『冬の日や』となった句として知られています。
この碑は天明2年10月12日(1782年)芭蕉歿後88年の忌日に田原の俳人たちが芭蕉を偲んでここに建てたもので、蕉門の杉山杉風の採茶庵を復興した、田原藩士平山留蔵(俳名梅人)が建立の中心人物であったという記録が残っています。
尚、当時梅人から施入された芭蕉像一幅と芭蕉自筆の句帖切も当寺に現存しています。

龍泉寺

(説明板より)

龍泉寺



龍泉寺
(愛知県田原市田原町新町82−2)





(平成20年4月5日)

句碑


芭蕉句碑
(和歌山県伊都郡高野町・高野山奥の院)

「父母のしきりに こいし雉子の声」


(平成21年4月9日)

芭蕉句碑



芭蕉句碑
(岩手県奥州市水沢区・水沢公園)





(平成21年11月8日)

芭蕉句碑

傘でおし分見たる柳かな

元禄7年(1694)10月12日松尾芭蕉逝く。
その6月に出された句集「炭俵」のなかの一句「傘でおし分見たる柳かな」を刻んだ句碑で、安永4年(1775)夏草庵と二四庵社中が協力して建てたものである。
はじめは柳町附近にあったものを公園に移したものといわれている。

(説明板より)


終焉の地



「此付近芭蕉翁終焉の地」碑

(大阪市中央区久太郎町3丁目ー5付近)





(平成20年6月17日)
終焉の地



芭蕉翁終焉の地周辺

(大阪市中央区久太郎町3丁目ー5付近)





(平成20年6月17日)

【松尾芭蕉の最期】

キノコ類の食べ過ぎによる消化不良に風邪と過労が重なって旅の途中の大阪で倒れる。
亡くなる3日前に、門人の呑舟どんしゅうに筆をとらせて「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の最終吟さいしゅうぎんを筆記させたという。

(平成17年10月18日追記)


松尾芭蕉の墓


元禄7年10月12日没
芭蕉翁の墓

(滋賀県大津市・義仲寺)




(平成17年4月9日)

芭蕉翁墓

芭蕉翁は元禄7年(1694)10月12日午後4時ごろ、大坂の旅舎で亡くなられた。
享年51歳。
遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来きょらい、其角きかく、正秀まさひでら門人10人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川よどがわを上り伏見に至り、13日午後義仲寺に入る。
14日葬儀、深夜ここに埋葬した。
門人ら焼香者80人、会葬者300余人に及んだ。
其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。
墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸じょうそう筆といわれる。
芭蕉翁の忌日は「時雨忌しぐれき」といい、当時の年中行事で、現在は旧暦の気節に合わせて、毎年11月の第二土曜日に営む。

(「義仲寺案内」チラシより)

義仲寺


義仲寺
(滋賀県大津市馬場1−5−12)





(平成17年4月9日)

義仲寺ぎちゅうじ

義仲寺は、大津市馬場1丁目にあり、旧東海道に沿っている。
このあたり、古くは粟津ヶ原あわづがはらといい、琵琶湖に面し、景勝の地であった。
朝日将軍木曽義仲きそよしなか公の御墓所である。
治承じしょう4年(1180)、義仲公は信濃に平氏討伐の挙兵をし、寿永じゅえい2年(1183)5月、北陸路に平氏の大軍を討ち破り、7月京都に入られた。
翌寿永3年正月20日(4月改元して元暦げんりゃく元年)、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼のりより義経の軍勢と戦い、利なく、この地で討ち死にされた。
享年31歳。
その後、年あって、見目麗みめうるわしい尼僧にそうが、この公の御墓所のほとりに草庵そうあんを結び、日々の供養ねんごろであった。
里人さとびとがいぶかって問うと、「われは名も無き女性にょしょう」と答えるのみである。
この尼あまこそ、義仲公の側室そくしつ巴御前ともえごぜんの後身こうしんであった。
尼の没後、この庵は「無名庵むみょうあん」ととなえられ、あるいは巴ともえ寺といい、木曽塚、木曽寺、また義仲寺とも呼ばれたことは、すでに鎌倉時代後期弘安こうあんごろの文書に見られる。
時代は移り、戦国のころには、当寺も大いに荒廃した。
時に近江おうみ国守佐々木侯は、石山寺参詣の途次とじ、この地を見て、「源家大将軍の御墳墓ふんぼ荒るるにまかすべからず」と、当寺を再建し寺領を進めた。
そのころ当寺は石山寺に、近世に至って三井寺みいでらに属した。
貞享じょうきょう年間(1684〜8)に大修理の記録があり、芭蕉翁がしきりに来訪し宿舎としたのは、このころからである。
元禄げんろく7年(1694)10月12日、芭蕉翁は大坂の旅窓で逝去されたが、「骸からは木曽塚に送るべし」との遺言によって、遺骸を当寺に運び、現在地に墓を建てた。
明和めいわ6年(1769)に蝶夢ちょうむ法師の中興ちゅうこうがあり、その後も、安政3年(1856)の火災、明治29年(1896)の琵琶湖大洪水の後、明治45年と、たびたびの改修が行われたが、大東亜戦争を経て戦後において、寺内全建造物の荒廃その極に達し、潰滅に瀕ひんした。
ここにおいて、昭和40年(1965)、三井寺円満えんまん院より買い取り、宗教法人法による単立寺院とし、寺域を整頓し、朝日堂、無名庵の改築、翁堂の修復をなし、同年の時雨忌しぐれきに昭和再建落慶らっけいの法要を行った。
この再建に要した一切の費用は、東京在住の一個人の篤志とくし家の寄進によったもので、子細しさいは境内けいだいの昭和再建碑に記されている。
昭和51年(1976)、無名庵、粟津文庫を拡張新造し、資料観、手洗所を新築し、防火用水の設備等をことごとく施工した。
古くから当寺内御鎮座の木曽八幡はちまん社の新造遷宮せんぐうは、落慶式前夜に厳修ごんしゅうした。
落慶の法要は昭和51年時雨忌であった。
これらの土木建築及び落慶の一切の費用は、京都に本社を置く一教育出版社の寄進によったのである。
また、山門の新築は昭和60年(1985)である。
本寺は、昭和42年11月、境内全域が文部省より国の史跡に指定された。

(「義仲寺案内」チラシより)

案内

拝観料:大人200円
拝観時間:午前9時〜午後5時(ただし、11月〜2月は午後4時まで)
休日:毎週月曜日(月曜日が祝日、振替休日のときは開門)

(説明板より)


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