7.太平洋航空博物館を見学

(ハワイ)


平成22年(2010年)6月4日

今日は、フォード島にある「太平洋航空博物館」の見学とシンポジウムに参加する。
ここには昨年の12月に“ハシモトさん”と一緒に見学に来ているので2回目の訪問である。
今回は、日本人スタッフによる解説も付いたので、これはありがたかった。(喜)

説明を受ける参加者
零戦!!

今回は、スタッフの案内で、この博物館のすぐ並びにある格納庫も見学させてもらった。
これには感激である!
前回は、こういう場所があることを知らなかったし、勝手に敷地内を歩き回れなかったのである。

整備格納庫
フォード基地滑走路跡
紅白に塗られた塔は、真珠湾攻撃当時から残る管制塔

当時の整備格納庫が現在の博物館のレストア工場となっているようである。
この工場の窓ガラスに真珠湾攻撃時に被弾した弾痕が残っている。
なんで、そのままにしているんだろう?
穴が開いたままでは、雨が降ったら雨漏りするような気がするんですけど・・・(笑)

格納庫内部

整備格納庫にはレストア中の機体がいくつもあった。
うらやましいなぁ〜
実物大のプラモデルを作っているみたいで・・・
こういうの・・・一度やってみたいものである。(笑)

「テッド シーリー大尉の修理工場」
テッド シーリー大尉の修理工場
いかなる戦闘状況や環境下でも、その英雄的行為、創意工夫、精力的な態度、そして技術に
よって飛行機を飛ばし続けた人々を記念し、この展示を捧げます。
航空機整備員は自由と民主主義を守るために、太平洋における第二次世界大戦やその他の
紛争において大変重要な役割を果たしました。

(日本語解説文より)
タイリー デヴィッド “テッド” シーリー大尉 アメリカ海軍
1917〜1980
“テッド”シーリーは、海軍航空史において特筆すべき航空整備の熟練者です。
その仕事は、第二次世界大戦前の複葉戦闘機からF4ファントム ジェット戦闘機まで及びます。

テッドは生まれ故郷のサウスキャロライナの農村地帯を後にして、1936年に海軍に入隊します。
1939年にハワイのフォードアイランド海軍航空基地に転属するまで、補給艦ヴェスタルに乗船
していました。
1940年に真珠湾の航空母艦エンタープライズに乗船勤務となり、ミッドウェエイ海戦に参加後、
航空整備曹長に昇進します。

本土での航空母艦整備部隊とヨーロッパ戦線への転属後、テッドは1944年にハワイに再び
戻ってきます。
バーバーズポイント海軍航空基地に配属され、そこで将来の妻であるヘレン ウィーヴァーという
女性航空整備士と会います。
1945年には組立て修理部門に一時的に准尉として勤務します。

第二次世界大戦後、テッドは曹長として、VP−44(ミッドウェイ海戦で多くの戦果を挙げて有名
となった部隊)等の数多くの部隊で航空機の整備を続けます。
この時期に、彼は昇進を続け、航空整備士としては、最初に上等曹長に選ばれた者の中の1人
となりました。

キューバ危機と米ソ冷戦に対する作戦中に、航空母艦インディペンデンスでの彼の傑出した
整備業績を認められ、1961年に将校に昇進します。
1966年に海軍を退役した後、テッドと妻のヘレンはヴァージニア ビーチへ移り、そこでテッドは
自動車の販売店で、サービスマネージャーとして働きました。

(日本語解説文より)
第一航空母艦修理部隊駐機場
フォード島 1945年
フォード島 整備格納庫 1945年
航空整備員 フォード島

この後、格納庫を出て周辺の見学となる。
アメリカ人スタッフが説明をしてくれた。

アメリカ人スタッフによる解説

当然、英語での説明だが・・・
今回は、日本人の博物館スタッフが同行しているおかげで日本語に通訳してもらえたので助かった。
で・・・彼の解説を聞きながら・・・ふと、思った・・・
この人・・・誰かに似てるんだよなぁ〜
誰だっけ?
口元、口の動き、声の質、喋り方、全体の雰囲気・・・
誰かに似てるんだよなぁ〜
え〜と・・・「L.A コンフィデンシャル」っていう映画に出ていた俳優さん!
え〜と・・・ラッセル・クロウ・・・じゃなくて・・・
どうも名前が思い出せない!
そう、そう、あの人にそっくりなんだけど・・・(汗)
え〜と・・・誰だっけ?(涙)

(後になって、思い出したが・・・ケヴィン・スペイシーさんだった)(笑)
(もっと早く思い出せば、似てますね〜と、話が出来たのに・・・残念)

このあたりに日本軍機が爆弾を落としたとか・・・
コンクリートの傷は、その時の出来たものだとか・・・
相変わらず、よく話を聞いていなかったので・・・(大笑)
確信はないが・・・
そんなことを説明していたような・・・

このフォード飛行場の護岸部分に日本軍機の機銃弾の弾痕が残っているという説明を受けた。

しかし、どう見てもこの「弾痕」は不自然である。
真珠湾を攻撃した攻撃機の後部旋回機銃(7.7mm機銃)による弾痕だというのだが・・・・
いくら超低空を飛ぶとしても、かなりの高速だろう。

後部座席に取り付けられている旋回機関銃から1分間に何発、弾が出るのか知らないけど・・・・・
その飛行機から撃った弾の跡が、こんなに綺麗に一列で、しかも1発1発の弾痕の間隔がこんなに狭いというのは・・・・いかがなものであろうか?
私には、どうしても信じられないのである。

我が参加者の中の従軍経験者に、この話をしたら「そう言われりゃ、そうですよね〜不自然ですよね〜」とおっしゃる。
「そうでしょ?おかしいですよね〜?」
“事実は小説より奇なり”ということもあるから、絶対おかしいとは言えまいが・・・(笑)
理屈的には合わないんじゃないのかなぁ〜
アメリカ側は、「日本軍機による弾痕」と信じているようであるが・・・
いわゆる“ヤラセ”・・・・証拠の“捏造”じゃないのかねぇ〜?(笑)
素直に信じられないんですけど・・・これ。

続いて、バスで周囲をグルリと見学する。

戦艦『オクラホマ』の慰霊碑
碑文(一部)
THIS MEMOEIAL IS IN HONOR AND MEMORY
OF THE 429 MEN OF THE USS OKLAHOMA
WHO SACRIFICED THEIR LIVES FOR
LIBERTY AND FREEDOM

WE ARE FOREVER GRATEFUL TO THOSE WHO GENEROUSLY
CONTRIBUTED TO ESTABLISH THIS NATIONAL MEMORIAL TO THE
USS OKLAHOMA SAILORS AND MARINES WHO PERISHED ON
DECEMBER 7,1941.IT IS OUR HOPE THAT THIS SITE WILL BE A
FITTING AND LASTING REMEMBERANCE FOR ALL WHO COME TO
PAY THEIR RESPECTS AND REMEMBER THE SACRIFICE.

                        USS OKLAHOMA SURVIVORS

MR.VICE PRESIDENT,MR.SPEAKER AND MEMBERS OF THE SENATE
AND THE HOUSE OF REPRESENTATIVES:YESTERDAY,DECEMBER
7TH,1941 ・A DATE WHICH WILL LIVE IN INFAMY・
THE UNITED STATES OF AMERICA WAS SUDDENLY AND
DELIBERATELY ATTACKED BY NAVAL AND AIR FORCES OF THE
EMPIRE OF JAPAN・・・・

                   PRESIDENT FRANKLIN D.ROOSEVELT

簡単な見学を終え、博物館に戻り、昼食は博物館内にある食堂でとることになった。
博物館内には一般見学者用にレストランが用意されているが・・・
我々が案内されたのは展示スペースの裏にある、どうも職員食堂のような場所だった。
ここでバイキングの昼食をいただき、しばし休憩。

職員食堂?

食後、博物館内のミニシアターでシンポジウム。
最初に元軍人の方だと思うが、『ミッドウェーの8つの奇蹟』というテーマで講演がなされた。
日本語の通訳は無し・・・全部英語・・・・(苦笑)
講演会というのは日本語だろうが英語だろうが、私にとってはあまり問題ではない・・・・
いずれにせよ、椅子に座って聴いているうち・・・いつの間にかボ〜ッとしてしまうのである。
私は基本的に集中力がないのである。(大笑)
というわけで・・・・話は半分ぐらいしかわからなかった。(苦笑)

続いてもうひとつ、講演が・・・
講師は戦史研究家のディマジリオ氏である。
彼とは昨年会っている。
、真珠湾攻撃の式典に連れて行ってもらったが、彼の不審な行動に嫌気がさして“ハシモトさん”と二人で途中で帰ったという経緯がある。
そのため、米海軍基地では日本人2人が基地内で行方不明になったと大騒ぎとなったそうだが・・・(苦笑)
この時のトラブルのそもそもの原因は彼なのである。
その彼が講師とはねぇ・・・・“ここで会ったが100年目!”である。(笑)

講演内容はミッドウェー海戦の一般的な話。
この時、博物館で日本語のボランティアガイドをしているハワイ在住の日本人がいきなり通訳に指名された。
日本語に通訳して頂けるというのはありがたいのだのだが・・・・
ディマジリオ氏・・・長々と得意然として“語る”のである。
もっと細かく分けて話さないと通訳できないじゃないか・・・・
と・・・思ったら、案の定・・・通訳はディマジリオ氏の話した半分程度しか日本語に訳せない。
いきなり指名されメモも取れない状態なので、これは仕方がないことである。
相変わらず自分勝手な人である・・・デイマジリオは・・・
で・・・私が写真を撮るために立ち上がった途端・・・彼が驚いたような表情をした。
ヘッヘッヘッ・・・驚いたかい?
今回、日本側参加者に私も加わっておるのだよ!(大笑)

講演が終わって、質疑応答・・・・
まず最初の講演に対して、日系米国人の参加者から疑問が出た。
それは、戦艦『榛名』がミッドウェイで沈没したというような説明がスクリーンに表示されたからである。
「戦艦榛名はミッドウェーでは沈没していませんよ。あれは東京で終戦を迎えているはずです」とのこと。
(正確には広島県の呉で終戦を迎えている)
これに対して、一番目の講演会の講師は本を掲げて、「この本にそう書いてあったから・・・」との答え。
おい、おい、そういう答えってあるの?(苦笑)
質問者は繰り返し、間違っていることを強調した。
よく言った!その通り!!
私はこの質問者に盛大に拍手を送る。

続いて、日本の魚雷についての質問が別の米国人参加者から出た。
一瞬、誰も答えない・・・・
一応、パネルディスカッションのつもりか、日米双方から代表が前面の椅子に陣取っていたが・・・誰も答えられない・・・
質問は日本の魚雷の要目のようである。
直径がいくらで、航続距離はいくらだったんだ?・・・・という質問のようである。
う〜ん・・・私も詳しくは知らないが・・・・
もしかしたら、九三式酸素魚雷のことかな?
あれは・・・直径61センチなんだよなぁ〜2万メートルくらい走行できたはず・・・
しかし、61センチって何インチ?(笑)
インチとかフィートとかヤードとかという単位がわからない。
九一式航空魚雷なら・・・直径は45センチだけど・・・(汗)
う〜ん・・・これでは駄目だ・・・代わりに答えてあげようと思ったのだが・・・断念。(笑)

ようやくディマジリオ氏が答えたが・・・
彼が言っている数値が正しいかどうかは検証できない。(インチやヤードを換算できないから・・・)
あ〜あ〜ここで彼をギャフンと言わせてやろうかと思ったが、英語が出来ないから・・・駄目だぁ〜(笑)
なんとも情けない話である。

日本側参加者の中には“歴戦の勇士”がおられる。
ミッドウェー海戦に参加した零戦パイロットの“ハラダさん”や夜間戦闘機月光でB−29の迎撃をしていた“カワベさん”などである。
こういう方の講話をしたほうが米国側にとっても有意義だったのではあるまいか?
“ハラダさん”は紹介されて簡単にお話しをされたが、事前の打ち合わせをしていなかったのか、要領を得ない話で終わってしまったのは残念。
ちょっと、企画がお粗末だったように感じる。

シンポジウム後は自由時間・・・・
ミュージアムショップを見て時間をつぶすが、昨年来た時に、欲しいものはみんな買っちゃったのでこれといって欲しいものはない。(笑)

日米合同の夕食会

夕食は、我々のホテルのすぐ近くのホテルで日米合同の食事会。
元太平洋艦隊司令長官の副官(?)が奥様を同伴してやってきた。
その奥様があまりにも美人なので・・・ポカ〜ンと口をあけて見とれていたら・・・(大笑)
「私の家内です」と紹介された。
いや、こりゃ、どうも・・・
情ないことに私は「こんにちわぁ〜」としか言えない。(涙)
「あまりにお美しいので見とれていました」とか・・・(笑)
「映画の女優さんのようですねぇ〜」とかと言えたら、話は面白かったのだろうが・・・
情ないことに・・・・英語が出来ない・・・・
トホホ・・・である。


   


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