源頼政 みなもとのよりまさ

長治元年(1104年)~治承4年5月26日(1180年6月20日)


平安末期の武将・歌人。
源三位げんざんみ頼政・源三位入道と称する。
摂津源氏の流れをくみ、摂津国渡辺(現:大阪市中央区)を本拠とした。
白河院判官代となり、保延2年(1136年)従五位下、蔵人となる。
久寿2年(1155年)兵庫頭。
保元の乱では後白河天皇側に加わった。
平治の乱では、はじめは源義朝に与したが、離反して平清盛についた。
清盛の厚い信頼もあり、仁安元年(1166年)正五位下に叙され、その後も昇進を続け、治承2年(1178年)に従三位となる。
治承4年(1180年)には以仁王もちひとおうを奉じて反平氏の兵を挙げたが失敗し、宇治で敗死する。
弓の名人で歌人としても有名。
『新古今集』にも入集している。

(参考:『日本史人物事典』 山川出版社 2000年5月 第1版第1刷発行)



頼政神社
(群馬県高崎市宮元町143)

(平成26年11月16日)






 狛犬
 (頼政神社)





(平成26年11月16日)

頼政神社

元禄8年(1695年)松平右京大夫輝貞公(大河内氏)が高崎藩主に封ぜらるや、同11年(1698年)其の祖先源三位頼政公を祀って城東石上寺境内(現在東京電力営業所のある所)に頼政神社を建てた。
宝永7年(1710年)輝貞公越後村上に転封せらるるや、社も亦其の地に移され、数年にして享保2年(1717年)高崎に再転封されるや社はまた現在地に移されたのである。
頼政公は、平安末期に、源家の正統に生まれた武将にして歌人である。
白河法皇に擢んでられて兵庫頭となり保元、平治の乱に功をたてた。
後に剃髪して世に源三位入道と称す。
後年以仁王を奉じて平氏の追討を図り事破れて治承4年(1180年)宇治平等院で自刃した。
家集『源三位頼政卿集』がある。
又、宮中で鵺ぬえを退治した話は有名である。
当社の祭礼は、例年頼政公自刃の日、5月26日に行われ旧藩時代は上野随一の祭であったと云われる。

高崎観光協会

(説明板より)





 頼政神社保存会記念碑
 (大正大修築記念碑)

 (頼政神社)




(平成26年11月16日)

【碑文】

頼政神社保存會記念碑  従三位勲四等大河内輝耕篆額
大正十三年頼政神社修築工竣ル頼政公ハ舊藩主大河内家ノ祖ナリ元禄十一年輝貞公ノ
初メテ此地ニ封セラルルヤ尊祖ノ念深ク社殿ヲ城東ニ建テテ奉祀セラレシガ寶永七年
村上ニ轉ジ社モ其地ニ移サレ享保二年再ビ此地ニ移封セラルルニ及ビ城南烏川ノ畔ヲ
相シテ造營セラレシヲ當社ノ創始トス市民ノ崇敬厚く毎歳三回祭典ヲ行ヒ神輿渡御流
鏑馬等ノ儀アリキ爾来二百餘年殿宇稍ク頽廢セシカバ大正八年氏子總代温故會扇光會
ノ有志相圖リテ修築ヲ企テシニ市内及各地ノ人士爭ヒテ資ヲ獻ジ金巨萬ヲ得タリ経營
全ク成リ輪奐ノ美舊ニ復シ神庫社務所等ニ至ルマデ觀ヲ改メサルナシ神徳ノ人心ニ感
孚スルニ非レバイカデ斯ク子来ノ誠ヲ致スベキ恭シク惟フニ公源家ノ正統ニ生レ文武
ノ譽高ク名ヲバ雲居ニ揚ゲシカド平家暴横ノ世ニ遭ヒ木隠レテ月ヲ見椎ヲ拾ヒテ■ヲ
度リ隠忍自重歌詠ニ託シテ時ノ到ルヲ待チ給ヘリ不幸宇治ノ一戰ニ埋木ノ花咲ク事モ
無クテ扇芝ノ露ト消エ給ヒヌレド源家ノ再造ハ専ラ公ガ義ヲ唱ヘシ功ニ由ルサレバ餘
慶ハ延イテ後胤ニ及ビ華冑ニ列シ榮爵ヲ享クルニ至ル烏川ノ流ハ洋々トシテ盡キズ公
ノ裔孫亦益々繁延窮リ無カルベシ庶幾ハ神霊長ヘニ此ノ山紫水明ノ地ニ鎮リ座シテ上
ハ皇室ヲ護リ下ハ民■ヲ憐ミ給ハンコトヲ
茲ニ修築ノ次第ヲ敍シ并セテ獻金者中正會員以上ノ氏名ヲ碑陰ニ勒シテ永遠ニ傳ヘン
トス

昭和三年九月  従四位勲三等文學博士松井簡治撰
            湖舟僊史 加部雅司書
              藤澤群黄刻






 頼政神社移築記念碑
 (頼政神社)





(平成26年11月16日)

【碑文】

国道17号線拡幅に因る頼政神社の移築工事が竣工した。
抑当社の境内地は2091坪余あったが国道新設の時1170坪余取られ更に故あって132坪を高崎公園(以前は頼政公園と云った)に割愛し今回304坪余を国道に提供したので残り484坪余の狭隘な土地になってしまった。
工事は昭和49年1月着工、先ず社殿敷地である丘陵の移動に始まり長さ各所合わせて延246米に及ぶ石積工事をして敷地を造成し本殿、幣殿、拝殿、八幡社、稲荷社、水舎、社務所を曳家し物置を新築した。
更に水天宮碑、下仁田、奧越、鎮西各役戦死者招魂碑、内村鑑三碑、堤辰ニ碑、須藤椿荘碑、大正大修築記念碑、石灯篭6基、雨水受け水槽2個、鳥居2基、階段大小8ヵ所、参道石畳67米を移動又は新築した。
更に又本殿を塗替え彫刻の彩色を享保の昔に復元した。
その外境内周辺に土塀2ヵ所、鉄柵及び欄干を新設した。
又工事の関係にて欅や彼岸桜の大木を含む樹木約50本を伐採したので新たに欅、松、桜、楓、椎、楠、躑躅等120本余を植え境内の面目を一新した。
因に本工事に要した総工費は4100万円に達した。

昭和50年5月26日
頼政神社氏子総代 堤 克敏 撰




 トップページに戻る   人物と史跡のリストに戻る

SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu