源義家像 平成18年2月19日

源義家 みなもと・よしいえ

長暦3年(1039年)~嘉承元年7月4日(1106年8月4日)

東京都府中市・大國魂神社前けやき並木でお会いしました。


源頼義の長男で、八幡太郎と称します。
前九年の役で父に従い、その功績により康平6年(1063年)出羽守に任じられました。
永保3年(1083年)陸奥守・鎮守府将軍。
後三年の役に介入し、清原(藤原)清衡を援助して鎮圧しました。
朝廷はこれを私闘として行賞を認めなかったため、私財を将士に提供しました。
このことで武家の棟梁としての名声が逆に高まり、東国武士団との主従結合は強化されました。
承徳2年(1098年)正四位下に叙され、院昇殿を許されましたが、晩年は嫡子義親が追討されるなど、朝廷内で苦しい立場におかれました。


八幡太郎源義家像



『八幡太郎 源義家公』像

(東京都府中市・けやき並木)





(平成18年2月19日)

源義家公とけやき並木

国の天然記念物「馬場大門けやき並木」は、九百四十有余年前、源頼義公・義家公父子が奥州平定の「前九年の役」の途次、大國魂神社に戦勝を祈願し、同役平定後の康平5年(1062年)勝利の報賽として、神社にけやきの苗木千本を寄進したことにはじまる。
その後、徳川家康公により、補植されて現在の姿になったが、この場所にあった周囲9メートルに及んだ大けやきは、頼義公・義家公父子が奉植されたものと伝えられ、ご神木として氏子から敬愛されていた大けやきであった。
その大けやきも、度々の暴風雨と、近くは昭和24年のキティ台風によって、幹や大枝が折れ、その後、残った幹の空洞内の出火で枯死してしまった。
義家公は、清和源氏に発する河内源氏の嫡流として、7歳の時、岩清水八幡宮で元服、よって八幡太郎と号したが、前九年の役・後三年の役で卓抜した武勇をあらわした公の代に、源氏の武威の最盛期を迎えた。
このような大国、武蔵の国の国府であった府中、大國魂神社、けやき並木と源義家公の史実を後世に伝えるため、当時の若さあふれる公の像をこの地に建立するものである。
この「八幡太郎源義家公之像」が府中の歴史を伝え、永く市民各位の心に生き続けることを願いたい。
制作は、高岡市在住、勅許御鋳物師藤原朝臣喜多家第30代当主の三男、喜多敏勝先生 題字は、財団法人日本書道美術院審査員、鹿島敬帆先生の揮毫による。

平成4年3月28日
創立30周年記念事業
東京府中ロータリークラブ

(説明板より)

けやき並木



けやき並木

(東京都府中市・大國魂神社前)





(平成18年2月19日)

大国魂神社と馬場大門ばばだいもん欅並木けやきなみき

馬場大門ケヤキ並木は大国魂神社の参道であり、江戸時代には並木北端(都立農業高校付近、ケヤキ並木南端から550m余北)大国魂神社の木製の一之鳥居が建立されていました。
現在では昭和26年に寄進された大鳥居(二之鳥居)が境内に建立されています。
ケヤキ並木の起源は源頼義・義家父子が奥州・阿部氏反乱(「前九年の役」と呼ばれ、永承6年〔1051年〕から康平5年〔1062年〕までの乱)の平定の途中、大国魂神社に戦勝を祈願し、平定後も参拝してケヤキの苗千本を奉植したのが始まりと伝えられています。
現在のケヤキ並木は天正18年(1590年)に徳川家康が江戸に入り、慶長年中(1596年~1615年)に二筋の馬場を寄進し、両側に土手を築いてその上にケヤキの苗を植えたのが始まりです。
その後、寛文7年(1667年)に老中 久世大和守くぜやまとのかみが府中宿の大火(正保3年〔1646年〕)で焼失した六所宮(大国魂神社)の再興とともにケヤキ並木の補植を行っています。
なお、徳川家康によるケヤキ並木馬場の寄進は、府中で伝統ある馬市が開かれていたことにもよります。
とくに、府中の馬市は戦国時代から江戸時代初期にかけて、関東でも有数の軍馬の供給地であり、馬市は5月3日の「駒くらべ」の日から始まり、9月晦日みそかまで5ヶ月にわたって開催されました。
ケヤキ並木は大正13年、国の2番目の天然記念物に地域指定されています。
毎年5月の例大祭(くらやみ祭)では、3日にケヤキ並木で夕方から囃子の競演、競馬式(駒くらべ)が執り行われています。

大国魂神社・府中市観光協会

(説明板より)

 平成15年6月14日

福島県いわき市の「勿来の関」でお会いしました。

勿来の関 勿来[なこそ]の関






平成15年6月14日訪問
”勿来の関”の石畳 勿来の関の石畳

勿来関
勿来関は、もと菊田(いわき市南部の古名)関と呼ばれ今を去る千五百有余年前に設置されたといわれ、白河関・念珠関と並んで奥羽三古関の一つとして名高い関所である。
これを「勿来」すなわち「来るなかれ」と呼んだのは平安中期ごろからであり、北方の蝦夷の南下をせきとめるためであったと言われている。
又平安初期の弘仁2年、いわき地方の駅路(官道)廃止にともなう通行止めを監視する関とする説もある。
平安時代も終わりに近い後三年の役のとき陸奥守源義家が、その平定のため奥州に下向する途中ここにさしかかる。
折りしも盛りの山桜が春の山風に舞いながら路上に散りしいていた。
行く春をおしむかのように、武将の鉄衣に舞いかかる桜の花にさすがの義家も今はただ余りの美しさに駒をとどめ

吹く風を 勿来の関と 思えども
道もせに散る 山桜かな

と詠じたのが、勅撰の千載和歌集に載せられ勿来関の名を今の世に伝えている。

いわき市

(説明石碑文より)


いわき市勿来関文学歴史館 いわき市勿来関文学歴史館

いわき市勿来町関田長沢6-1

開館時間:午前9時~午後5時
休館日:毎月第3水曜日(祝日にあたる場合はその翌日)及び1月1日
観覧料:一般320円、大・中・小210円、小学生160円

(平成15年6月14日訪問)

この文学歴史館は和歌に興味がない人には不向きかもしれません。
和歌に関するものしか無いと言って過言ではないと思います。
勿来関の近くにあるのですが、勿来関や源義家などに関する展示はありませんでした。


訪問記
20年ぶりに訪れましたが・・・あまりの変わりように驚きました。
勿来の関は、ごく一部が昔の雰囲気を留めているだけにすぎません。
文学歴史館が建ち広い駐車場が整備され、面影も何も残っていません。
当時はどうなっていたのか、思い出せずに終わってしまいました。
「整備」とはこういうことをすることなのだろうか?

 平成15年6月14日

JR常磐線・勿来駅前でお会いしました。

(説明板より)

八幡太郎義家像の設置
いわき市では、調和と潤いのある街づくりを推進するために、市民とともに彫刻のある街づくりを進めております。
この像は、勿来の歴史的シンボルとして勿来の方々と市が共同で設置しました。

八幡太郎義家
源義家(1039~1106年)は、平安時代後期の武将であり、当代随一の武者、他に武将の典型とされます。
前九年の役(1051~1062年)と後三年の役(1086~1087年)において奥州の内紛を平定し、以来東国の武将は源氏を棟梁と仰ぎ、源氏が東国を地盤にその政権を築く基となりました。
また義家が勿来の関を詠んだ詩歌が伝承され、後に千載和歌集に選入されております。


※銅像には北郷悟氏の作、2000年に設置という名板が付いていました。

勿来駅 JR常磐線・勿来駅

小さな駅です・・・・

雲立のクス



雲立のクス
(静岡県浜松市・浜松八幡)




(平成16年11月28日)

雲立くもだちのクス

昭和27年4月1日県指定天然記念物
浜松市教育委員会

楠の巨樹で、地上1.5mの幹回り約13m、根元回り14m。
枝張り東西約21m、南北約23m、樹高約15mあり、幹の下部には大きな空洞がある。
幹は地上1.5mのところより数枝に分かれ、古木の部は樹勢が衰えているが、新生部はすこぶる旺盛で枝葉は四方に繁茂している。
永承6年(1051)八幡太郎義家が当八幡宮に参籠の折り、樹下に旗を立てたとの伝承から「御旗楠」と称された。
また、元亀3年(1572年)徳川家康は三方原合戦に敗れ、武田軍に追われてこの楠の洞穴に潜み、その時瑞雲が立ち上がったとの古事により「雲立の楠」と称されるようになった。

(説明板より)


 (関連商品のご紹介)

源義家  八幡太郎  前九年の役  後三年の役



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