宮部鼎蔵 みやべ・ていぞう

文政3年(1820年)〜元治元年6月5日(1864年7月8日)


幕末期の尊攘派志士。
肥後国上益城かみましき郡西上野村の医師・宮部素直の子。
叔父の増美に兵学を学び、その養子となる。
熊本藩に出仕するが、嘉永4年(1851年)吉田松陰と各地を遊歴。
時務策の建言が採用されず、しばらく隠棲。
文久3年(1863年)、上洛し御親兵総監になるが、8月18日の政変後、“七卿落ち”に同行した。
翌年、萩藩主の雪冤のため上洛し、池田屋で同志と会合中、新撰組に襲われ自刃した。


吉田松陰来遊の地



吉田松陰来遊の地

(青森県弘前市・養生幼稚園)





(平成21年11月2日)
松陰室


吉田松陰来遊の地
(松陰室)
(青森県弘前市・養生幼稚園)

松陰室の見学には予約が必要です。
見学料 100円



(平成21年11月2日)

弘前市指定史跡
吉田松陰来遊の地 附松陰室
昭和53年2月1日指定

嘉永5年(1852)3月1日、幕末の動乱の中で近代日本の夜明けを模索した歴史的背景のもとで、若き情熱の志士吉田松陰が東北遊歴中に宮部鼎蔵とともに、勤王と海防の志をもった津軽藩士伊東広之進(号は梅軒)の居宅、すなわちこの地を訪れ、国事及び津軽藩の軍事、教育について論じた記念すべき地である。
松陰の訪れた一室は「松陰室」として大切に保存され、明治以降弘前市の青少年教育に大きな役割を果たした場であるが、建造物としても宝暦6年(1756)「御家中屋舗建家図」に見られる近代武家住居の貴重な遺構である。

管理者 財団法人 養生会
弘前市教育委員会

(説明板より)

養生幼稚園



学校法人 養生学園 養生幼稚園
(青森県弘前市元長町19)





(平成21年11月2日)

保存樹木

樹種 アイグロマツ
指定 第1号
指定年月日 平成3年2月19日
所有者 財団法人 養生会

説明
ここは、津軽藩憂国の志士伊東梅軒(広之進)の屋敷跡にあたり、樹幹は堂々として樹形極めて優れている。
嘉永5年(1852年)吉田松陰が当所を訪れ、梅軒と会見したとされ、中に松陰室も存在する。
推定樹齢250年。

弘前市

(説明板より)







「贈正四位宮部鼎蔵先生邸址」碑

(熊本県熊本市内坪井町5)





(平成23年2月7日)

碑文

維新回天ノ皇猷ヲ翔翼シ身ヲ挺シテ國難ニ殉ヘタル東肥ノ先輩鮮シトセス田城宮部鼎蔵先生實ニ其ノ巨擘タリ偉矣田城子孝忠鍾一身死為護國鬼生爲尊皇臣先生ノ大節炳乎日ノ如シ郷人碑ヲ熊本城下ノ邸址ニ建ツ噫是先生ヲ千古ニ尚友セントスル所以ナリ

昭和九年四月
蘇峰徳富猪一郎撰
東郊菊池直人書

宮部鼎蔵旧居跡

文政3年(1820)〜元治元年(1864)
鼎蔵は七瀧村(御船町)の医師の家に生れたが、叔父丈左衛門について山鹿流の兵学を学び、嘉永3年(1850)その跡を継いで藩の兵法師範役となった。
のち江戸に出て諸国の志士と交遊し、帰国後は林桜園について国学を学んだ。
藩の勤王党の重鎮として文久3年(1863)京に上り、全国の勤王派の中心となって国事に奔走した。
池田屋で倒幕の密議中、新撰組に襲われて自刃した。
ここは鼎蔵が兵法師範役の頃の旧居で吉田松陰も訪れたことがある。

熊本市

(説明板より)






宮部鼎蔵旧居跡
(熊本県熊本市内坪井町5)





(平成23年2月7日)



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