宮城県護国神社

宮城県仙台市青葉区川内1番地


宮城県護国神社 平成21年11月9日

由緒

明治天皇の思召しにより明治維新から大東亜戦争に至るまで、幾多の戦役で我国の平和と繁栄を念じつゝ、尊い生命を御国に捧げられた郷土出身者の御霊を祀る。
明治37年8月27日ここ仙台城(青葉城)本丸址に招魂社として創建され、昭和14年内務大臣指定護國神社となり、昭和20年7月仙台大空襲の戦火により社殿施設を全焼したが、戦後多くの困難を乗り越えて現在の姿に復興した。
現在、宮城県出身戦歿者をはじめ、元第二師団管内(福島、新潟、山形の一部)戦歿の御祭神5万6千余柱をお祀りしている。
[神社本庁包括別表神社]

御本殿

当社の御本殿は、日本民族の祖神と尊ばれている伊勢神宮の外宮「風宮かぜのみや」の旧御正殿で、昭和28年の神宮式年遷宮に際し、戦災で消失した当社御本殿の御復興にあたり、神宮の特別の思召しをもって昭和30年東北に初めて下げ渡された極めて尊い御殿である。
建築様式は唯一神明造(特徴:掘立式で棟の左右を棟持柱で支える)で伊勢神宮よりそっくりそのまま御移築したものであるが、お屋根は萱葺を銅板葺に改めてある。
宮城県、仙台市の最も誇りとする建物である。

(「参拝記念」カードより抜粋)

あゝ特攻の碑




「あゝ特攻」の碑






(平成211年11月9日)

航空特別攻撃隊

航空特別攻撃隊は、帝国陸海軍が大東亜戦争末期の危急存亡のとき、己が生命をかえりみずに航空機に爆弾を抱き、敵艦船等に体当たりをし壊滅的打撃を与え、戦況を挽回すべく編成された部隊である。
組織的な作戦では、昭和19年10月フィリピン・レイテ沖海戦で海軍により初めて実施された。
この神風特別攻撃隊は10月25日の出撃で大きな戦果を挙げ、当社御祭神の第一神風特別攻撃隊若桜隊指揮官・海軍少尉・中瀬清久命が散華されて軍神と称えられた。
また、昭和20年4月3日神風特別攻撃隊第三銀河隊・海軍大尉河合達視命(元志波彦神社・塩釜神社宮司河合繁樹氏御子息)が宮崎基地から沖縄南方へ出撃・散華された。
神風は特攻の代名詞となっている。
陸軍の特攻隊は、昭和19年11月フィリピンで大戦果を挙げた富嶽隊などを嚆矢とし、海軍とともに艦船攻撃を始め本土防衛の任にあたった。
昭和20年5月11日第51振武隊隊長・陸軍大尉荒木春雄命(当県出身)が知覧基地から沖縄方面へ出撃、散華された。
沖縄戦では、特攻基地として海軍では鹿屋・串良・国分、陸軍では知覧・万世・都城などから出撃し、大勢の若者たちが大空に散華された。
特攻攻撃期間は約10ヵ月。
特攻の戦没者総数4379名。
内、海軍2535名、陸軍1844名。
この像は、愛する祖国と郷土、そして最愛の人々を護るため散華されたすべての勇士の慰霊と顕彰のため「財団法人 特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会」が製作し、全国52の護国神社へ奉納されたものの一体である。

平成19年10月23日
宮城縣護國神社

(碑文より)

鎮魂の泉




『鎮魂の泉』






(平成21年11月9日)

『鎮魂の泉』

この『泉』は、我国の今日の平和と繁栄を念じつつ遥かなる異国の戦場で力の限り尽くされ、ついに一滴の水も飲めず散華された郷土出身56,000余柱の御祭神に、青葉城本丸下180メートルの地中より汲み上げた水を、四六時中捧げ御霊が永久に鎮まられますよう作成した。
石組みは、「宮城の山河」をモチーフにし、武運長久を祈願された産土(うぶすな)神社より奉納された石、及び激戦地ガダルカナル島、ビルマ、硫黄島、グアム、サイパン、テニアン、■昌(中国)、占守島(中千島)等御祭神ゆかりの戦跡の石、砂、さんご礁等を用いて大東亜戦争終結50年を記念し建立した。

平成7年8月15日

(説明板より)

英霊顕彰館




英霊顕彰館






(平成21年11月9日)
主な展示資料

真珠湾攻撃
   海軍中佐 鈴木三守(中田町出身)
   真珠湾にて戦死
米国太平洋艦隊の主力を壊滅させたハワイ真珠湾攻撃において第一次攻撃隊空母加賀雷撃隊第二中隊長として活躍するも被弾、遂に敵艦に体当たりをして散華した。

■マレー作戦
   陸軍兵長 清野主馬男命(亘理町出身)
   英領マレー・ジョホールにて戦死。
千人針(清野隆男氏所蔵)
出征する軍人にお守りとして贈られたもの。「千里を行き、千里を帰る」と伝えられる虎の図柄を一針ずつ縫い付けてある。

ガダルカナル作戦
   陸軍大尉 安田憲一命(亘理町出身)
   ガダルカナル島にて戦死
随感禄及び随想録(安田忠彦氏所蔵)
昭和16年12月より自筆の日誌に、戦陣における一部始終を書き残している。中でもガ島での記述は過酷な戦況を克明に描写している。

フィリピン防衛作戦
   陸軍兵長 高田利喜治(仙台市出身)
   フィリピンにて戦死
高田利喜治命の遺言状(靖国神社所蔵)
宮城刑務所の刑務官として奉職中召集をうけ、この遺言状を遺した。妻つきさんは戦後亡き夫の言葉を胸に6人の子供たちの養育に努めた。

乗艦と共に
   海軍中佐 齋藤哲三郎命(角田市出身)
   外南洋にて戦死
齋藤哲三郎命関係資料(浅山みの氏所蔵)
手紙は五十鈴の航海長・齋藤中佐の最期を、当時部下だった竹下哲夫氏が綴ったものである。齋藤航海長は沈みゆく五十鈴の甲板で「若い者は再起を図れ」と乗組員に退去を命じたのち、自らは艦と運命を共にした。最後の瞬間まで微笑みと敬礼は崩さなかったという。

特攻作戦
   海軍大尉 小野寺徳治命(栗原市出身)
   沖縄方面にて特攻戦死
小野寺徳治命遺書(小野寺博重氏所蔵)
「日本に生を稟けし男子が御盾となりて散るぞ嬉しき」

アジアの独立
   三浦襄命(仙台市出身)
   バリ島にて自決
「独立を約束できず謝罪のため人柱となる。屍を越えて独立を獲得せえよ」とバリ島民に告げ、自決。同島民には今なお『バリ島の父』として記憶される。

(リーフレットより)

英霊顕彰館展示物

大日本帝国海軍 軍艦超精密模型展

(平成21年11月9日訪問)




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