平成23年2月7日

宮本武蔵 みやもと・むさし

天正12年(1584年)(?)〜正保2年5月19日(1645年6月13日)

熊本県熊本市・武蔵塚公園でお会いしました。


江戸初期の剣術家。
二天一流の租。
生誕地は美作・播磨国説などがある。
実像の詳細は不明だが、13〜29歳に60回余の他流試合を行い、一度も負けなかったという。
佐々木小次郎との巌流がんりゅう島の決闘後、剣理の追究に努め、寛永17年(1640年)から熊本藩主・細川忠利の客分となり、『五輪書』を書き上げた。
書・画などにも才能を発揮。
江戸時代から歌舞伎『敵討巌流島』や浄瑠璃に取り上げられ、吉川英治著『宮本武蔵』は青年剣豪の武蔵像を一般に定着させた。







宮本武蔵像
(熊本県熊本市北区龍田町弓削・「武蔵塚公園」)





(平成23年2月7日)

宮本武蔵

武蔵は天正12年(1584)播磨国(現兵庫県揖保郡太子町宮本)に生まれた。
幼名を弁介と云い、後に武蔵と改め、また晩年には二天道楽とも号した。
大小二刀を用いる二天一流を創始して後世剣聖と仰がれた兵法者である。
13歳のときから28、9歳のときまで諸国を歴遊し、60余回も勝負したが一度も敗れなかったという。
吉岡一門との戦いや、佐々木小次郎との試合は特に有名である。
寛永17年(1640)武蔵57歳のとき、細川忠利公に客分として招かれ軍事政治の顧問として仕えた。
翌年、忠利公の命で武道の奥義に関する「兵法三十五箇條」を上書した。
また、武蔵は武術だけではなく、茶、禅、書画三昧の日々を送り文人としても名高く水墨画など名品を残している。
忠利公没後、金峰山西麓の霊巌洞れいがんどうにこもり、五輪の書を著した。
この他、武蔵が臨終の7日前にしたためたものに「独行道どっこうどう」がある。
正保2年(1645)5月19日、武蔵62歳にして熊本千葉城の自宅で没した。
武蔵は生前の遺言によって主君の参勤交代を見守るため、甲冑かっちゅうを帯し六具ろくぐに身を固め立見たちみの姿でこの地に葬られたと伝えられている。

また一説には、天正10年(1582)美作国(現岡山県英田郡大原町宮本)に生まれたとも云われている。

(説明板より)

二天一流(五方の形)

武蔵は、自分の剣法を五輪の書“地の巻”にて二天一流と名付けている。
二天一流の二天というのは、武蔵が晩年に泰勝寺たいしょうじの春山和尚しゅんざんおしょうから与えられた、「二天道楽どうらく」の頭文字の二天からなる。
五方の形かたは、二天一流の基本となる形である。

(説明板より)

五輪書

五輪の書は二天一流の基本的伝書で、序につづき「地の巻」「水の巻」「火の巻」「風の巻」「空の巻」の五巻からなり、武蔵独自の兵法観及び二刀流の太刀筋を述べ、兵法の基礎的なものから人間形成の道まで、自分の修行の課程から得たものを集大成した実践の書である。

地の巻
まず、地の巻には二天一流の基本的な考え方を説きながら兵法の道のあらましを述べている。
剣術だけでは、まことの剣の道を知ることはできない。
大きいところから小さいところを知り、浅いところから深いところに至る基本的な道を示し、目的のためにあらゆる手段を合理的に活用する法則を明らかにしている。
最初の1巻を地の巻と名づけ、8項目にまとめてある。

水の巻
武蔵はこの巻で、武蔵の修練した二天一流の剣法のすべてと主体的に力を養う修練の方法を精神と肉体の両面からいかに鍛錬するかについて、36項目に渡って詳細に説いている。
二天一流(兵法)を実践するにあたっての精神(水の心)のあり方を説き、実際に剣を使って闘うときの心得を、勝負の体験を具体的にふまえて説明している。
また一対一の勝負だけではなく、多戦の合戦においても社会生活全般においても原則として通用するものであり、ただ見るとかまねるとか言ういい加減な理解ではなく、自ら見極め、よくよく研究(工夫)することを心がけるべしとしている。

火の巻
この巻は、実戦の場に臨んで敵に勝つための駆け引き(戦法)を書きあらわしており、「水の巻」の応用編といえる。
火は大きくも小さくもなり変化が激しいように戦いや勝負のことを火に思いなぞらえている。
変化が激しく一瞬を争う合戦はこうしたことをよく考え、日々習熟して、いざというときもいつもと変わらずに戦うことが兵法の急所であると述べている。
また、合戦の道は、一人と一人の戦いも万人と万人との戦いも同じことである。
大局を洞察し、しかも細心によく吟味してみるべきであるとも述べている。
武蔵がきびしい鍛錬と実戦によって見出した「兵法の理」を27項目にまとめてある巻である。

風の巻
風というのは昔風とか今風とか言うようにその時の社会の動向を示し、それぞれの家風などに使われている。
武蔵はこの巻で、他流の内容を9項目にわたって比較し、二天一流の本質を明らかにし、正しい剣の道のきわめ方を力説している。
他をよく知らなければ自己を知ることはできない。
さまざまな事を行うのに下道(よこしまな心)という心があるが、日々その道に励んでも内容が外れていれば自身では正しいと思っても客観的には真実の道ではない。
真実の道をきわめないと、初めの少しのゆがみがあとには大きくゆがむものであるとも述べている。

空の巻
武蔵の到達し得た「空」の境地をむすびの言葉として書き著している。
この巻では、武蔵の勝負を超越した心の深奥しんおうをのぞくことができるだけではなく、武士としての心と正しい兵法の道の修練・鍛錬を通じた人間形成の目標を伝える武蔵の精神の真髄が語られている。
武士は、兵法の道をしっかりと会得し、その他の武芸の知恵を学び武士としての正しいあり方をよく心得、心を迷わすことなく朝鍛夕練ちょうたんゆうれんにつとめ心しん・意(知恵と気力)を磨き、観かん・見けん(判断力と注意力)を養い、すべて備わることにより、はじめて、一切の雑念を拭いさった空の心に到達することを悟らなければいけない。
武蔵の求道者としての人間愛を感じざるを得ない巻である。

(説明板より・一部省略)






武蔵塚
(熊本県熊本市北区龍田町弓削・「武蔵塚公園」)





(平成23年2月7日)





「独行道」の碑
(熊本県熊本市北区龍田町弓削・「武蔵塚公園」)





(平成23年2月7日)

 碑文

宮本武蔵先生獨行道に就て

正保弐年五月十二日(1645年)武蔵は自己の死期の数日後に迫るを覚り病床に於て自ら筆を執りて獨行道と題し辞世或は自戒の心を以ってか次の二十一ヶ条書せり此碑は其の直筆を写し建設せしものなり

獨行道

一 世々の道をそむく事なし
一 身にたのしみをたくまず
一 よろずに依怙の心なし
一 身をあさく思世をふかく思ふ
一 一生の間よくしん思はず
一 我事において後悔をせず
一 善悪に他をねたむ心なし
一 いずれの道にもわかれをかなしまず
一 自他共にうらみかこつ心なし
一 れんぼの道思いよる心なし
一 物毎にすきこのむ事なし
一 私宅においてのぞむ心なし
一 身ひとつに美食をこのまず
一 末々代物なる古き道具を所持せず
一 わが身にいたり物いみする事なし
一 兵具は格別よの道具たしなまず
一 道においては死をいとわず思う
一 老身に財宝所領もちゆる心なし
一 仏神は貴し仏神をたのまず
一 身を捨て名利はすてず
一 常に兵法の道をはなれず

正保弐年五月十二日
   新免武蔵
       玄信(花押)

(説明板より)







宮本武蔵の旧居跡
(熊本県熊本市中央区千葉城町・熊本西年金事務所)




(平成23年2月7日)

宮本武蔵の旧居跡

寛永17年(1640)肥後藩主細川忠利ただとしの招きにより小倉から客分として熊本に来た宮本武蔵は、17人扶持、300石を受け千葉城跡(この付近)に住んでいた。
剣術及び兵法を指南し、美術工芸にも秀作を残した。

(説明標柱より)


 平成23年2月8日

熊本県熊本市西区松尾町・岩戸の里公園でお会いしました。






勝ち運を呼ぶ武蔵像
(熊本県熊本市西区松尾町・岩戸の里公園)




(平成23年2月8日)

勝ち運を呼ぶ武蔵像

剣聖 宮本武蔵は天正12年3月(1584年)岡山県英田郡大原町宮本に於いて、父、新免無二斎、母お正の次男として生まれた。
武蔵は13歳の時、藩州平福で新刀流、有馬喜兵衛との戦いに打ち勝って以後諸国を巡って剣の道一筋に錬磨しその間、京都一乗寺下り松での吉岡一門との戦いをはじめ29歳で九州船島(巌流島)に於いて佐々木小次郎と決闘し、60余度の勝負に一度も負けることは無かった。
それ以後は、天下を周遊し50歳にして兵法を究め57歳で肥後藩主、細川忠利公の知遇を得、客分として熊本に招かれた。
寛永20年(1643年)武蔵は生まれ故郷の岡山県宮本村(現在、大原町)に風景が良く似た金峰山麓、岩殿山霊巌洞に籠もり五輪書、兵道鏡、独行道を書き上げ又、書、絵、彫刻、等にも「二天」と称し優れた数多くの作品を遺して正保2年(1645年)5月19日、熊本の千葉城址で62歳の生涯を閉じた。
平成15年NHK大河ドラマ「武蔵MUSASHI」の放映記念とテレビ放送開始50周年に感謝して地元熊本市ではこの地に、「勝ち運を呼ぶ武蔵」として、座禅像を計画、武蔵の生誕地岡山県大原町と、晩年を過ごした、熊本城に向けて建立するものであります。
武蔵は60余度の勝負に勝ち続けたのは勝ちたいと言う執念と綿密な計画、用意周到に実践した結果とされています。
戦後、我が国の復興に大きな影響をもたらしたのも矢張り日本国民に武士道の精神があったからと言われます。
現在の社会に失われつつある道徳心、自立心、強い精神力を武蔵に肖り、自己研鑽し、霊巌洞に籠り、したためた五輪書を紐解き、その極意を現代社会未来へと継承して行き、この武蔵像が人々に勝ち運を与えることを願ってここに武蔵の座禅像を建立するものであります。

平成15年5月吉日
武蔵未来の会

(碑文より)


霊巌洞

二天一流の由来

二天一流は世に言われている二刀流ではありません。
剣聖宮本武蔵は生涯を行雲流水の求道の旅で終り、30才の前半を諸国の兵法者と戦い、51才に至る約20年は史実的に全く空白で東西に剣客の旅を続け、寛永17年に肥後の細川忠利侯に招かれ細川藩軍事顧問として肥後千葉城に居住し、忠利侯の命をうけ「兵法三十五箇条」を献上しました。
その2年後に兵法三十五箇条を骨子とした五輪書をこの霊巌洞に籠り執筆し、正保2年5月12日寺尾勝信に伝授、寺尾信行には三十五箇条を授与し師範家相続の証としました。
以来二天一流は五輪書で確立し師範家は5流派に分かれ藩外不出として栄え江戸末期には、野田、山尾、山東の3流派のみ継承されその後明治から昭和にわたり断絶或いは再興し、県外流出の流派もあり、現在では師範家は野田派のみ連綿として熊本に現存しております。
野田派では毎年5月19日の武蔵の命日に霊巌洞で、6月12日の寺尾信行の命日に寺尾信行の墓前で、五方の形、二刀太刀、一刀太刀を奉納し先師の霊を弔らい道場では朝鍛夕練の精神で二天一流の鍛錬を続けております。

野田派 二天会会長 大浦辰男 記

師範
第16代 志岐太一郎
第17代 一川格治
第18代 神尾宗敬
第19代 大浦辰男
      井上光芳
準師範 松並 学
達士   田畑正春
 仝   大塚利徳
 仝   一川 一
鍛士  雨森保隆

門人一同

(由来碑より) 






霊巌洞
(熊本県熊本市西区松尾町・雲巌禅寺内)




(平成23年2月8日)

千数百年の昔より、この霊巌洞に安置されているのは石体四面の馬頭観音である。
中央の岩壁に『霊巌洞』とあるのは、雲巌寺の開祖、東陵■■(王に永と王に興)(1285〜1365)の篆刻である。
宮本武蔵が、ここ霊巌洞に参籠し『五輪書』を書き始めたのは寛永20年(1643年)彼が60才の秋のことであり、その後「1645年」5月12日門人、寺尾孫丞勝信に『五輪書』を授けた
「神佛は尊し、されど神佛は頼まず」武蔵がその波乱に満ちた生涯を静かにふりかえり、剱の道をまとめあげるには、絶好の場所であったらう。

1998年 晩秋
    大仙哲翁 記

(説明碑・碑文より)






五百羅漢
(熊本県熊本市西区松尾町・雲巌禅寺内)




(平成23年2月8日)

五百羅漢

熊本の商人 渕田屋儀平の願により安永8年「1779」から享和2年「1802」まで 24年間かかって奉納したといわれている。
永年の風雨による自然崩壊や明治初頭の廃仏毀釈、1889年の大地震の破損等で完全なものは約半数に減っている。
羅漢とは釈迦の教えを聞いて悟りをひらいた俗体の弟子達のことであり、釈迦の信仰と共に羅漢も信仰の対象とされるようになった。
五百羅漢の一つ一つの姿を注意してみると必ず自分の身内にそっくりな顔を見出すことができるとの言い伝えがある。

平成2年早春  大仙哲翁

(説明石碑・碑文より)






雲巌禅寺
(熊本県熊本市西区松尾町平山589)




(平成23年2月8日)

雲巌禅寺 由来記

南北朝の頃、中國からの帰化僧 東陵永?によって再興されたものです。
1365年入寂 東陵の倚像は、重要文化財に指定されています。
当寺の本尊である四面観音像は行基菩薩の作と伝へられております。
境内には、渕田屋儀平が24年の歳月をかけて奉納したといふ五百羅漢を始め十六羅漢等が安置され、又 宮本武蔵が「神仏は尊し、されど神仏を頼まず」と云ふ心境で書いた 五輪書の霊巌洞があります。

平成元年11月吉日   雲巌大仙記

(説明石碑・碑文より)







伝・宮本武蔵供養塔
(熊本県熊本市中央区・立田自然公園)




(平成23年2月7日)

伝・宮本武蔵供養塔

いつからともなく宮本武蔵の供養塔とよばれていますが、古い五輪塔の残欠を集めたものです。
春山和尚の墓の隣にあり、和尚が武蔵の葬列に引導を渡したという言い伝えから、この伝承が生まれたものといわれています。

(説明標柱より)






立田自然公園(泰勝寺跡)入り口
(熊本県熊本市中央区黒髪4−610)




(平成23年2月7日)

立田自然公園(泰勝寺跡)

この公園は、細川家の菩提寺として建立された泰勝寺跡です。
寛永14年(1637)細川三代藩主忠利が泰勝院(泰勝院とは初代藩主藤孝の法名)として建立。
四代藩主光尚の時、京都より大淵和尚を住職として招き泰勝寺と改めました。
ここには、細川初代藩主藤孝夫妻と二代忠興、その妻ガラシャの墓である「四つの御廟」をはじめ、藩主や住職の墓、細川家にゆかりのある宮本武蔵の供養塔などがあります。
その他、苔園、国指定天然記念物の立田山八重クチナシ、茶室「仰松軒こうしょうけん」などがあり、昭和38年(1963)には県の名勝及び史跡に指定されています。

熊本県

(説明板より)




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