平成21年11月6日

宮沢賢治 みやざわ・けんじ

明治29年(1896年)8月27日〜昭和8年(1933年)9月21日

岩手県盛岡市・材木町商店街でお会いしました。


岩手県出身。
裕福な質屋の長男に生まれ、盛岡高等農林に学んだ。
在学中から日蓮宗の熱烈な信者となり、真宗信者の父母にも改宗を迫ったが拒絶され、大正10年(1921年)に上京して自活する。
布教に従事し、童話の創作にも励んだが、妹トシの病気により帰郷。
稗貫ひえぬき農学校教諭となる。
大正13年(1924年)、『春と修羅しゅら』『注文の多い料理店』を刊行したが反響はなかった。
昭和元年(1926年)に農学校を退職。
羅須地人らすちじん協会を設立し、農民に献身する生活を送ったが、昭和3年(1928年)病に倒れた。
「雨ニモマケズ」は病床で手帳に書いた晩年の理想像である。
「銀河鉄道の夜」も死後未定稿のまま発見された。


宮沢賢治像


宮沢賢治像
(岩手県盛岡市・材木町商店街「い〜はと〜ぶアベニュー」)

宇野 務 作
平成5年3月 建立



(平成21年11月6日)

宮沢賢治文学碑



宮沢賢治文学碑

(岩手県盛岡市・盛岡城・岩手公園)





(平成21年11月7日)

碑文

宮沢賢治

「かなた」と老いしタピングは
杖をはるかにゆびさせど
東はるかに散乱の
さびしき銀は聲もなし

なみなす丘はぼうぼうと
青きりんごの色にくれ
大学生のタピングは
口笛軽く吹きにけり

老いたるミセスタッピング
「去年こぞなが姉はこゝにして
中学生の一組に
花のことばを教へしか」

孤光燈あーくらいとにめくるめき
羽虫の群のあつまりつ
川と銀行木のみどり
まちはしづかにたそがるゝ

賢治

宮澤賢治「岩手公園」碑

宮澤賢治(1896〜1933年)は、岩手県花巻の地に生まれた。
その生涯は、熱烈な法華経信仰に生き、詩人・童話作家・科学者・農民指導者として、21世紀を予見し秀れた作品を今日へと托し、37歳の若さで世を去った。
文語詩「岩手公園」は、死期迫る1ヶ月前の、昭和8年(1933年)8月22日に病床で清書し終わった、「文語詩稿一百篇」中の一詩である。
作中の「タッピング」は、明治41年(1908年)から大正9年(1920年)まで、盛岡バプティスト教会牧師だった、米国人ヘンリー・タッピングがモデルである。
「ミセスタッピング」は、夫人のG・F・タッピングで、教会附属の盛岡幼稚園を創立した。
「大学生のタッピング」は息子のウィラード・タッピングで、「なが姉」はヘレン・タッピングである。
賢治は、盛岡高等農林学校の1年の時、級友を誘ってタッピング氏の聖書講座を聴講している。
散策中に出会った賢治の印象深い感懐が、美しい街の風景と重なり、詩品高い文語詩となった。
この碑は、「賢治の詩碑を岩手公園に建てる会」によって、昭和45年(1970年)10月21日に除幕された。

(説明板より)




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