水沢城 みずさわじょう

岩手県奥州市水沢区


源頼朝が平泉藤原氏を滅ぼした後、陸奥の実権を握った葛西氏も、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの呼びかけに応じなかったため、秀吉軍に攻められて石巻城で最期を遂げた。
その後は、木村秀俊が治め、水沢城には家臣・松田太郎左衛門、岩谷堂には溝口外記を置いた。
しかし、悪政のため、薄衣甲斐守以下1600騎の土民たちが一揆を起こし、松田、溝口の両将を戦死させた。
一揆はすぐに鎮められたが、木村の領地は伊達政宗に与えられた。
政宗は最初、水沢城主に桑折宗長を選んだが、やがて白石宗美、柴田外記、石母田宗頼と次々と代わり、寛永6年(1629年)、留守宗利になってようやく安定、以後、明治維新まで続いた。
水沢藩の禄高はわずか1万6000石で、家老さえ160石にすぎず、300人の家臣は農耕や内職で糊口をしのいだ。

(参考:大類伸編集 『日本城郭事典』 秋田書店発行 昭和58年第8版)


三の丸跡 平成21年11月8日

水沢城跡

水沢城は、いつ、誰が最初築いたか明らかでないが、地形的にも、はやくから城館が存在し、戦備に利用されたと思われる。
天正19年(1591年)豊臣秀吉が天正年間の一揆を下した後、家臣上杉景勝が修復し、伊達政宗に渡したといわれる。
その後、伊達の臣、白石宗実、柴田外記、石母田宗頼らが居城した。
かつて奥州留守職であった留守氏が、岩切の高森城、利府、黄海、清水、一関、金ヶ崎を経て寛永6年(1629年)伊達宗利(留守氏)の時、この地に移され城主となった。
以後1万石から1万6千石となり、明治維新まで約240年間居城した。
本丸、南の丸、二の丸、三の丸などがあり、しだいに城下町が形成された。
天保12年(1841年)城中に藩校立生館置かれたが廃藩置県後は、胆沢県庁、小学校などと変り、現在、市役所合同庁舎がたっている。
本丸、二の丸などのあったところは住宅地となり、城跡のおもかげがほとんど失われているが、吉小路、新小路、日高小路、大畑小路などは城内のおもかげを残し、当時をしのぶ武家屋敷が、旧構のまま残されている。

昭和60年 水沢市

(説明板より)

三之曲輪



三之曲輪さんのくるわ「姥杉うばすぎ
(岩手県奥州市水沢区・奥州市役所)





(平成21年11月8日)

三之曲輪さんのくるわ「姥杉うばすぎ

水沢城は1629(寛永6)年、伊達家一門の留守宗利るすむねとしが入城してから幕末までの約230年間、1万6千石の留守氏の居城でした。
城は、正確には水沢要害ようがいと呼ばれ、一之曲輪(本丸)、二之曲輪(二の丸)、三之曲輪(三の丸)、南曲輪などにわかれ、曲輪を囲む土塁どるいに杉や松が植えられていましたが、現在は、この姥杉1本だけが残っています。
市役所、県合同庁舎敷地が三之曲輪にふくまれ、市役所正面玄関北側付近に大手門や太鼓櫓、後に子弟の教育の場であった立生館りゅうせいかんが置かれました。
(水沢市指定天然記念物)

水沢市

(説明板より)



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