最上義光像 平成17年6月18日

最上義光 もがみ・よしあき

天文15年(1546年)~慶長19年1月18日(1614年2月26日)

山形県山形市・霞城公園(山形城二の丸跡)でお会いしました。


山形城主最上義光顕彰詞

従四位上左近衛少将出羽守最上義光もがみよしあきは山形城主義守の嫡男として、天文15年(1546)正月この地に生まれた。
最上氏は源氏の流れをくみ、南北朝時代の初期奥州探題斯波氏の一族、修理大夫兼頼がはじめて山形に入部しこの地方を統治した。
以後、代々最上姓を名乗り約一世紀を経て戦国乱世に至り、群雄各地に割拠して奥羽地方もまた争乱が絶えず、山形最上氏は隣邦の侵略圧迫により衰運に傾きさらにその後一世紀の間は存立も疑われた。
義光は逆境の中に生まれ、山形の再興と隆盛を期して外敵の侵犯を排除し、最上村山地方を平定してその統一を実現した。
殊に慶長5年(1600)の秋、関ヶ原合戦の折、徳川方に属した山形に会津上杉氏の武将米沢城主直江山城守は、大軍をもって来襲し、すでに落城の危機に直面したが、義光みずから陣頭に立って勇戦敢闘し、山形城を死守した。
その功により庄内三郡、秋田由利郡を与えられ、いわゆる「出羽百万石」の一大領国を築きあげ、東北第一の大名となった。
その府城として大規模の山形城を構築し、城下都市建設に力を注ぎ、まず城外に商業街を設定しまた工業職人街を特設して、諸役務を免除するなど人口の集中と民生の安定をはかった。
さらに最上川を改修して舟運の便を開き灌漑かんがい排水路を開拓して新田造成を促進する等、産業の振興、物資流通の基礎を築き、神社、仏寺を尊崇保護して民衆教化に寄与すると共に、建築、美術、文学など各方面にわたって中央の文物導入し、草深い出羽の国に文化の華を咲かせた。
のみならず自ら深く連歌をたしなみ、文の面においても第一級の才能を示した。
慶長19年(1614)正月18日、68歳をもって山形城に没し、殉死の家臣と共に市内光禅寺に葬られ、また紀州高野山に壮大な五輪供養塔が建てられた。
大正13年2月11日、生前の大きな功績が認められ、正四位を追贈された。
いま山形市は、東北内陸における広域経済中核都市として、輝かしい発展と隆昌を続けているが、その都市基盤は全く最上義光の建設に負うものである。
かかる恩沢を受けた山形市民は、あつく遺徳をしのび顕彰会を組織し、山形城跡に馬上の雄姿の銅像を建立して、逆境に負けず明日へ向って進みゆく山形の繁栄を象徴するとともに、その治績を永く後世に伝えんとするものである。

昭和52年11月3日
最上義光公顕彰会

(『顕彰詞』碑の碑文より)


最上義光像



最上義光之像
(霞城公園=山形城




(平成17年6月18日)

最上義光公勇戦の像

慶長5年(西暦1600年)の秋9月 怒涛の如く攻め寄せた上杉方の謀将直江山城守のひきいる2万3千余の大軍をむかえ 自ら陣頭に立って指揮奮戦し敵を撃退してよく山形を死守した山形城主最上義光が決戦場冨神山にむかって進撃せんとする英姿であり 鎧兜は時代考証にとらわれず表現したものであります。
右手にかざして持っているのは鉄の指揮棒で 清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光 と刻んであります。
銅像をとりまく縁石は山形城三の丸をかたどったものであります。

最上義光公顕彰会

(碑文より)


最上義光略年譜

天文15年 1546年 1歳 山形第10代城主、最上義守の嫡男として生まれる。
幼名「白寿」あるいは「源五郎」と称す。
永禄3年 1560年 15歳 元服。
室町幕府将軍足利義輝より「義」一字を賜り、「義光」と名乗る。
従五位下・右京大夫に叙任。
中野門田に寒河江氏と戦う。(義光初陣)
永禄4年 1561年 16歳 父義守と共に高湯温泉に旅泊中、群盗に襲われたが、真っ先に立って戦う。
賊の首領などを討ち、父から重代の名刀を与えられる。
永禄6年 1563年 18歳 父と共に上洛し、将軍義輝に謁する。
元亀元年 1570年 25歳 父義守が仏門に入り、義光が山形城主となる。
最上領内が一時混乱する。
天正2年 1574年 29歳 天正最上の乱
春から秋にかけて義光派と栄林派(父・義守派)が抗争。
伊達氏が介入し、9月に兵を引いて抗争終結。
天正3年 1575年 30歳 本格的に領内政治に乗り出す。
新年の賀宴、功績ある諸士に加禄。
関所・商税の掟を定める。
領内政治の中枢機関「公文所」を改革、設置。
両所宮祭礼の田楽踊り再興。
天正5年 1577年 32歳 天童氏を攻撃。
天正10年 1582年 37歳 最上川中流・下流への進出を伺う。
鮭延氏・大宝寺氏らと争う。
天正12年 1584年 39歳 谷地白鳥氏・寒河江氏らを攻めて滅ぼす。
ついで天童氏を討ち、天童氏は奥州に逃亡。
天正13年 1585年 40歳 東禅寺筑前の力を借りて庄内の過半を占拠。
天正15年 1587年 42歳 庄内全域を支配。
豊臣秀吉「惣無事令」を発布し私戦を禁ずる。
天正16年 1588年 43歳 伊達政宗と対立。
3月、中山境において戦闘状態となる。
7月、お東の方の尽力により和議が成立。
8月、十五里ヶ原の戦いで本庄繁長に敗れ庄内を失う。
天正18年 1590年 45歳 6月、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣。
8月、会津城に至り秀吉の奥羽仕置を受ける。
山形出羽守の称を認められる。
仙北郡に出陣し、湯沢城を攻略する。
父・義守没す。
天正19年 1591年 46歳 正月、仙北上浦郡(雄勝郡)13万石を加増される。
従四位下侍従となる。
8月、九戸政実討伐のため下向した徳川家康を信夫郡大森に迎える。
天正20年 1592年 47歳 3月、朝鮮出兵のため、京都より名護屋に向かう。
山形城の修築を行なう。
文禄4年 1595年 50歳 8月2日、愛娘駒姫(おいまの方)が豊臣秀次事件に連座し、処刑される。
8月16日、正室大崎夫人急死する。
慶長元年 1596年 51歳 7月、伏見地方に地震があり、家康を警護する。
慶長4年 1599年 54歳 山寺立石寺伽藍の修造に尽力する。
慶長5年 1600年 55歳 9月、直江兼続率いる2万余の上杉軍が最上領に侵攻。
9月13日、細谷城落城。
長谷堂城・上山城を拠点として約半月の攻防戦を戦う。
10月、関ヶ原で西軍敗走し、直江が撤兵、これを追撃し庄内に進出する。
大浦城を陥れる。
慶長6年 1601年 56歳 4月、酒田東禅寺城開城をもって出羽の戦いが終結。
7月、論功により庄内を与えられる。
33万石を加増。
慶長7年 1602年 57歳 由利郡を加増されて57万石となる。
(徳川・豊臣を除き全国第5位の石高)
慶長8年 1603年 58歳 8月、長男・義康が暗殺される。(義光が殺害したという説あり)
庄内地域の大開発を始める。
(城下の整備、酒田・加茂港の整備、赤川の治水事業等)
慶長11年 1606年 61歳 最上川難所を開削。
慶長13年 1608年 63歳 加茂港に新町をつくり、3年間諸役免除とする。
慶長16年 1611年 66歳 3月、従四位上左近衛少将に叙任。
慶長17年 1612年 67歳 北館大学に命じ、狩川大堰(北楯大堰)を開削させる。
慶長18年 1613年 68歳 病身を押して駿府江戸城に至り、家康、秀忠に謁す。
慶長19年 1614年 69歳 正月18日未刻(午後2時頃)山形城において没す。69歳。
2月6日夕刻、寒河江肥前、同十兵衛、長岡但馬、山家河内らが殉死す。

(参考文献:片桐繁雄著『北天の巨星 最上義光』及び『最上義光歴史館リーフレット』より)


最上義光歴史館 最上義光歴史館
(山形市大手町1-53)

利用案内

開館時間:午前9時~午後4時30分
休館日:月曜日(国民の祝日と重なる場合はその翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)
入館料:大人 300円

北天の巨星 最上義光
片桐繁雄 著  平成15年3月第2版発行 最上義光歴史館発行

【庄内と最上義光】

天正11年(1583年)、前森蔵人まえもりくらんどと通じ武藤義興むとうよしおきを滅ぼして庄内を領有した。
しかし、翌16年、本庄繁長が率いる大軍の攻撃を受けて大敗。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦が起こり、豊臣方の上杉軍が最上領に侵攻したが、西軍が大敗すると義光は反攻に転じて庄内の地を回復する。
戦後の論功行賞により、庄内三郡と秋田の由利郡を加増されて出羽に君臨する大名となる。
しかし、孫の義俊よしとしの代に重臣間の派閥抗争により義俊は藩政不行き届きの罪を受けて領地没収となった。
このうち庄内は、信州松代から入部した酒井忠勝の領分となった。

(参考:『松山町のものがたり』 平成17年3月 松山町観光協会 発行)

(令和2年10月22日 追記)


【庄内の統治】

庄内を掌握した最上義光は、慶長16年(1611年)に一斉に検地を実施した。
これは、上杉時代に年貢徴収をしていた台帳を基礎に整備・補充したものである。
最上氏の支配は、踏襲して妥協を見せながらも、部分的に自らの意志に基づく課税を貫く姿勢を示すという慣例と新規を混ぜ合わせた形でその統治を勧めたもので、まだ戦後遺風としての下剋上の風潮に配慮したものであった。

(参考:『松山町のものがたり』 平成17年3月 松山町観光協会 発行)

(令和2年10月22日 追記)


最上義光



 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu