森鴎外 もり・おうがい

文久2年1月19日(1862年2月17日)〜大正11年(1922年)7月9日


本名は林太郎。
明治5年(1872年)上京して西周にし・あまね家に寄寓。
明治14年(1881年)東京大学卒。陸軍に入る。
明治17年(1884年)からドイツに留学し衛生学を学ぶ。
明治23年(1890年)『舞姫』などのロマン的作品で文壇に登場。
その後、著作から遠ざかる。
明治40年(1907年)に軍医総監・医務局長となり地位が安定したことと、明治42年(1909年)の『スバル』創刊に刺激され、『青年』『雁』などの反自然主義的作品を発表。
乃木希典の殉死に衝撃を受けて『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』などの歴史小説に着手。
退任を契機に『渋江抽斎』などの史伝に没頭。
その他評論活動、『即興詩人』などの翻訳活動、作歌活動など多岐にわたって活躍。
大正11年(1922年)7月9日、萎縮腎・肺結核のため没す。61歳。


兵食論争

明治時代、多くの国民は脚気かっけに悩んでいたが、発症の原因も治療法もわからなかった。
特に軍隊での患者発生率は高く、明治12年では全海軍将兵の38.95%が罹患している。
この脚気に対して、英国医学を学んだ海軍軍医の高木兼寛たかぎかねひろが実態調査に乗り出す。
日本の兵食は白米中心、これに対し英国海軍の兵食はパンと肉。
しかも英国海軍では脚気患者は発生していない。
高木は我が国の兵食も和食から洋食へ変更すべきだと判断し、具体的な実験に着手する。
約9ヶ月の遠洋航海に出かける「筑波つくば」の乗組員に白米の兵食からパンを主食とした改善兵食を毎日食べさせた。
これまでの遠洋航海では多くの脚気患者が発生しており、前年に遠洋航海に出かけた「龍驤りゅうじょう」では、乗組員376名のうち169名が脚気の重症患者で、25名が死亡していた。
この「筑波」の実験では、脚気が発生した者はわずか十数名、死者は一人も出なかった。
発症した患者の大半は改善兵食を食べなかった者だったという。
その後、脚気の発生率は急速に減少。
明治15年40.45%であったものが明治17年には12.74%、18年には0.95%となり、この経過を天皇に奏上。
明治18年、海軍兵食は白米中心の和食から米を半々に混合した麦飯となった。

この脚気発生の原因を栄養不足に求める高木の「脚気栄養説」への反対論は特に陸軍で激しかった。
白米6合を基本にしている陸軍では脚気の発生は「細菌による伝染」と考えていたからである。
ドイツ医学を学んだ陸軍軍医の森鴎外は、明治19年、留学先のドイツで『日本兵士食物論』を発表。
「パンは国産麦でどうにか対応できるが、国内の肉は全て軍隊で消費することになる。陸軍兵士20万人の兵食を洋食化するのは経済的にも困難。麦は米より消化が悪い」などと反対意見を述べ、帰国後も辛らつな批判を行っている。
麦飯で脚気発生が低下したのは単なる偶然であり、それを高木はあたかも脚気防止に成功したかのように天皇に奏上するとはけしからん。
なぜならば、何故そうなったのかという学問的根拠が解明されていないではないかというのが陸軍側の反対論。
森鴎外も和食を絶対的に賛美はしておらず、『日本兵士食物論』では「多少の工夫をすれば理想的な食べ物になる」と日本食の欠点は素直に認めている。
また、『兵食試験報告』では、主食は白米6合で充分だが、副食物は「未だ充分なりとすべからず」と述べている。

つまりは、高木は主食そのものを改善しようとし、森は副食物の面から和食の弱点を補おうとしていたといえる。
しかし、現実には、日清戦争での海軍の脚気死亡者はゼロ名に対し、陸軍では約4,000名が脚気で死亡。
日露戦争では、陸軍戦傷病死者約37,000名のうち脚気死亡者が28,000名という結果が出て、この兵食論争は大正末期になってようやく終焉を迎えることとなった。

参考:『歴史読本 2007年9月号 清永孝著 海軍・陸軍「兵食論争」』

(平成19年9月3日追記)


水月ホテル鴎外荘



水月ホテル鴎外荘
(東京都台東区池之端3−3−21)




(平成17年10月1日)
森鴎外居住之跡碑



「森鴎外居住之跡」碑

(水月ホテル鴎外荘)




(平成17年10月1日)

森鴎外旧居跡
台東区池之端3丁目3番21号

森鴎外は文久2年(1862)正月19日、石見国いわみのくに津和野つわの藩典医はんてんい森静男の長男として生まれた。
本名を林太郎という。
明治22年(1889)3月9日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町11番地)に移り住んだ。
この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
同年8月に『国民之友』夏季附録として、『於母影おもかげ』を発表。
10月25日に文学評論『しがらみ草子』を創刊し、翌23年1月には処女作『舞姫』を『国民之友』に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。
一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官としても活躍した。
しかし、家庭的には恵まれず、長男於莵おとが生まれた23年9月に登志子と離婚し、翌10月、本郷区駒込千駄木町57番地に転居していった。
平成15年3月

台東区教育委員会

(説明板より)

舞姫の間



森鴎外居住の跡「舞姫の間」

(水月ホテル鴎外荘中庭)




(平成17年10月1日)
舞姫の碑



「舞姫」の碑

(水月ホテル鴎外荘中庭)




(平成17年10月1日)

鴎外「舞姫」の碑について

森鴎外(1862〜1922)は、この地において文壇處女作の「舞姫」を出した。
又「うたかたの記」や新體詩集「於母影」(新聲社)を出し、新聲社の機関誌「しがらみ草子」を發刊した。
故に近代文學史上劃期的な活躍をする基礎を築いたのが、この地である。
碑の文字は鴎外の毛筆書き「舞姫」原稿から子息 森 類が選定した。
碑に刻まれたものでは唯一の直筆です。

長谷川泉撰

(説明板より)


森鴎外旧居跡



森鴎外旧居跡・夏目漱石旧居跡

(東京都文京区向丘2−20−7・日本医科大学同窓会館)





(平成20年2月21日)

夏目漱石旧居跡

夏目漱石は明治卅六年一月英國から帰り、三月三日ここ千駄木町五十七番地に居を構へた。
前半二箇年は一高と東大の授業に没頭したが、卅八年一月「吾輩は猫である」「倫敦塔」等を發表して忽ち天下の注目を浴び、更に「猫」の續稿と竝行、卅九年初から「坊ちゃん」「草枕」「野分」等を矢継早に出して作家漱石の名を不動にした。
歳末二重廾七日西片町に移り、翌四十年四月朝日新聞に入社し、以後創作に専念した。
千駄木町は漱石文学發祥の地である。
森鴎外も前に(自明治廾三年十月至同廾五年一月)その家に住んでいた。
家は近年保存のため移築され、現在犬山市明治村にある。

昭和46年3月3日

(碑文より)

夏目漱石旧居跡(区指定史跡)

日本医科大学同窓会館 文京区向丘2−20−7

夏目漱石 本名・金之助。
慶応3年〜大正5年(1867〜1916)。
小説家。
この地に、漱石がイギリス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住んだ家があった。(家主は東大同期の斉藤阿具氏)
当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の筆をとった。
その作品『吾輩は猫である』の舞台として、“猫の家”と呼ばれ親しまれた。
この地で、『倫敦塔ろんどんとう』『坊ちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわした。
漱石文学の発祥の地である。
漱石が住む13年程前の明治23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。
鴎外は、ここから団子坂上の観潮楼かんちょうろうへ移っていった。
二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。
旧居は、愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。

文京区教育委員会
平成7年3月

(説明板より)


観潮楼跡



観潮楼跡
(東京都文京区千駄木1−23−4)

文京区立鴎外記念本郷図書館



(平成20年2月21日)

森鴎外の観潮楼かんちょうろう
都指定文化財(旧跡)
(文京区立鴎外記念本郷図書館敷地)

森鴎外(林太郎りんたろう・1862〜1922)は、通称“猫の家”(現向丘2−20−7・鴎外が住み後夏目漱石も住んだ)から明治25年(1892)ここに移った。
2階書斎を増築し、東京湾の海が眺められたので観潮楼と名づけた。
鴎外は、大正11年(1922)60歳で没するまで、30年間ここに住んだ。
(家は昭和12年借主の失火と戦災により焼失)
観潮楼の表門は、藪下やぶした通りに面したこの場所にあり、門の礎石や敷石はそのままである。
庭には戦火で焼けた銀杏いちょうの老樹が生きかえっている。
三人冗語さんにんじょうごの石はそのままであるが、鴎外の愛した沙羅さらの木は、後に植えかえられた。
鴎外は『舞姫』、『青年』、『雁』や『阿部一族』などの小説、、史伝、評論などを書き、ここは文学活動の中心舞台であった。
また、詩歌振興のため観潮楼歌会を開き、若い詩人、歌人に大きな影響を与えた。
文京区は、この文学上由緒ある地に、昭和37年9月、鴎外記念室を併設した特色ある文京区鴎外記念本郷図書館を開設した。

文京区教育委員会
昭和57年3月

(説明板より)

観潮楼・門の敷石



観潮楼・門の敷石
(東京都文京区千駄木・区立鴎外記念本郷図書館)





(平成20年2月21日)
三人冗語の石



右:三人冗語の石

(東京都文京区千駄木・区立鴎外記念本郷図書館)





(平成20年2月21日)

三人冗語の石・パネル写真 図書館表の展示写真パネル

三人冗語の石

雑誌「めざまし草」で、新作批評“三人冗語”を担当していた3人(森鴎外・幸田露伴こうだろはん・斉藤緑雨さいとうりょくう)が、この石の前で写真を撮ったことから、この名がついた。
この“三人冗語”で鴎外が樋口一葉の「たけくらべ」を激賞したのは有名である。

(写真パネルの説明文より)

鴎外記念室の沿革

鴎外の没後、観潮楼は2度の災害により消失してしまいました。
この観潮楼の跡地に記念室を併設して建設されたのが鴎外記念本郷図書館です。
文化勲章を授賞した谷口良郎氏の設計で昭和37年(1962)9月開館しました。
平成18年4月からは図書館部分が移転、本郷図書館鴎外記念室となりました。
館内の鴎外記念室では遺品・原稿・書簡・日記などを展示しています。
所蔵資料は研究資料も含め約1万点を数え、観潮楼跡に建てられた鴎外研究のために欠くことのできない施設として多くの方々に利用されています。

【開室案内】
開室時間:午前9時〜午後5時
休館日  :月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始(12/29〜1/4)・展示替等の館内整理日
参観料  :無料
アクセス :地下鉄千代田線千駄木駅1番出口 徒歩7分

(鴎外記念室のパンフレットより)

藪下通り



森鴎外の散歩道・藪下通り

(東京都文京区千駄木・観潮楼跡の前の道)





(平成20年2月21日)

藪下通やぶしたどお

本郷台地の上を通る中山道なかせんどう(国道17号線)と下の根津谷ねづだにの道(不忍通しのばずどおり)の中間、つまり本郷台地の中腹に、根津神社裏門から駒込こまごめ方面へ通ずる古くから自然に出来た脇道わきみちである。
「藪下道やぶしたみち」ともよばれて親しまれている。
むかしは道幅もせまく、両側は笹薮ささやぶで雪の日には、その重みでたれさがった笹に道をふさがれて歩けなかったという。
この道は森鴎外の散歩道で、小説の中にも登場してくる。
また、多くの文人ぶんじんがこの道を通って鴎外の観潮楼を訪れた。
現在でも、ごく自然に開かれた道のおもかげを残している。
団子坂だんござか上から上冨士かみふじへの区間は、今は「本郷保健所通り」の呼び方が通り名となっている。

文京区教育委員会
平成7年3月

(説明板より)


森鴎外
本名・森林太郎(1862〜1922)

文久2年(1862)1月19日津和野藩の典医の長男として生まれました。
明治5年(1872)に上京、進文学社に通いドイツ語を学びました。
明治7年12歳で東京医学校予科に入学、明治14年19歳で東京大学医学部を卒業しました。
明治14年(1881)12月陸軍に入り、明治17年から明治21年まで衛生学研究のためドイツ留学を命ぜられました。
留学中の体験は後に「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」のドイツ三部作といわれる作品に結実しました。
明治22年(1889)赤松登志子と結婚し、訳詩集「於面影」を発表、さらに雑誌『しがらみ草子』を創刊し文学活動を開始しました。
明治23年、長男於菟が生まれましたが間もなく離婚。
明治25年(1892)駒込千駄木町21番地(現・千駄木1丁目23番4号)に移り住みました。
この地は本郷台地の東端にあり、谷中・上野山及びはるか東京湾の潮路もながめられたといわれ、鴎外は「観潮楼」と名付けました。
ここで、「即興詩人」「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」「阿部一族」「山椒大夫」「渋江抽斎」などの代表作を次々に発表しました。
また明治40年(1907)から観潮楼歌会を催し与謝野寛、伊藤左千夫、佐佐木信綱、石川啄木、斉藤茂吉等、多彩な文学者が集いました。
鴎外は陸軍軍医総監に就任し多忙となったため、歌会は明治43年4月が最後となりました。
大正5年(1916)陸軍を退役しましたが、翌大正6年帝室博物館長兼図書頭に任ぜられました。
鴎外は「渋江抽斎」をはじめとする史伝、考証執筆にかかっていましたが、この頃より体調も思わしくなく大正11年(1922)7月9日観潮楼で亡くなりました。
享年60歳。
死因は萎縮腎、結核であったといわれています。
向島弘福寺に葬られましたが、関東大震災のため現在は三鷹禅林寺に移葬されています。

森鴎外のあゆみ
文久2年
(1862)
  1月19日石見国(島根県)鹿足郡津和野町田村字横掘に生まれる。
父は森静男・母は峰子、代々典医。
明治5年
(1872)
10歳 父に随って上京、西周邸に寄寓し、進文学社に入りドイツ語を学ぶ。
明治6年
(1873)
11歳 東京医学校予科入学。
明治10年
(1877)
15歳 医学校は東京大学医学部となり、その本科生となる。
明治14年
(1881)
19歳 東京大学医学部卒業。
12月東京陸軍病院課僚となる。
明治17年
(1884)
22歳 陸軍衛生制度調査及び軍陣衛生学研究のためドイツに留学。
10月ベルリン着。
ライプチヒでホフマンに学ぶ。
明治21年
(1888)
26歳 9月帰朝。
陸軍軍医学校教官となる。
明治22年
(1889)
27歳 3月赤松登志子と結婚し、5月末上野花園町に住む。
8月「国民之友」に「於面影」を訳載。
「しがらみ草子」創刊。
明治23年
(1890)
28歳 1月「舞姫」8月「うたかたの記」発表。
9月長男於菟が生まれるが妻と離別。
10月本郷駒込千駄木町57番地(千朶山房)に移る。
明治24年
(1891)
29歳 1月「文づかひ」発表。
8月医学博士となる。
坪内逍遥と没理想論争、翌年に及ぶ。
明治25年
(1892)
30歳 団子坂、駒込千駄木町21番地に移る。
8月2階を増築し「観潮楼」と名付く。
「即興詩人」の翻訳を始める。
明治27年
(1894)
32歳 日清戦争出征。
明治29年
(1896)
34歳 1月「めさまし草」創刊、合評形式の新作批評「三人冗語」を掲載。
4月父静男死去。
明治32年
(1899)
37歳 6月第12師団軍医部長として小倉に赴任。
明治35年
(1902)
40歳 1月荒木志げと結婚。
3月第1師団軍医部長となり帰京。
6月に「藝文」を、10月に「万年艸」を創刊。
明治37年
(1904)
42歳 日露戦争出征。
明治39年
(1906)
44歳 1月凱旋。
6月歌会「常磐会」を設立。
明治40年
(1907)
45歳 3月「観潮楼歌会」を始める。
11月陸軍軍医総監、陸軍省医務局長に就任。
明治42年
(1909)
47歳 1月「スバル」創刊。
以後「スバル」に多数の創作を発表。
7月文学博士となる。
明治43年
(1910)
48歳 3月より翌年8月まで「スバル」に「青年」連載。
明治45年
大正元年
(1912)
50歳 10月「中央公論」に最初の歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を発表。
大正4年
(1915)
53歳 1月「山椒大夫」発表。
9月詩集「沙羅の木」出版。
大正5年
(1916)
54歳 1月「高瀬舟」「寒山拾得」を発表。
東京日日・大阪毎日新聞に「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」を連載。
3月母峰子死去。
4月医務局長を辞任。
大正6年
(1917)
55歳 「北条霞亭」を連載。
12月帝室博物館総長兼図書頭となる。
大正7年
(1918)
56歳 この年より毎年正倉院曝涼のため奈良に出張。
大正8年
(1919)
57歳 「帝諡考」の稿を起こす。
大正10年
(1921)
59歳 4月「元号考」起稿。
11月第2期「明星」が創刊され、「古い手帳から」を連載。
大正11年
(1922)
60歳 7月9日死去。
病名萎縮腎。
法名、貞獻院殿文穆思齋大居士。
向島弘福寺に埋葬。
(後、昭和2年三鷹禅林寺に移葬。現在に至る)

(鴎外記念室のパンフレットより)

(平成20年6月9日追記)


【クラウゼヴィッツを知らしめる】

クラウゼヴィッツはナポレオン戦争に参加し、実戦の経験も、参謀将校としての経歴も豊富で、ナポレオン戦争の経験や戦史の知識を素材として軍学書を書くが、プロイセン以外ではほとんど注目を惹かなかった。
クラウゼヴィッツが全世界に知られるようになったのは、大モルトケが、クラウゼヴィッツ哲学による「武装国家」の威力をまざまざと世界に示してからのことである。
日本においてはその紹介が森鴎外を通じて行われたという点で特別な文化的意味を有する。

明治21年(1888年)にドイツに留学中の森鴎外は、同じく留学中の早川怡与造はやかわ・いよぞう大尉のために週2回ぐらい、クラウゼヴィッツの『戦争論』を講読してやったことが知られている。
この早川怡与造こそは後の田村怡与造中将である。
この人は、日露戦争の作戦準備中、参謀総長・大山巌の下の参謀次長として、対露作戦の研究指導の中心人物となった人である。

鴎外は帰国して小倉に配属された時も、明治32年12月から明治34年6月まで、小倉師団の将校たちにクラウゼヴィッツを訳述して聞かせている。

日露戦争当時は、ロシア軍もクラウゼヴィッツを研究してきていたのであるから、これを知らなければ日本軍の不利は相当決定的であったと思われるので、この面における森鴎外の国家に対する貢献は無視できないほど大きいものであったと言ってよいであろう。

(渡部昇一著『ドイツ参謀本部』 平成9年初版 ザ・マサダ発行)

(平成25年4月13日追記)


文豪 舞姫 軍医



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