平成23年9月15日
文久2年1月19日(1862年2月17日)〜大正11年(1922年)7月9日
福岡県北九州市小倉北区・森鴎外旧居でお会いしました。
本名は林太郎。
明治5年(1872年)上京して西周にし・あまね家に寄寓。
明治14年(1881年)東京大学卒。陸軍に入る。
明治17年(1884年)からドイツに留学し衛生学を学ぶ。
明治23年(1890年)『舞姫』などのロマン的作品で文壇に登場。
その後、著作から遠ざかる。
明治40年(1907年)に軍医総監・医務局長となり地位が安定したことと、明治42年(1909年)の『スバル』創刊に刺激され、『青年』『雁』などの反自然主義的作品を発表。
乃木希典の殉死に衝撃を受けて『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』などの歴史小説に着手。
退任を契機に『渋江抽斎』などの史伝に没頭。
その他評論活動、『即興詩人』などの翻訳活動、作歌活動など多岐にわたって活躍。
大正11年(1922年)7月9日、萎縮腎・肺結核のため没す。61歳。
森鴎外像 (福岡県北九州市小倉北区・森鴎外旧居) 中村晋也 作 1982 (平成23年9月15日) |
森鴎外旧居 (福岡県北九州市小倉北区鍛冶町1−7−2) (平成23年9月15日) |
市指定文化財
史跡 森鴎外旧居
昭和49年3月22日 指定
この建物は、明治32年(1899)6月、作家森鴎外が小倉の旧陸軍第12師団の軍医部長として東京から赴任した折、借りて住んだ家です。
2年10か月後に帰京するまでのはじめの約1年半を、築後間もないこの家で過ごしました。
赴任当時、離婚し独身であった37歳の鴎外は、お手伝いさんを雇っています。
部屋数は6つ、鴎外は主に八畳の座敷と南側に続く四畳半の小座敷を使っていました。
玄関や土間、庭などは大幅に改造され、馬小屋もなくなっていますが、母屋の全体はほぼ当時のままで、前庭の百日紅さるすべり夾竹桃も以前からあったものです。
鴎外は公務のかたわら、この家で『即興詩人』や『戦論』の翻訳、『我をして九州の富人足らしめば』や『鴎外漁史とは誰ぞ』などの執筆をしました。
また、歴史や風土の研究、読書などに励んでいたようです。
当時の様子は、この時代に書いた『小倉日記』や後に書いた小説『鶏』などの作品からもうかがうことができます。
鴎外は後年、『高瀬舟』や『渋江抽斎』などの歴史小説、史伝に転じますが、ここで過ごした時期は「沈潜と蓄積の時代」でした。
なお、鴎外は明治33年(1900)12月、京町に転居(現JR小倉駅前。京町旧居碑があります。)、翌年11月には八幡製鐵所の開所式にも出席しています。
また、明治35年(1902)1月、佐賀県出身の元判事の長女荒木しげと再婚しました。
北九州市は、貴重な文化遺産であるこの森鴎外旧居を昭和49年(1974)3月、史跡として文化財に指定し、昭和56年(1981)3月には、買収、整備して一般に公開、現在に至っています。
北九州市教育委員会
(説明板より)
(説明板より)
掛軸「天馬行空」(複製) (平成23年9月15日) |
掛軸「天馬行空」(複製)
発明青年・矢頭良一やずりょういちの死後、その父・道一に贈った鴎外の直筆の書。
源高湛みなもとのたかやすは鴎外の諱いみな。
原本は豊前市・久富芳子氏(良一の妹の孫)蔵。
(説明パネルより)
森鴎外旧居 (福岡県北九州市小倉北区鍛冶町1−7−2) (平成23年9月15日) |
森鴎外と鍛冶町旧居
小説「鶏」は、この鍛冶町の家を舞台にして書かれました。
この建物は、当時しだいに軍都と化しつつあった小倉の町に明治30年ごろ建てられたものです。
森鴎外は明治32年6月から同35年3月まで、陸軍第12師団軍医部長として小倉に勤務したおり、この家で始めの1年半を過ごしました。
鴎外は馬に乗り、常盤橋を渡って小倉城内の師団司令部まで通う毎日でした。
単身で赴任したのでお手伝いさんを雇って住み、主に八畳の座敷と南側に続く四畳半の小座敷を使っていました。
軍務のかたわら、この家で後に名訳といわれたアンデルセンの「即興詩人」やクラウゼヴィッツの「戦論」などを翻訳し、「我をして九州の富人たらしめば」「鴎外漁史とは誰ぞ」などを発表しました。
また小倉はもとより広く北部九州の先賢や史跡を訪ね、さらにさまざまな講義・講演会・地元紙への寄稿などを精力的にこなしました。
鴎外の残した「小倉日記」からは多忙な、しかし充実した毎日をうかがい知ることができます。
2年10か月の小倉時代は、文豪鴎外にとって沈潜の時代といわれますが、やがて迎える文学的豊熟期への蓄積の時代でありました。
また、小倉をはじめとする北九州地域にもたらした文化的功績ははかり知れません。
ここ鍛冶町旧居は、その記念碑といえます。
森鴎外の生涯
日本近代文学史に金字塔を打ち立てた文豪森鴎外は、文久2年(1862)森林太郎として島根県津和野町に生まれました。
幼少から神童と称され、史上最年少で東大医学部を卒業します。
陸軍軍医副となり、留学の機会を得た彼はドイツで衛生学を学ぶとともにヨーロッパの芸術や文学に触れ、大きな影響を受けました。
青年のみずみずしい感性を余すところなく投影したドイツ三部作「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」は、明治23年から翌年にかけて発表され、ヨーロッパ文化の精神を日本に伝える先駆的役割を果たしました。
明治32年(1899)、鴎外37歳のとき、陸軍第12師団軍医部長として小倉へ転勤を命ぜられます。
鴎外は、ここ小倉で明治23年以来手がけていたアンデルセンの「即興詩人」の翻訳を完成させました。
また、講義・講演会のほか地元新聞への寄稿など、文化の振興に貢献しました。
そして荒木志げ(茂子)と再婚。
のちに志しげが「小倉時代が生涯で一番楽しかった」と述懐したその生活は、明治35年3月、鴎外が第1師団軍医部長として東京に戻ることで終わります。
その後、鴎外は陸軍軍医総監になり、文芸活動を活発に行っていきます。
半自伝的小説「ヰヴィ・セクスアリス」、小倉時代の生活を基に書いた小説・小倉三部作「鶏」「独身」「二人の友」、長編小説「青年」「雁」などを発表します。
明治天皇に殉じた乃木希典夫妻に衝撃を受けて書いた小説「興津弥五右衛門の遺書」を発表、引き続いて「阿部一族」その他の歴史小説を次々に発表します。
「山椒大夫」で過酷な運命を切りひらく姿、「高瀬舟」で知足の心、「寒山拾得」で超俗の精神などを描きます。
また、34年間の軍務に終止符を打つころ、「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」などの史伝小説を発表します。
組織の階段を着実に上った軍医、絶えず新境地に挑んでいく文学者、幅広い友人や後輩たちに畏敬された知識人、妻や母親、子どもたちに囲まれた家庭人、―さまざまな人生を多彩に生きぬいた森鴎外は「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言を残し、大正11年(1922)7月9日、萎縮腎いしゅくじんにより60年の生涯を閉じました。
(リーフレット『北九州市指定文化財 史跡 森鴎外旧居』より)
年号(西暦) | 年齢 | 年譜 |
明治32(1899)年 | 37歳 | |
6月19日 | 第12師団軍医部長として小倉に着任。 | |
24日 | 鍛冶町の家を借りて住む。 | |
9月26日 | 「我をして九州の富人たらしめば」を福岡日日新聞に発表。 | |
10月12日 | 石見の青年・福間博が来訪、鴎外に師事する。 | |
22日 | 企救郡教育史支会名誉会員に推される。 | |
12月6日 | ベルトラン神父についてフランス語を学び始める。 | |
12日 | 師団将校にクラウゼヴィッツの「戦論」の講義を開始。 | |
明治33(1900)年 | 38歳 | |
1月1日 | 「鴎外漁史とは誰ぞ」を福岡日日新聞に発表。 | |
28日 | 旧妻・赤松登志子没す。 | |
7月13日 | 企救郡役所で開催の同郡教育支会で講演する。 | |
29日 | 常盤座で開催の福岡県教育会総会で講演する。 | |
11月22日 | 小倉高等小学校で市民有志に心理学の講義を始める。 | |
12月4日 | 安国寺の住職・玉水俊?から唯識論を聞き始める。 | |
24日 | 京町に転居。 | |
明治34(1901)年 | 39歳 | |
1月1日 | 「倫理学説の岐路」「小倉安国寺の記」を福岡日日新聞に発表。 「小倉安国寺古家の記」を門司新報に発表 |
|
15日 | 「即興詩人」の翻訳を完了する。 | |
2月22日 | 豊前出身の発明青年・矢頭良一が来訪。 | |
7月3日 | 衛生隊演習のため行橋、金田、飯塚、後藤寺、香春をまわる。 | |
11月18日 | 八幡製鐵所作業開始式に臨む。 | |
明治35(1902)年 | 40歳 | |
1月1日 | 「即非年譜」を福岡日日新聞に発表。 「和気清麻呂と足立山と」を門司新報に発表。 |
|
4日 | 判事・荒木博臣の長女・志げ(茂子)と再婚する。 | |
3月14日 | 第1師団軍医部長に任ぜられる。 | |
21日 | 市民有志による送別会が京町三樹亭で催される。 | |
24日 | 小倉偕行社で「洋学の盛衰を論ず」を特別講演する。 | |
26日 | 小倉を出発。 |
参考:リーフレット『北九州市指定文化財 史跡 森鴎外旧居』
兵食論争 |
明治時代、多くの国民は脚気かっけに悩んでいたが、発症の原因も治療法もわからなかった。
特に軍隊での患者発生率は高く、明治12年では全海軍将兵の38.95%が罹患している。
この脚気に対して、英国医学を学んだ海軍軍医の高木兼寛たかぎかねひろが実態調査に乗り出す。
日本の兵食は白米中心、これに対し英国海軍の兵食はパンと肉。
しかも英国海軍では脚気患者は発生していない。
高木は我が国の兵食も和食から洋食へ変更すべきだと判断し、具体的な実験に着手する。
約9ヶ月の遠洋航海に出かける「筑波つくば」の乗組員に白米の兵食からパンを主食とした改善兵食を毎日食べさせた。
これまでの遠洋航海では多くの脚気患者が発生しており、前年に遠洋航海に出かけた「龍驤りゅうじょう」では、乗組員376名のうち169名が脚気の重症患者で、25名が死亡していた。
この「筑波」の実験では、脚気が発生した者はわずか十数名、死者は一人も出なかった。
発症した患者の大半は改善兵食を食べなかった者だったという。
その後、脚気の発生率は急速に減少。
明治15年40.45%であったものが明治17年には12.74%、18年には0.95%となり、この経過を天皇に奏上。
明治18年、海軍兵食は白米中心の和食から米を半々に混合した麦飯となった。
この脚気発生の原因を栄養不足に求める高木の「脚気栄養説」への反対論は特に陸軍で激しかった。
白米6合を基本にしている陸軍では脚気の発生は「細菌による伝染」と考えていたからである。
ドイツ医学を学んだ陸軍軍医の森鴎外は、明治19年、留学先のドイツで『日本兵士食物論』を発表。
「パンは国産麦でどうにか対応できるが、国内の肉は全て軍隊で消費することになる。陸軍兵士20万人の兵食を洋食化するのは経済的にも困難。麦は米より消化が悪い」などと反対意見を述べ、帰国後も辛らつな批判を行っている。
麦飯で脚気発生が低下したのは単なる偶然であり、それを高木はあたかも脚気防止に成功したかのように天皇に奏上するとはけしからん。
なぜならば、何故そうなったのかという学問的根拠が解明されていないではないかというのが陸軍側の反対論。
森鴎外も和食を絶対的に賛美はしておらず、『日本兵士食物論』では「多少の工夫をすれば理想的な食べ物になる」と日本食の欠点は素直に認めている。
また、『兵食試験報告』では、主食は白米6合で充分だが、副食物は「未だ充分なりとすべからず」と述べている。
つまりは、高木は主食そのものを改善しようとし、森は副食物の面から和食の弱点を補おうとしていたといえる。
しかし、現実には、日清戦争での海軍の脚気死亡者はゼロ名に対し、陸軍では約4,000名が脚気で死亡。
日露戦争では、陸軍戦傷病死者約37,000名のうち脚気死亡者が28,000名という結果が出て、この兵食論争は大正末期になってようやく終焉を迎えることとなった。
参考:『歴史読本 2007年9月号 清永孝著 海軍・陸軍「兵食論争」』
(平成19年9月3日追記)
【脚気の被害・森鴎外の罪】
日露戦争における陸軍の傷病者中、最も大きな割合を占めたのは脚気かっけ患者であった。
当時、脚気は下手をすると命を失うほどの病気であった。
最初は手足がしびれ、疲れやすくなり、それが進むと歩行も困難になり、視力も衰えてくる。
そして最後には、突然胸が苦しくなって、心臓麻痺を起こして死ぬのである。
陸軍では、このような脚気患者が日露戦争中、21万人以上も出た。
出動総人数が110万人であるから、5人に1人が脚気になったことになる。
また脚気による死者は2万7800人である。
これは203高地の戦死者を軽く上回る。
これに対して、同じ日露戦争でも海軍の脚気患者はほとんどゼロに近かった。
これほど歴然とした差が出たのは、ひとえに陸軍兵士の健康を預かる軍医らの責任であることは言うまでもない。
海軍においては脚気は深刻な問題で、長期航海において艦内に脚気患者が続出すれば、艦そのものが行動不能になる恐れがある。
明治16年にニュージーランドを目指して出港した軍艦『龍驤りゅうじょう』では、272日間の航海中、169人の脚気患者を出し、23人が死亡した。
この時の乗組員は総勢378名であったから、実に半数近くが脚気に冒されたのである。
このような状態を憂えて、何とか脚気を根絶しなければならないと考えたのが、海軍軍医の高木兼寛かねひろであった。
彼はイギリスに留学し、ロンドンの医学校を抜群の成績で卒業したという人物である。
徹底的な調査の結果、同じ艦に乗り組んでいても、脚気に罹るのは下級の兵卒ばかりで、毎日洋食を食べている上級士官で脚気に罹る人がいないことに気が付いた。
高木は「なぜ脚気が起きるのか」は分からなかったが、それが食事に関係していることだけは間違いないと考えた。
彼は、脚気に洋食が効果があることを立証するため実践的な方法を用いた。
かつて多数の患者を発生させた軍艦『龍驤』とまったく同じ航路で、軍艦『筑波つくば』を派遣する。
この『筑波』においては、食事は副食も含めてすべて給食とし、しかも良質のものを出すということにした。
軍艦一隻を使った比較対照試験というのは、日本の医学史上に類を見ない試みであろう。
この実験は、見事な成功となった。
乗組員で脚気を発症した者は、わずか15名しかいなかった。
しかも、この患者たちの多くが、与えられた給食をちゃんと食べていなかったことも分かった。
この高木の実験で、日本海軍は全軍を挙げて食事の改良に乗り出す。
その結果、海軍での脚気発生率は激減し、日清・日露戦争でも脚気の患者は皆無に近かった。
ところが、これに対して陸軍首脳は、海軍の食事改善運動に全く関心を示さなかったばかりか、それに反対する側に回った。
その急先鋒は、陸軍軍医局の医者たちであった。
彼らは徹底して高木の食事改善を否定した。
陸軍軍医局の医者の多くは東大医学部出身であったが、この東大医学部は、当時「ドイツ医学こそが世界最高」と信じて疑わなかった。
エリートの彼らにしてみれば「高木ごときに何が分かる」という気持ちがあったのだ。
たしかに、当時のドイツは世界の医学をリードしていた。
ことに優れていたのは細菌学の分野である。
ドイツ医学の特長は徹底した病理中心主義にある。
つまり、病気の原因を突き止め、つぎにその対策を考えるというアプローチである。
対して、イギリスの医学の特長は、臨床を重視するものであった。
イギリスで学んだ高木は、脚気発症のプロセスを解明することよりも、目の前にいる脚気患者をどのようにすれば減らせるかというアプローチである。
当時、脚気も伝染病の一種と考えられていたので、「脚気菌がまだ見つからないのに根本的な治療法などあるわけがない」というのが陸軍軍医局の医者の発想だった。
こうした否定派の中で“高木潰し”の急先鋒となったのが、森鴎外であった。
彼は東大医学部を卒業後、軍医になり、以後一貫してエリート・コースを歩んだ人物である。
森はドイツ留学中にコッホの研究所で学んだ人であるから「脚気病菌説」を信じて疑わなかった。
彼は高木の業績を否定するために学会で論文を発表する。
それだけならまだしも、森鴎外ら軍医たちは、陸軍における食事改良の試みを徹底して妨害した。
海軍の食事改良運動に興味を持った現場の指揮官や軍医の中には、独自に麦飯を導入しようとした人もいたが、こうした試みを軍医局は妨害し、あくまで白米主義を押し通したのである。
その結果、日清戦争では4000人近くの兵士が脚気で死んだ。
ところが、それを見ても自説を曲げることはなく、そのまま日露戦争に突入することになり、日露戦争では脚気患者が大量発生し、その結果、陸軍の作戦に支障をきたしたのである。
しかも、日露戦争後も森鴎外は米食至上主義をまったく反省せず、陸軍兵士に白米を与え続けたという。
こうした森鴎外ら陸軍軍医局のやった行為は、一種の犯罪と言ってもいいだろう。
乃木将軍の幕僚達は「自分たちの本分は作戦立案である」として、203高地で死んでいく将兵たちの姿をいっさい見なかった。
同様に、森鴎外たち陸軍の軍医は、脚気で死んでいく将兵たちを見殺しにして恥じることはなかった。
(参考:渡辺昇一 著 『かくて昭和史は甦る〜人種差別の世界を叩き潰した日本〜』 平成7年第3版 クレスト社発行)
(平成27年1月6日 追記)
「森鴎外居住之跡」碑 (水月ホテル鴎外荘) (平成17年10月1日) |
森鴎外旧居跡
台東区池之端3丁目3番21号
森鴎外は文久2年(1862)正月19日、石見国いわみのくに津和野つわの藩典医はんてんい森静男の長男として生まれた。
本名を林太郎という。
明治22年(1889)3月9日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町11番地)に移り住んだ。
この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。
同年8月に『国民之友』夏季附録として、『於母影おもかげ』を発表。
10月25日に文学評論『しがらみ草子』を創刊し、翌23年1月には処女作『舞姫』を『国民之友』に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。
一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官としても活躍した。
しかし、家庭的には恵まれず、長男於莵おとが生まれた23年9月に登志子と離婚し、翌10月、本郷区駒込千駄木町57番地に転居していった。
平成15年3月
台東区教育委員会
(説明板より)
森鴎外居住の跡「舞姫の間」 (水月ホテル鴎外荘中庭) (平成17年10月1日) |
「舞姫」の碑 (水月ホテル鴎外荘中庭) (平成17年10月1日) |
鴎外「舞姫」の碑について
森鴎外(1862〜1922)は、この地において文壇處女作の「舞姫」を出した。
又「うたかたの記」や新體詩集「於母影」(新聲社)を出し、新聲社の機関誌「しがらみ草子」を發刊した。
故に近代文學史上劃期的な活躍をする基礎を築いたのが、この地である。
碑の文字は鴎外の毛筆書き「舞姫」原稿から子息 森 類が選定した。
碑に刻まれたものでは唯一の直筆です。
長谷川泉撰並書
(説明板より)
森鴎外旧居跡・夏目漱石旧居跡 (東京都文京区向丘2−20−7・日本医科大学同窓会館) (平成20年2月21日) |
夏目漱石旧居跡
夏目漱石は明治卅六年一月英國から帰り、三月三日ここ千駄木町五十七番地に居を構へた。
前半二箇年は一高と東大の授業に没頭したが、卅八年一月「吾輩は猫である」「倫敦塔」等を發表して忽ち天下の注目を浴び、更に「猫」の續稿と竝行、卅九年初から「坊ちゃん」「草枕」「野分」等を矢継早に出して作家漱石の名を不動にした。
歳末二重廾七日西片町に移り、翌四十年四月朝日新聞に入社し、以後創作に専念した。
千駄木町は漱石文学發祥の地である。
森鴎外も前に(自明治廾三年十月至同廾五年一月)その家に住んでいた。
家は近年保存のため移築され、現在犬山市明治村にある。
昭和46年3月3日
(碑文より)
夏目漱石旧居跡(区指定史跡)
日本医科大学同窓会館 文京区向丘2−20−7
夏目漱石 本名・金之助。
慶応3年〜大正5年(1867〜1916)。
小説家。
この地に、漱石がイギリス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住んだ家があった。(家主は東大同期の斉藤阿具氏)
当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の筆をとった。
その作品『吾輩は猫である』の舞台として、“猫の家”と呼ばれ親しまれた。
この地で、『倫敦塔ろんどんとう』『坊ちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわした。
漱石文学の発祥の地である。
漱石が住む13年程前の明治23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。
鴎外は、ここから団子坂上の観潮楼かんちょうろうへ移っていった。
二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。
旧居は、愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。
文京区教育委員会
平成7年3月
(説明板より)
森鴎外京町住居跡碑 (福岡県北九州市小倉北区京町2−7−5) (平成23年9月15日) |
碑文
第12師団軍医部長として赴任した森鴎外先生は、明治32年6月から同35年3月まで小倉に来住した。
その前半は鍛冶町の家にあり、後半、33年の暮れから第1師団に転任して東京へ去るまで、京町5丁目154番地に住んだ。
しかし京町の旧居は小倉駅の移転にともない、駅前広場の一部となってしまった。
今は無いが、茂子夫人と新婚生活をおくり「即興詩人」の名訳を完成し、のちに、明治の小倉の風物を活写した小説「独身」の舞台となるなど、鴎外文学にとって記念すべき京町の家は、この碑の南25メートルの場所にあった。
この碑は、昭和52年(1977)に「森鴎外遺跡保存顕彰会」によって建立されました。
当初は小倉駅前広場ロータリーに設置されましたが、その後の駅前広場整備に伴い、平成10年(1998)に現在地に移設されました。
石碑に「南二十五メートルの場所」と書かれていますが、実際はこの位置に旧居がありました。
北九州市教育委員会
(石碑説明パネルより)
森鴎外京町住居跡 (福岡県北九州市小倉北区京町2−7−5) (平成23年9月15日) |
【田舎師団の軍医】
小倉師団の軍医部に珍しい軍医がいた。
ドイツ語をよくし、大変な勉強家であり、田舎師団の軍医としてはもったいないとの評判であった。
彼は軍医部診療所を拡張して一般市民をも診察したいと希望した。
しかし当時は日露戦争の始まらぬ古い時代であったから、そのような進歩的考えがそう簡単に許されるはずもないのであった。
(参考:樋口季一郎 著 『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』 昭和46年10月 第1刷発行 芙蓉書房)
(令和元年12月14日 追記)
【「温存」という造語】
私が中央幼年学校(のちの陸士予科)を卒業し、東京歩兵第1連隊に入隊してから、第1師団衛生隊演習の現場で、師団長、軍医部長に挨拶したことがあった。
その時の師団長は歳45歳ばかりなる閑院宮中将殿下であり、軍医部長はややそれよりふけた白皙痩身の森軍医監(少将)であった。
さて鴎外博士統裁にかかわる衛生隊演習を私どもは見学し、博士の演習後の講評なるものを聞いたのであるが、まことに平凡極まるお話の連続であったことを記憶する。
もっとも奇抜であるべきはずもないのであった。
彼は患者の「温存」という問題をしばしば説明していた。
温存とは何か。
それはドイツ語のブレーゲンである。
「患者を大切に取り扱う」という意味である。
この「温存」が後日日本語として種々の意味に使用されたが、いずれにしてもそれは鴎外によって創作された日本語であった。
文豪は若い時でもよき日本語を作る。
(参考:樋口季一郎 著 『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』 昭和46年10月 第1刷発行 芙蓉書房)
(令和元年12月14日 追記)
森鴎外の観潮楼かんちょうろう跡
都指定文化財(旧跡)
(文京区立鴎外記念本郷図書館敷地)
森鴎外(林太郎りんたろう・1862〜1922)は、通称“猫の家”(現向丘2−20−7・鴎外が住み後夏目漱石も住んだ)から明治25年(1892)ここに移った。
2階書斎を増築し、東京湾の海が眺められたので観潮楼と名づけた。
鴎外は、大正11年(1922)60歳で没するまで、30年間ここに住んだ。
(家は昭和12年借主の失火と戦災により焼失)
観潮楼の表門は、藪下やぶした通りに面したこの場所にあり、門の礎石や敷石はそのままである。
庭には戦火で焼けた銀杏いちょうの老樹が生きかえっている。
三人冗語さんにんじょうごの石はそのままであるが、鴎外の愛した沙羅さらの木は、後に植えかえられた。
鴎外は『舞姫』、『青年』、『雁』や『阿部一族』などの小説、、史伝、評論などを書き、ここは文学活動の中心舞台であった。
また、詩歌振興のため観潮楼歌会を開き、若い詩人、歌人に大きな影響を与えた。
文京区は、この文学上由緒ある地に、昭和37年9月、鴎外記念室を併設した特色ある文京区鴎外記念本郷図書館を開設した。
文京区教育委員会
昭和57年3月
(説明板より)
観潮楼・門の敷石 (東京都文京区千駄木・区立鴎外記念本郷図書館) (平成20年2月21日) |
右:三人冗語の石 (東京都文京区千駄木・区立鴎外記念本郷図書館) (平成20年2月21日) |
図書館表の展示写真パネル
三人冗語の石
雑誌「めざまし草」で、新作批評“三人冗語”を担当していた3人(森鴎外・幸田露伴こうだろはん・斉藤緑雨さいとうりょくう)が、この石の前で写真を撮ったことから、この名がついた。
この“三人冗語”で鴎外が樋口一葉の「たけくらべ」を激賞したのは有名である。
(写真パネルの説明文より)
鴎外記念室の沿革
鴎外の没後、観潮楼は2度の災害により消失してしまいました。
この観潮楼の跡地に記念室を併設して建設されたのが鴎外記念本郷図書館です。
文化勲章を授賞した谷口良郎氏の設計で昭和37年(1962)9月開館しました。
平成18年4月からは図書館部分が移転、本郷図書館鴎外記念室となりました。
館内の鴎外記念室では遺品・原稿・書簡・日記などを展示しています。
所蔵資料は研究資料も含め約1万点を数え、観潮楼跡に建てられた鴎外研究のために欠くことのできない施設として多くの方々に利用されています。
【開室案内】
開室時間:午前9時〜午後5時
休館日 :月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始(12/29〜1/4)・展示替等の館内整理日
参観料 :無料
アクセス :地下鉄千代田線千駄木駅1番出口 徒歩7分
(鴎外記念室のパンフレットより)
森鴎外の散歩道・藪下通り (東京都文京区千駄木・観潮楼跡の前の道) (平成20年2月21日) |
藪下通やぶしたどおり
本郷台地の上を通る中山道なかせんどう(国道17号線)と下の根津谷ねづだにの道(不忍通しのばずどおり)の中間、つまり本郷台地の中腹に、根津神社裏門から駒込こまごめ方面へ通ずる古くから自然に出来た脇道わきみちである。
「藪下道やぶしたみち」ともよばれて親しまれている。
むかしは道幅もせまく、両側は笹薮ささやぶで雪の日には、その重みでたれさがった笹に道をふさがれて歩けなかったという。
この道は森鴎外の散歩道で、小説の中にも登場してくる。
また、多くの文人ぶんじんがこの道を通って鴎外の観潮楼を訪れた。
現在でも、ごく自然に開かれた道のおもかげを残している。
団子坂だんござか上から上冨士かみふじへの区間は、今は「本郷保健所通り」の呼び方が通り名となっている。
文京区教育委員会
平成7年3月
(説明板より)
森鴎外
本名・森林太郎(1862〜1922)
文久2年(1862)1月19日津和野藩の典医の長男として生まれました。
明治5年(1872)に上京、進文学社に通いドイツ語を学びました。
明治7年12歳で東京医学校予科に入学、明治14年19歳で東京大学医学部を卒業しました。
明治14年(1881)12月陸軍に入り、明治17年から明治21年まで衛生学研究のためドイツ留学を命ぜられました。
留学中の体験は後に「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」のドイツ三部作といわれる作品に結実しました。
明治22年(1889)赤松登志子と結婚し、訳詩集「於面影」を発表、さらに雑誌『しがらみ草子』を創刊し文学活動を開始しました。
明治23年、長男於菟が生まれましたが間もなく離婚。
明治25年(1892)駒込千駄木町21番地(現・千駄木1丁目23番4号)に移り住みました。
この地は本郷台地の東端にあり、谷中・上野山及びはるか東京湾の潮路もながめられたといわれ、鴎外は「観潮楼」と名付けました。
ここで、「即興詩人」「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」「阿部一族」「山椒大夫」「渋江抽斎」などの代表作を次々に発表しました。
また明治40年(1907)から観潮楼歌会を催し与謝野寛、伊藤左千夫、佐佐木信綱、石川啄木、斉藤茂吉等、多彩な文学者が集いました。
鴎外は陸軍軍医総監に就任し多忙となったため、歌会は明治43年4月が最後となりました。
大正5年(1916)陸軍を退役しましたが、翌大正6年帝室博物館長兼図書頭に任ぜられました。
鴎外は「渋江抽斎」をはじめとする史伝、考証執筆にかかっていましたが、この頃より体調も思わしくなく大正11年(1922)7月9日観潮楼で亡くなりました。
享年60歳。
死因は萎縮腎、結核であったといわれています。
向島弘福寺に葬られましたが、関東大震災のため現在は三鷹禅林寺に移葬されています。
文久2年 (1862) |
1月19日石見国(島根県)鹿足郡津和野町田村字横掘に生まれる。 父は森静男・母は峰子、代々典医。 |
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明治5年 (1872) |
10歳 | 父に随って上京、西周邸に寄寓し、進文学社に入りドイツ語を学ぶ。 |
明治6年 (1873) |
11歳 | 東京医学校予科入学。 |
明治10年 (1877) |
15歳 | 医学校は東京大学医学部となり、その本科生となる。 |
明治14年 (1881) |
19歳 | 東京大学医学部卒業。 12月東京陸軍病院課僚となる。 |
明治17年 (1884) |
22歳 | 陸軍衛生制度調査及び軍陣衛生学研究のためドイツに留学。 10月ベルリン着。 ライプチヒでホフマンに学ぶ。 |
明治21年 (1888) |
26歳 | 9月帰朝。 陸軍軍医学校教官となる。 |
明治22年 (1889) |
27歳 | 3月赤松登志子と結婚し、5月末上野花園町に住む。 8月「国民之友」に「於面影」を訳載。 「しがらみ草子」創刊。 |
明治23年 (1890) |
28歳 | 1月「舞姫」8月「うたかたの記」発表。 9月長男於菟が生まれるが妻と離別。 10月本郷駒込千駄木町57番地(千朶山房)に移る。 |
明治24年 (1891) |
29歳 | 1月「文づかひ」発表。 8月医学博士となる。 坪内逍遥と没理想論争、翌年に及ぶ。 |
明治25年 (1892) |
30歳 | 団子坂、駒込千駄木町21番地に移る。 8月2階を増築し「観潮楼」と名付く。 「即興詩人」の翻訳を始める。 |
明治27年 (1894) |
32歳 | 日清戦争出征。 |
明治29年 (1896) |
34歳 | 1月「めさまし草」創刊、合評形式の新作批評「三人冗語」を掲載。 4月父静男死去。 |
明治32年 (1899) |
37歳 | 6月第12師団軍医部長として小倉に赴任。 |
明治35年 (1902) |
40歳 | 1月荒木志げと結婚。 3月第1師団軍医部長となり帰京。 6月に「藝文」を、10月に「万年艸」を創刊。 |
明治37年 (1904) |
42歳 | 日露戦争出征。 |
明治39年 (1906) |
44歳 | 1月凱旋。 6月歌会「常磐会」を設立。 |
明治40年 (1907) |
45歳 | 3月「観潮楼歌会」を始める。 11月陸軍軍医総監、陸軍省医務局長に就任。 |
明治42年 (1909) |
47歳 | 1月「スバル」創刊。 以後「スバル」に多数の創作を発表。 7月文学博士となる。 |
明治43年 (1910) |
48歳 | 3月より翌年8月まで「スバル」に「青年」連載。 |
明治45年 大正元年 (1912) |
50歳 | 10月「中央公論」に最初の歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を発表。 |
大正4年 (1915) |
53歳 | 1月「山椒大夫」発表。 9月詩集「沙羅の木」出版。 |
大正5年 (1916) |
54歳 | 1月「高瀬舟」「寒山拾得」を発表。 東京日日・大阪毎日新聞に「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」を連載。 3月母峰子死去。 4月医務局長を辞任。 |
大正6年 (1917) |
55歳 | 「北条霞亭」を連載。 12月帝室博物館総長兼図書頭となる。 |
大正7年 (1918) |
56歳 | この年より毎年正倉院曝涼のため奈良に出張。 |
大正8年 (1919) |
57歳 | 「帝諡考」の稿を起こす。 |
大正10年 (1921) |
59歳 | 4月「元号考」起稿。 11月第2期「明星」が創刊され、「古い手帳から」を連載。 |
大正11年 (1922) |
60歳 | 7月9日死去。 病名萎縮腎。 法名、貞獻院殿文穆思齋大居士。 向島弘福寺に埋葬。 (後、昭和2年三鷹禅林寺に移葬。現在に至る) |
(鴎外記念室のパンフレットより)
(平成20年6月9日追記)
【クラウゼヴィッツを知らしめる】
クラウゼヴィッツはナポレオン戦争に参加し、実戦の経験も、参謀将校としての経歴も豊富で、ナポレオン戦争の経験や戦史の知識を素材として軍学書を書くが、プロイセン以外ではほとんど注目を惹かなかった。
クラウゼヴィッツが全世界に知られるようになったのは、大モルトケが、クラウゼヴィッツ哲学による「武装国家」の威力をまざまざと世界に示してからのことである。
日本においてはその紹介が森鴎外を通じて行われたという点で特別な文化的意味を有する。
明治21年(1888年)にドイツに留学中の森鴎外は、同じく留学中の早川怡与造はやかわ・いよぞう大尉のために週2回ぐらい、クラウゼヴィッツの『戦争論』を講読してやったことが知られている。
この早川怡与造こそは後の田村怡与造中将である。
この人は、日露戦争の作戦準備中、参謀総長・大山巌の下の参謀次長として、対露作戦の研究指導の中心人物となった人である。
鴎外は帰国して小倉に配属された時も、明治32年12月から明治34年6月まで、小倉師団の将校たちにクラウゼヴィッツを訳述して聞かせている。
日露戦争当時は、ロシア軍もクラウゼヴィッツを研究してきていたのであるから、これを知らなければ日本軍の不利は相当決定的であったと思われるので、この面における森鴎外の国家に対する貢献は無視できないほど大きいものであったと言ってよいであろう。
(渡部昇一著『ドイツ参謀本部』 平成9年初版 ザ・マサダ発行)
(平成25年4月13日追記)
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