延慶元年(1308年)〜建武2年7月23日(1335年8月12日)
後醍醐天皇の皇子。
元亨3年(1323年)頃、延暦寺梶井門跡の大塔に入室し大塔宮おおとうのみや/だいとうのみやと呼ばれる。
嘉歴2年(1327年)天台座主となり倒幕運動を開始。
元弘元年(1331年)討幕運動発覚後、比叡山を逃れ、翌年還俗して護良と名乗り、後醍醐天皇が起こした鎌倉幕府討幕運動(元弘の変)に参戦。
倒幕後、将軍宮を称して、足利尊氏(高氏)と対立して信貴山に篭城。
後醍醐天皇に諭されて帰京後、征夷大将軍、兵部卿となるが、なお尊氏と対立。
父の後醍醐天皇と反目。
建武元年(1334年)拘禁され足利尊氏の弟である鎌倉の足利直義ただよしのもとへ送られる。
中先代なかせんだいの乱に際し、親王が北条氏の手に渡ることを恐れた直義によって殺害される。
土牢 (神奈川県鎌倉市・鎌倉宮) (平成18年9月24日) |
護良親王御土牢
二段岩窟
建武元年11月より翌2年7月23日迄約9ヶ月の間ここに御幽居し給ふ
今より643年前(昭和53年)
薨去の御年 28
深さ 約4メートル
廣さ 8畳敷 4メートル四方
(説明板より)
御構廟おんかまえびょう (御首塚) 大塔宮の御首を淵邊義博ここにおきまつる。 御墓はこの所より250メートル程いった山頂理智光寺跡にあり (説明板より) (平成18年9月24日) |
鎌倉宮碑 元帥陸軍大将勲位功二級貞愛親王篆額 明治6年5月 少内史正六位巌谷修撰 大正10年6月 正二位大勲位侯爵松方正義書 (平成18年9月24日) |
鎌倉宮碑
明治6年4月16日 車駕鎌倉ニ幸シ 親シク故征夷大将軍ニ品護良親王ヲ祭ラセ給フ
越エテ17日 闕ニ還ラセ給ヒ 太政大臣三條實美ニ勅シテ曰ク
親王ハ皇室式微武臣専横ノ日ニ在リ 艱楚嶇■遂ニ能ク鴻業ヲ恢復ス
而シテ貝錦萋斐冤ヲ呑ミテ薨シ給フ
朕之ヲ憶フ毎ニ未タ甞テ歔欷シテ泣下ラズンバアラザルナリ
今親シク遺跡ヲ弔ヒ 感慨殊ニ深シ
顧ミルニ 朕杏徳 幸ニ泰運ニ膺リ 大權ヲ既墜ニ復ス
祖宗ノ遺徳ト股肱ノ力ヲ致シタルトニ由ルトイフト雖モ 亦親王ノ靈 冥冥ノ中ニ翼賛シタル者ナシト謂フベカラズ
卿其レ表彰スル所以ヲ■レト 實美拝シ■首シテ曰ク 敬ミテ明詔ヲ■ハル
抑親王ノ忠憤義烈身ヲ以テ國ニ殉ズ
事ハ■冊ニ具シテ必ズシモ稱揚ヲ待タズ
惟フニ陛下ノ聖明 今日ニシテ斯ノ擧アリ
洵ニ是レ曠古ノ盛典ニシテ 獨リ親王ノ地下ニ瞑目セサセ給ハムノミナラズ 陛下ノ聖徳モ亦将ニ久遠ニ傳ハリテ泯ビザラムトスル也
請フ諸レヲ石ニ勒セムト 上 曰ハク可ナリト
是ニ於テ少内史巌谷修 命ヲ奉シテ其由ヲ記シ 係グルニ銘ヲ以テス 銘ニ曰ク
土窟幽暗 久シク蒿蓬ニ没ス
昌運維レ新ニ 煥タル其宮アリ
明主ノ徳 親王ノ忠
千秋赫奕 孰レカ欽崇セザラム
(説明板より)
※ ■はパソコンで表示できない文字です。
鎌倉宮 (神奈川県鎌倉市二階堂154番地) 社紋は菊花(十六菊)・山桜です。 (平成18年9月24日) |
鎌倉宮
明治2年(1869年)に明治天皇のお言葉により創立された神社で、建武中興の中心となられた後醍醐天皇の第一皇子大塔宮護良親王を御祭神とし社殿裏には親王最後の地土牢があります。
(説明板より)
護良親王墓所 (神奈川県鎌倉市二階堂) 墓は急な石段を登った山の頂上にあります。 斬首され捨て置かれた護良親王の首を理智光寺の僧侶が拾ってここに埋葬したといいます。 ここは理智光寺跡で、現在は宮内庁の管理地。 (平成18年9月24日) |
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