毛利季光 もうり・すえみつ

(大江季光 おおえのいすえみつ

建仁2年(1202年)〜宝治元年6月5日(1247年7月8日)


父親は大江広元
相模国毛利荘(現在の神奈川県厚木市)を譲られ、毛利氏を名乗り、毛利氏の初代となる。
鎌倉幕府三代将軍・源実朝に親しく仕え、実朝没後は出家して西阿と号した。
承久の乱では京都を占領した幕府軍の首脳の一人として活躍。
勲功の賞として安芸国吉田荘(現在の広島県吉田町)を得る。
妻が三浦義村の娘だったことから宝治ほうじ合戦では三浦氏方に参加して北条氏と戦い敗北。
息子たちと源頼朝墓所の法華堂で自殺した。
このため毛利一族の大半が果てたが、越後国にいた四男・毛利経光の家系だけが残り、その子孫は毛利元就に繋がる。


毛利季光



毛利季光の墓
(神奈川県鎌倉市西御門2−5・山の斜面)





(平成18年9月24日)
やぐら


やぐら

大江広元の墓(右)
毛利季光(大江季光)の墓(右)

”やぐら”とは山や丘の岩肌に掘られた横穴式の墳墓のことです。



(平成18年9月24日)
墓所入口



墓所入口

(神奈川県鎌倉市西御門2−5)





(平成18年9月24日)

自刃の地
白旗神社



白旗神社
(神奈川県鎌倉市西御門・大倉山裾)





(平成18年9月24日)

白旗神社 由緒記

祭神
源頼朝公
由緒
この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって髻もとどりの中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。
正治元年(1199)1月13日頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参列した。
その後鶴岡八幡宮の供僧ぐそう「相承そうしょう院」が奉仕して祭祀を続け 明治維新に際し寺は白旗神社に改められ源頼朝公を祭神として今日に至っている。
現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和45年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。

(説明板より抜粋)

法華堂跡





『法華堂跡』の碑
(神奈川県鎌倉市西御門・白旗神社)







(平成18年9月24日)

法華堂跡

堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル
健保5年5月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ
實治元年6月5日三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ一族郎等五百餘人ト偕ニ自盡シ滿庭朱殷ニ染メシ處トス

大正13年3月建
鎌倉町青年團

(石碑・碑文より)

墓所入口と法華堂跡



墓所入口と法華堂跡(白旗神社)
(神奈川県鎌倉市西御門・大倉山裾)





(平成18年9月24日)

毛利氏  毛利一族  承久の乱



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