栃木県那須郡那珂川町馬頭
平成19年10月21日
栃木県指定史跡
武茂城跡(乾徳寺けんとくじ)を含む
平成2年1月26日指定
城跡域 東西600m 南北270m
武茂城は、正応、永仁の頃(1288〜1299年)に、武茂泰宗(宇都宮氏の分家)が、現在の城跡の南西麓の「古館」の地に築いたのが創まりという。
本城跡は、東西に接近する2つの尾根上にあり、両者の山間低地に、武茂家の菩提寺である乾徳寺がある。
この寺を境として、西側は本丸、二の丸、三の丸などの生活の地域があり、東側は、東方への守りのための地域となっていた。
このように、生活と守備の両面を兼ね備えた本城は戦国時代の山城の様相をよく保存しており、武茂城跡と乾徳寺をを一帯としたこの山城は、優れた歴史的環境をなしている。
栃木県教育委員会・那珂川町教育委員会
(説明板より)
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静神社 (平成19年10月21日) |
静神社と武茂城跡のご案内
静神社は、大同年間(806〜809)誉田別命を祭神として、字若宮に祀られていました。
元禄年中(1688〜1703)に徳川光圀公の命によって、上郷地の山腹に遷座、手力男命を併祀して静神社と称しました。
明治6年に村社となり、同33年に武茂城跡のこの地に奉遷されました。
本殿は、間口1間(1.8m)奥行1.5間(2.7m)周囲に玉垣をめぐらしてあります。
境内からは、市街地が一望でき憩いの場となっております。
武茂城跡は、宇都宮城主景綱と三男泰宗が正応永仁(1288〜1293)の頃、武茂庄十余郷の領主となって武茂氏を名乗り子孫に伝いましたが、応永14年(1407)宇都宮に世子がなかったので、持綱(6代)本宗を網ぎ武茂氏は一時途絶えました。
その後持綱の曽孫正綱が武茂氏を再興しましたが、正綱も本宗が継ぐことになり三男兼綱が相続して一万石の領主となりました。
戦国抗争の世に入って、武茂氏は佐竹、那須両氏の抗争に係わり豊綱の代慶長4年(1599)遂には佐竹に降り常陸大賀村に移され、武茂城は佐竹の臣太田五郎左衛門の居城となりました。
武茂城、天険を利用した鎌倉時代中期の築城によるもので、山城初期の城郭の様子が良く保存されており、馬頭町指定文化財となっております。
参考文献 下野識
(説明板より)
(説明板より)
鎌倉中期(約670年前)正応永仁の頃、宇都宮景綱の三男武茂常陸介泰宗が築いた代表的山城の跡で、天主櫓跡、本丸、二の丸、三の丸の跡、土塁、薬研掘、帯郭、腰郭、武者走り等殆んど原型を保っている。
(説明板より)
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本丸跡 | 武者溜り跡 |
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土塁と武者走り跡 | 二の丸跡 |
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乾徳寺 (栃木県那須郡那珂川町馬頭114) (平成19年10月21日) |
乾徳寺の由来
大渓院 龍沢山 乾徳寺と称す。
大本山は福井県永平寺。横浜市総持寺。
武茂城跡は山門に向って左側の山一帯と右側の山一帯の根古屋が城跡としてのこっている。
本丸、二の丸、三の丸と続き昔のおもかげがのこされている。
正応永仁(1288年)伏見桃山時代、武茂泰宗が築城した。
泰宗武茂庄十余郷を領して武茂氏となる。
応永14年(1407年)武茂氏一旦断絶する。
寛正4年(1463年)宇都宮正綱の三男、兼綱が武茂氏を相続し一万石の領主となる。
兼綱、乾徳寺を建立、武茂家の菩提寺とした。
武茂累代の墓石が当山の墓地中央にある。
山門は武茂家の門として武茂家の定紋が両側に刻されており、菩提寺へ寄贈されたものである。
様式は桃山時代の建築を取入れ、質素な構造物である。
改修札に安永2年霜月大改修の棟札が残されている。
乾徳寺は三面山岳を以て渓間幽谷の地にあり、東に龍ヶ沢、西に闇ヶ沢、かゝる浄音の地にあるも、偶々明治36年4月8日、町内よりの飛火に不慮の火災に逢い七堂がらん悉く灰燼に帰せり。
再建に檀徒の総力と信者の浄財を得て、同44年4月4日、当山41世保寿代、8年の歳月を以て現在の本堂及び開山堂が再建されました。
境内には、経済の成長と共に、人心の安定を見るにいたり昭和36年3月当寺の遺族会が中心になり戦死病歿者壹百貮拾貮柱の英霊塔を建立発願し稲田花崗岩の多宝塔に戦歿者の名前を記し長く冥福を祈念する。
毎年3月慰霊祭、同年5月源明院殿菩薩の為、神場多巳一氏が鐘楼堂を寄進する。
昭和38年庫裏及び書院の新築を発願同40年完成渓雲閣とする。
■山禅師650年記念事業として本堂及び開山堂その他を銅板葺替え47年2月、完成、盛大なる報恩の落慶法要を営む。
同48年方丈の間を一棟、本堂の右側に建立。
昭和48年3月墓地造成し、北霊園墓地二期工事として、山門の右側へ南霊園を造成する。
昭和55年4月子育水子地蔵尊青銅色台座より5メートル50センチ 台座は、和見石以て地蔵尊を安置した。
地蔵尊建立と同時に中門移転改修し造園事業を行い環境の整備をし毎年5月5日、子供の日に例祭を行う。
昭和59年7月、寺務局の室を作る。
同年11月八角堂の宝徳殿を建立 永平寺禅師を迎え11月落慶法要を行う。
武茂氏系図
正応永仁(690年)泰宗城主
宇都宮正綱三男兼綱武茂相続
守綱
堅綱
輝綱(永禄)大館市
安綱(安正)
久綱(貞享)
金綱(元禄)
重綱(元禄)
邦綱(安永)
房綱(安永)
備綱(延享)
教綱(文化)
徳綱(安政)
維綱(大正)
( )は歿時
現在大館市に子孫の信雄氏
(説明板より)
那須氏 対 佐竹氏 の戦い |
応仁の乱後、戦国時代の真っ只中で武士団は抗争に明け暮れる。
関東北部では、北条氏と佐竹氏が新興豪族として領国の支配伸張に頭角を現し、この二豪族を取り巻いて諸武士団は凄絶な戦いを繰り広げた。
佐竹氏は、那須氏攻略に当たって武茂郷へ侵攻。
やがて武茂氏は佐竹氏の麾下となって那須氏や奥州白河、伊達氏等と陣頭に立って戦うことになった。
永享11年(1439) | 8月 | 小口河原の合戦。 武茂弥五郎吉綱・松野太郎左ヱ門有蔵等が那須明資と交戦する。 |
永禄 9年(1566) | 8月 | 烏山治武山(神長)の合戦。 那須資胤 対 佐竹義重・宇都宮広綱の戦い。武茂氏等が参戦する。 |
永禄10年(1567) | 2月 | 烏山大崖山合戦。 那須氏 対 佐竹氏の戦い。武茂兼綱・方綱等が参戦する。 |
元亀元年(1570) | 8月 | 大山田隆崖の戦い。 大山田左京亮が那須氏に内応。 佐竹義重、武茂堅綱等攻める。 広瀬縄釣合戦に武茂豊綱が300余騎をもって援軍。 |
天正元年(1573) | 1月 | 烏山天神河原合戦。 那須資胤 対 佐竹義重。武茂守綱、松野篤通等参戦。 |
天正10年(1582) | 8月 | 武茂守綱・豊綱父子、久慈瀬河原において那須資晴と交戦。 愛宕山まで攻め入れられ、松野、鷲子等の加勢を得る。 |
天正11年(1583) | 2月 | 烏山河原合戦。 佐竹義重・宇都宮国綱・武茂守綱等、那須資晴・大関氏等を攻める。 |
天正12年(1584) | 9月 | 松野合戦。 那須資晴・大関氏と武茂守綱・松野資通等が交戦。 |
10月 | 向田合戦。 | |
天正13年(1585) | 3月 | 薄葉合戦(大田原市薄葉・矢板市沢周辺)。 宇都宮国綱・武茂守綱等が那須資晴と交戦。 |
文禄3年(1594) | 佐竹義重、太閤検地により秀吉から54万5千8百石の領地を保証される。 直ちに領内知行割と家臣団の配置換えに着手。 |
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文禄4年(1595) | 二度にわたる那須氏内応の讒言のせいか? 武茂豊綱・堅綱は久慈郡大賀村(行方郡大賀村?)に配置換えとなる。 300年にわたる武茂氏の武茂郷支配に終止符が打たれる。 |
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慶長7年(1602) | 5月 | 佐竹氏、徳川家康より突然秋田への国替えを命じられる。 |
慶長9年(1604) | 武茂堅綱、佐竹氏を慕って秋田に赴き、家臣の列に加わる。 |
(参考:馬頭町教育委員会『武茂一族の興亡』より)
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