紫式部像 平成19年3月16日

紫式部 むらさきしきぶ

生没年不詳

京都市・京都文化博物館でお会いしました。


生年は970年代、没年は1010年代と推測される。
父親は藤原為時、母親は藤原為信の娘。
本名は不詳。
女房名は藤式部とうのしきぶ
『源氏物語』の女主人公紫の上にちなんで、死後に紫式部の呼称が生じたと思われる。
藤原宣孝の妻となり、大弐三位だいにのさんみを生む。
中古三十六歌仙の一人。
学者で漢詩人の父に育てられ漢詩文の素養を身につけた。
夫の死後に書き始めた物語が高い評価を受け、藤原道長の女上東門院(一条天皇の中宮)彰子に出仕。
宮仕えの苦労が『紫式部日記』に記される。
『源氏物語』の執筆はその後も継続され、虚構ではあるが優れた同時代史でもある。


紫式部像



紫式部
(乾漆像)
(京都市・京都文化博物館





(平成19年3月16日)

紫式部(乾漆像)

紫式部は、平安時代の女流作家また、歌人として、つとに著名であるが、紫式部がユネスコにおいて「世界の偉人」として、日本では最初にリストアップされていることはあまり知られていない。
生没年は不詳であるが天延てんえん元年(973)ごろ京都に誕生、長元ちょうげん4年(1031)ごろの没と伝えられている。
父は藤原為時ふじわらのためとき、母は中納言藤原文範の子である為信の娘である。
長保元年(999)藤原宣孝のぶたかと結婚、翌年長女賢子けんし誕生、長保3年(1001)宣孝と死別、寛弘かんこう3年(1006)ごろ一条天皇の中宮彰子しょうしのもとに出仕、その間、名作「源氏物語」五十四帖、「紫式部日記」「紫式部集」等を著わし、和歌は「後拾遺集ごしゅいしゅう」などの勅撰集ちょくせんしゅうにも入集され、内省的な傾向がそのその特色とされている。
墓は「河海抄かかいしょう」に「式部の墓所、(紫野)雲林院うんりんいんにあり、白毫院びゃくごういんの南、小野篁おののたかむらの墓の西なり・・・・・」とあり、現在、京都市北区紫野西御所田町2に、篁の墓と並んで供養されている。

この像は、社団法人現代教育研究協会(会長森藤吉)が創立20周年の記念事業として京都府に寄贈され、当館において公開している。
作者は、京都教育大学名誉教授・日展評議員杉村尚氏である。


(説明板より)


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