延享3年(1746年)〜文化8年2月13日(1811年3月7日)
本姓は平、通称は平四郎、字は士観さちまろ、号は錦織斎・琴後翁ことじりのおきな。
江戸の干鰯ほしか問屋に生れ、幕府連歌師の坂昌周の養子となる。
のちに本家を相続したが身代を傾け、隠居後は風雅を事とした。
漢籍を服部白賁はくひに、国典を賀茂真淵に学び、江戸派歌人の領袖として名を馳せ、松平定信の寵遇を受ける。
真淵の『賀茂翁家集』を編纂。
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「村田春海の墓」の碑 (東京都江東区清澄3−4・本誓寺前) (平成18年2月22日) |
東京都指定旧跡 村田春海墓
所在地 江東区清澄3丁目4番 本誓寺墓地
指定 昭和18年5月
江戸時代中期の国学者で歌人。
日本橋小舟町の豪商村田春道の次男として延享3年(1746)に生まれた。
父春道、兄春郷はるさととともに賀茂真淵の門人で著名な国学者であった。
春海は国学者としては仮名遣いや五十音の研究に造詣が深く、歌人としては加藤千陰かとうちかげとともに古今調の流麗な一派を立て江戸派と称せられた。
門人に清水浜臣しみずはまおみ・小山田おやまだ(高田)与清ともきよ・岸本由流きしもとゆずるらがおり、江戸の宗匠と称せられ、従い学ぶ者が衆をなしたといわれる。
『琴後集ことじりしゅう』『歌かたり』『和学大概わがくたいがい』など多数の著書がある。
文化8年(1811)2月13日66歳で死去した。
墓石に楷書かいしょで平春海先生墓とある。
平成8年3月8日 建設
東京都教育委員会
(説明板より)
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村田春海の墓 「平春海先生墓」 (本誓寺墓地) 真ん中の白っぽい墓石が村田春海のお墓です。 (平成18年2月22日) |
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本誓寺 (東京都江東区清澄3−4) 寺の反対側に墓地があります。 (平成18年2月22日) |
本誓寺
由来
本誓寺は浄土宗で、当知山重願院と号します。
文亀元年(1501)小田原(神奈川県)に創建され、天正18年(1590)小田原落城の際に焼失し、江戸桜田に移り、文禄4年(1595)幕府より八重洲河岸に寺地を拝領し再興しました。
慶長11年(1606)馬喰町に転じ、明暦3年(1657)、天和2年(1682)2度の大火に見舞われ、天和3年(1683)現在地に移りました。
墓地には、江戸中期の歌人でもあり、国学者でもあった村田春海とその一族が眠っています。
(説明板より)
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