陸奥宗光像 平成19年4月13日

陸奥宗光 むつ・むねみつ

弘化元年7月7日(1844年8月20日)〜明治30年(1897年)8月24日

和歌山県和歌山市・市立児童女性会館でお会いしました。


旧名は伊達陽之助。
幕末期に脱藩して坂本龍馬の知遇を得て海援隊に加わる。
維新後、外務大丞・大蔵省租税頭・元老院議官などを歴任したが、西南戦争時に西郷軍に通謀した疑いで、明治11年(1878年)禁獄5年の刑を受ける。
明治15年(1882年)特赦されて欧米に渡る。
明治21年(1888年)駐米公使としてメキシコとの対等条約の締結に成功。
明治23年(1890年)第一次山県内閣の農商務相に起用され、第一次松方内閣にも残留し、旧縁をいかして自由党・独立倶楽部に独自の影響力を持った。
明治25年(1892年)の選挙干渉問題で品川弥二郎内相と対立して辞任したが、第二次伊藤内閣の外相となり、治外法権の撤廃を内容とする条約改正を実現した他、日清戦争の講和条約、三国干渉などの処理や議会対策に大きな成果を残した。


陸奥宗光先生の像



陸奥宗光先生乃像

(和歌山市・市立児童女性会館)





(平成19年4月13日)

陸奥宗光むつむねみつ (1844〜1897)

弘化元年(1844)7月7日、紀州藩士 伊達宗広だてむねひろ・母 政子まさこの第6子として和歌山城下に生まれる。
15歳の時、江戸に出て文久年間(1861〜1864)以降尊皇攘夷運動に参加し、勝海舟の海軍塾に入塾、慶応3年(1867)坂本龍馬の海援隊に入隊する。
開国進取の政策を説き、明治元年(1868)岩倉具視の推挙により、外国事務局御用掛がかりとして官途に就く。
明治3年(1870)和歌山藩執事となって藩政改革に従事、兵制を整備した。
その兵制は諸藩の注目するところとなり、さらに改革は教育、産業、生活様式にまで及び近代和歌山の出発点となった。
廃藩置県以後、再び政府に出仕し、明治5年(1872)租税頭そぜいのかみに任じられ、地租改正局長として地租改正を行う。
明治21年(1888)外務省特命全権公使としてメキシコとの日墨にちぼく修好通商条約に調印し、我が国最初の対等条約を結んだ。
明治25年(1892)第二次伊藤博文内閣の外務大臣に就任し、政府が国家主権回復の最重要課題としていた不平等条約の改正に取り組んだ。
明治27年(1894)陸奥宗光の尽力により、イギリスとの間に、日英通商航海条約が結ばれ、領事裁判権の撤廃、関税自主権の部分的回復に成功し、不平等条約を取り除く大きな糸口となった。
この不平等条約改正は、我が国の国家主権を取り戻すという国家的課題であった。
同年8月に日清戦争が勃発したが、外務大臣として折衝し、翌明治28年(1895)4月下関において、清国との日清講和条約締結に尽力した。
この功を以って伯爵はくしゃくを特授、旭日大綬章きょくじつだいじゅしょうを授けられた。
明治29年(1896)5月、病により退官。
明治30年(1897)8月24日 54歳で没した。

青年期の陸奥宗光は、我が県はもとより国内近代化体制整備に尽力し、壮年期は国家の国際的地位の向上に大きく貢献した。
そして、その影響力は今日にまで及んでいる。
日本外交の一大難局を乗り越えた才腕は「剃刀大臣かみそりだいじん」と言われ、今も語りつがれている。

(説明板より)


政府顛覆計画

紀州派の大立者で元老院幹事の陸奥宗光は、明治10年の西南の事変勃発の際、土佐の立志社の林有造、大江卓、岩神昂らと共謀して政府顛覆クーデターを計画し、明治11日8月21日、禁固5年の刑に処せられた。

明治10年(1877年)2月、鹿児島の私学校党が決起したという報道が東京に届いた時、西郷隆盛の去就がまだはっきりせず、廟議は区々に分かれて定まるところがなかった。
この時、最初から堂々と討薩論を主張したのは内閣顧問の木戸孝允と元老院幹事の陸奥宗光の二人だけだった。
「今日の急務は速やかに廟議を一定して、征討の帥を出すことである。すでに私学校党が武器をとって起った以上、政府たるものは、これが討伐に躊躇してはならない。佐賀の乱、萩の乱の前例もあることである。よろしく英断果決全力をつくしてこれを討伐しなければならない」と、右大臣岩倉具視や参議大久保利通にその説を鼓吹した。
またこの機会を利用して内閣改造をはかり、木戸を説いて京都行在所の廟議を動かし、板垣退助後藤象二郎の二人を入閣させて、この際、薩長独裁の風を改めて内政を革新し、挙国一致で西郷にあたるべきだと主張した。
やがて西郷出兵の知らせが京都に入り、2月19日、政府はついに西郷征討の詔勅を発する。

西南の役の戦局ははじめ必ずしも政府側に有利ではなく、政府は徴兵だけでは足りないので、北海道の屯田兵まで動員したが、それでも足りず、各県の士族を募集して出征させることになった。
陸奥は紀州に赴いて壮丁を募集し、自らこれを率いて征討軍に参加しようと決意し、岩倉を説き、伊藤博文、大久保利通に会見してその応諾を受けようと東京から海路神戸に向かった。
しかし、陸奥の建議は伊藤にも大久保にも取り上げあげられなかった。

「行在所軍人取扱」(官軍の参謀長兼兵站総督)の鳥尾小弥太は、はじめ一切募兵には反対で、常備兵だけで征討すべきであるという意見だった。
維新の頃、鳥尾は木戸の内意を受けて大阪の陸奥の邸に寄宿していた。
陸奥は鳥尾にすすめて紀州藩に仕官させ、戊兵副都督として兵制の改革にあたらせた。
今は中将となったその鳥尾が陸奥の建議に大反対したのである。
鳥尾は、陸奥に旧紀州藩兵の募集を任せるのは危険千万である。陸奥は一世に傑出する手腕を有する人物である。もし彼に紀州の兵力を任せたならば何をするかわからないと密かに伊藤と大久保を説き、当時、陸奥の反対派だった紀州藩士・三浦安を起用し、旧藩主・徳川茂承を説き、機先を制して紀州の壮兵募集に着手させた。
この藩閥政府の陰険なやり方には、さすがものに動じない陸奥も激昂した。

かくて陸奥の計画した諸策はことごとく敗れ去り、陸奥は不平満々としてその日を送っていた。
陸奥が大江卓にすすめられて土佐派の政府顛覆の陰謀に関係するに至ったのはこの時のことである。

土佐の立志社の一派、林有造や大江卓の一派は、西南の役に乗じて武力をもって大久保専制政府の顛覆をじはかり、国会開設の目的を達成しようとクーデターを計画した。
この機に乗じて新内閣を組織し、立憲政治を実現しようというのである。
大江らは陸奥が、紀州藩の戊兵都督(総司令官)であったことに着目し、なんとかして陸奥をこの企てに加担させようと、陸奥を訪問して土佐挙兵の秘密を打ち明けた。
陸奥は大江と黙契して大阪鎮台襲撃の策を決する。
また、土佐の挙兵の準備と同時に、紀州においてもこれに応じる計画を定め、密かに募兵の計画を進めた。
更に、挙兵の準備と同時に、大江および岩神昂とはかり、重臣暗殺の準備を始めた。
そのリストに、大久保利通、伊藤博文に次いで、征討軍総参謀長・鳥尾小弥太の名を加えることを忘れなかった。
一方、林有造は上海から買い込むスナイドル銃の代金を作る為の金策に奔走していたが、うまくいかず、4月14日、官軍の援軍が熊本城に達して西郷軍の形勢が怪しくなってきた。
戦局の推移と共に高知の立志社では、戦機すでに去るとみて挙兵中止を唱えるものも出てきた。
6月1日、高知に戻った挙兵派の林有造はありあわせの銃と同志で決起しようと、いまさらのように拙速主義を唱えたが、6月4日、政府は高知の小池県令と相談の上、中岡商店に貯えられていた小銃1,500挺と火薬を陸軍省買上げの名義で押さえ、神戸に持ち去った。

これより前、薩軍が熊本進撃の最中、桐野利秋は中央の形勢を探らせるため鹿児島属、土佐人の三浦介雄を高知に向かわせる。
三浦は古勤王党の桑原兵八、左田家親などに面会して桐野の内意を伝え、彼らは薩軍に内応することを約した。
この時、三浦は立志社には何ら相談も働きかけもしなかったので、立志社のほうで、藤好静、村松政克を密使として薩軍に遣わした。
二人は5月16日、江代の本営で桐野利秋に面会して立志社の意向を伝え、5月26日に高知に帰って来た。
この事がやがて政府の密偵によって洩れ、捕縛の第一着手となった。
6月14日、藤好静、村松政克を捕縛。
6月25日、岩神昂、川村矯一郎を大阪で拘引。
8月8日、林有造は竹内綱(吉田茂の実父)の屋敷で外商ローザと会見しようとして門を出たところを拘引された。
8月17日より片岡健吉など8名が捕縛される。
翌年の明治11年4月24日に竹内綱、5月1日に中村貫一、5月15日に大江卓、岡本健三郎が拘引された。
陸奥は、すでに拘引を免れない事を知ると、鳥尾小弥太を訪ねて、真相を打ち明け、前後の処置を謀った。
鳥尾は自首をすすめたが、6月10日、陸奥が自首しないうちに拘引された。
この日、陸奥は羽織袴の出で立ちで、途中、親友の中島信行の宅に立ち寄り、後事を託してから入獄した。

明治11年8月21日、東京臨時裁判所で、大審院の判決が下る。
林、大江、岩神は禁獄10年、陸奥は禁獄5年だった。
紀州人で陸奥と行動を共にしていた者は、陸奥が口を閉ざして名前を出さなかったので、皆、罪を免れた。

(参考:竹橋事件100周年記念出版編集委員会 『竹橋事件の兵士たち』 1979年 現代史出版会発行)

(平成23年1月20日追記)


【欧州外遊】

和歌山藩士だった陸奥宗光は、幕末に脱藩して坂本龍馬率いる海援隊で活躍した。
新政府では外国事務局御用掛となり、兵庫県令などを歴任した。
だが、明治10年の西南戦争の時、土佐を拠点としていた立志社の政府転覆計画に加担したとして、翌年に逮捕された。
最初は山形監獄に収監されたが、同監獄が焼失したことから、明治12年には宮城監獄に移されていた。
当時、郵便報知新聞社の記者だった原敬は明治14年9月、元太政官大書記官の渡辺洪基とともに国内を周遊中、監獄にいた陸奥を見かけている。
明治16年1月、特赦により出獄した陸奥は、伊藤博文の勧めで外遊することにし、オセアニック号に乗り込んでいた。
陸奥は、イギリス、ドイツ、オーストリアなどを遊学して明治19年2月に帰国する。
陸奥は船内で知り合った斎藤実の語学力を高く評価し、米国公使館武官に就けるように政府高官に進言したといわれる。

(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)

(平成29年2月4日 追記)


【不平等条約の撤廃と日清戦争】 

明治政府の悲願は、不平等条約の改正です。
だから世界のどの国からも後ろ指をさされないように、国際法を徹底的に遵守しました。
新政府発足以来、不平等条約改正に最も友好的だったのはアメリカですが、交渉がうまくいきそうになると、利権を一つでも手放したくないイギリスが毎回邪魔をしてぶち壊しになりました。

時の陸奥宗光外相は開戦直前の状況と、日本人への偏見と蔑視に基づいたイギリス人の心理を逆用します。
陸奥は「日本のことを、国際法を守る文明国と認めるならば、不平等条約を改正せよ。もし認めないで不平等条約を維持するならば、我々は文明人ではないということなので、国際法を守るはずがないことになる」と、イギリスに詰め寄ります。
イギリスは東洋に権益を持ち居留民もいますので、戦争の一方の当事者である日本の言葉は恫喝の意味を持ちます。
ここにイギリスは不平等条約の撤廃を認めたので、列国も倣いました。
このときのイギリスの判断は、清国だけでなく、日本が勝った場合にも備えて保険をかけておこう、というものです。

(参考:倉山満 著 『嘘だらけの日中近現代史』 芙蓉社新書 2013年 第5刷発行)

(平成29年9月9日 追記)


【蹇蹇録けんけんろく

『蹇蹇録』は、日清戦争を勝利に導いた陸奥宗光外相が戦争直後に書いた回顧録である。
和戦の関頭に立って決心を迫られたときの心境の記述など、一つとして読者の心に響かないものはない。
日清戦争(明治27年8月1日〜明治28年5月8日)の発端となる東学党の乱から講和までの約1年間の動きを書いている。
書き終えたのが「明治28年除夜」という。
今日では「除夜」にすら疑問が呈されている。

当時の陸奥の体は病魔にとりつかれており、講和直後の三国干渉は病院の枕頭会議で練ったほどである。
それでもなんとかして苦心の跡を記録に残しておきたかった。
「蹇蹇」とは「心身を労して忠義を尽くす」という意味の言葉である。

日清戦争の宣戦布告は8月1日に行われた。
その前に日清双方とも軍事行動を起こし、衝突している。
駐韓大鳥圭介公使(当時は公使館だった)は、清国軍を撤退させてくれるように韓国が日本に依頼した形にするため、「清国兵撤退の要求」を7月22日に出させた。
また、7月25日には「清韓通商章程の撤廃」を清国に通告させてる。
いずれも韓国は渋っている。
陸奥外相は、7月27日の公使宛の書簡で、「牙山兵追討の事を朝鮮政府より依頼させ、また支那条約撤廃を宣言させたるお手際」(角田房子著『閔妃暗殺』)と賞賛している。
すなわち私信では、日本の工作を認めている。
ところが『蹇蹇録』では、「朝鮮は公然と清韓条約を廃棄する旨を宣言した。また国王はさらに同公使に向かい、牙山駐屯の清軍を駆逐するために援助を与えてもらいたいと依頼した」と記している。
本書では、朝鮮の自主性として書き残しているのだ。
いうまでもなく「強制」が「依頼」へ転換されているのである。

日清戦争では、伊藤博文首相は(日清間の問題を)話し合いで決着をつけたがった。
しかし、陸奥宗光外相は大鳥圭介公使とも相談のうえ、戦争で決着したがった。
そこに「保護属邦」という用語を清国の回答に見つけたので清国に飛びかかったのである。
閔妃暗殺も、陸奥の心に根ざしたものと見られている。
それ故にか、すべて偽装裁判の形で片付けている。
閣議でも軍の増強を主張。
いずれにしても、日清戦争関連では外交の成功となっている。
勝ったからなんとでも言える。
『蹇蹇録』が数回にわたって修正を加えられている(中塚明著『「蹇蹇録」の世界』)ところに、そのことがうかがわれる。

(参考:森 清勇 著『外務省の大罪〜幻の宣戦布告』 2001年12月初版 かや書房発行)

(平成26年10月10日 追記)


 平成23年9月15日

山口県下関市・「日清講和記念館」でお会いしました。





左:全権辨理大臣 伊藤博文公像
右:全権辨理大臣 陸奥宗光伯像

(山口県下関市・「日清講和記念館」)




(平成23年9月15日)

【日清講和会議】

朝鮮半島の権益をめぐり対立していた日本と清国は、明治27年(1894)甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに開戦しました。
この戦争は日清戦争と呼ばれ、戦況は日本軍の圧倒的優勢に進み、翌年清国は日本に講和の打診を始めます。
明治28年(1895)3月19日、清国の講和使節団を乗せた汽船が関門海峡の沖合に停泊しました。
翌日から下関の春帆楼で日清講和会議が開催されました。
この講和会議には日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章をはじめ両国の代表11名が出席しました。
講和に向けて会議はくり返しおこなわれ、4月17日に講和条約が調印されました。
下関が講和会議の地に選ばれたのは、日本の軍事力を誇示できる最適な場所であったからです。
事実、日本の軍船が大陸に向かい狭い海峡を通過する光景は、清国使節団に脅威を与え、その後の交渉は日本のペースで展開したといわれます。
このとき調印された講和条約は下関条約と呼ばれ、清国は日本に朝鮮半島の独立承認・領土の割譲・賠償金の支払い等を約束しました。

(リーフレット『日清講和記念館』より)

史蹟 春帆楼
日清講和談判場

(山口県下関市阿弥陀寺町4−2)
明治時代の初代春帆楼玄関

旧春帆楼

日清講和会議の会場となった旧春帆楼。
明治の初め、医師の藤野玄洋が開業した月波楼医院を、のちに妻のミチが改装し、料亭兼旅館としたものです。

(リーフレット『日清講和記念館』より)






日清講和記念館

(山口県下関市阿弥陀寺町4−3)




(平成23年9月15日)

日清講和記念館

この記念館は、明治28年(1895)春、この地で開かれた日清講和会議と、下関条約と呼ばれる講和条約の歴史的意義を後世に伝えるため、昭和12年(1937)6月、講和会議の舞台となった春帆楼の隣接地に開館しました。
浜離宮から下賜されたといわれる椅子をはじめ、講和会議で使用された調度品、両国全権の伊藤博文や李鴻章の遺墨などを展示しています。
また、館内中央には講和会議の部屋を再現し、当時の様子を紹介しています。

鉄筋コンクリート造、入母屋造、本瓦葺の記念館建物は、組物や懸魚げぎょなど細部に伝統的な意匠を用いて、威風ある外観を形成しています。
これらの特徴が「造形の規範となっているもの」として評価され、平成23年(2011)1月26日、国の登録有形文化財に登録されました。

(リーフレット『日清講和記念館』より)






講和会議場(再現)
(山口県下関市・「日清講和記念館」)




(平成23年9月15日)

講和会議場の再現

ここでは日清講和会議で実際に使用された調度品を記録にもとづいて配置し、会議場の様子を再現している。
会議は春帆楼しゅんぱんろう2階の大広間でおこなわれた。(当時の春帆楼の建物は昭和20年「1945」の戦災で焼失)
会議場は、浜離宮から下賜されたといわれる椅子をはじめとして、ランプ、ストーブ等の様々な調度品で整えられた。
会議終了後、これらの調度品は当時の有志に下賜され、貴重な歴史的遺品として保管されることとなった。
毎年講和条約調印の記念日(4月17日)に、春帆楼において公開されたという。
その後下関市へ寄贈され、記念館建設のきっかけとなった。

(説明板より)

李鴻章

旧古河庭園

旧古河庭園
(東京都北区西ヶ原1−27−39)

陸奥宗光邸跡

(平成22年2月9日)

庭園の案内

この庭園の敷地は、もとは明治の元勲陸奥宗光の別宅でした。
その後古河家が譲り受け、三代目当主の古河虎之助が大正3年頃に本来の敷地は本宅用地とし、新たに隣接地を買収して、庭園としたのが始まりです。
時を経て、国に所有権が移り、地元の要望などを取り入れて東京都が整備したのち昭和31年4月から公開しました。
この庭園の特徴は、武蔵野台地の南斜面という地形を活かし、この高台にゴシック様式の洋館を配しそのまわりと前面の斜面は明るい洋風庭園とし、連続する低地には池泉を中心とした和風庭園をつくり、これらを一体としたことにあります。
設計にあたっては、鹿鳴館や、ニコライ聖堂などを手掛けた英国人ジョサイア・コンドル(1852〜1920)が洋館並びに洋風庭園を受け持ちました。
また、和風庭園は、京都の平安神宮や無隣庵を作庭したことで知られる京都の著名な庭師、植治こと小川治兵衛(1860〜1933)の手によるもので、地形を活かした日本の伝統的な庭園を見事に造りあげています。
当庭園は、大正期の原型を留める貴重なもので、昭和57年8月4日に東京都文化財として指定され今日に至っていましたが、近代の庭園の中でも極めて良好に保存され、和洋の見事な調和を実現している秀逸で代表的な庭園として、平成18年1月26日、国の名勝に指定されました。

(説明板より)

洋館   庭園

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