鍋島直大像 平成20年11月24日

鍋島直大 なべしま・なおひろ

弘化3年8月27日(1846年10月17日)〜大正10年(1921年)6月7日 (※19日の説あり)


侯爵。
諱は茂実しげざね
佐賀藩主・鍋島直正の嫡子。
文久元年(1861年)襲封。
戊辰戦争に藩兵を率いて従軍。
明治2年(1869年)鹿児島・山口・高知の三藩主とともに版籍奉還を建白。
イギリス留学を経て外務省に入り駐イタリア公使。
ついで元老院議官・式部長官・宮中顧問官などを歴任。


閑叟公と種痘の像



閑叟公と種痘の像
(佐賀市・県立病院好生館)





(平成20年11月24日)

好生館の記

天保年間(1830〜1843年)天然痘椙■を極める人心■々のとき、鍋島閑叟公は伊東玄朴、楢林宗建らの建言により、オランダより良質の牛痘苗を入手させ、嘉永2年(1849年)城内において世嗣淳一郎君に大石良英より種痘を受けさせ、これが牛痘法全国普及のきっかけとなりました。
伊東玄朴らは間もなく江戸において種痘医養成のために淨金を集め、安政5年(1858年)江戸の神田お玉ヶ池に種痘所をつくりましたが、これは明治維新のあといくにの変遷を経て、いまの東京大学医学部に発展しました。
佐賀藩医学校は、天保5年(1834年)八幡小路に設立された「医学寮」に始まり、安政5年(1858年)に現在の片田江に移転し、閑叟公より「好生館」と命名されました。
明治4年、廃藩置県に伴い「好生館」は佐賀県立好生館病院となり、外人教授を擁して医師免許証交付権をもつ甲種医学校に指定されましたが、明治10年代になり外人傭教師制度が打ち切られるや、一時衰退の憂目にあい、県立所管は中断されました。
しかし県出身国会議員武富時敏氏らの復活運動により、明治29年(1896年)に佐賀県立病院好生館として再出発して現在に至ったのであります。
ここに佐賀県立病院好生館百周年を迎えるに当り

一.閑叟公と種痘の像   成富 宏 作(日展特選受賞者 佐賀大学教授)
一.医療庭園   庭師 松間一立 作(九州大学「神の手」庭園作者)

を寄贈し、佐賀の日本近代医学史における貢献をここに記念するものでありますが、歴史の単なる回顧に留まらずに、時代の流れの節目のときに当り21世紀の医学医療のあり方に新たな抱負と展望を沈思黙考するものであります。

平成8年(1996年)12月
佐賀県立病院好生館 百周年記念庭園整備事業委員会
好生館 名誉館長 井田 潔 謹書

(銘板より)


【鍋島直大】

鍋島直大は明治4年から12年までイギリスに私費で留学し、帰国するとイタリア駐在公使に任命された。
イギリス留学で何を学んだかといえば、社交術だといわれる。しかし「趣味は浅薄」、父親の閑叟と比べれば、「覇気なく、策なく、断なく、勇なく」と酷評されている。

(参考:『歴史読本 2001年3月号』 新人物往来社 発行)

(令和2年9月7日 追記)




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