長浜城 ながはまじょう

(長浜市長浜城歴史博物館)

滋賀県長浜市公園町


長浜城 平成18年4月8日

市指定史跡 長浜城跡

長浜はもと今浜いまはまといい、「バサラ大名」として有名な京極道誉きょうごくどうよ(佐々木高氏たかうじ)が室町時代の初め頃に出城を築き、それが長浜城の元と伝えられる。
以後、家臣の今浜氏・上坂こうさか氏が守将として在城したといわれている。
姉川合戦の後、その功によって湖北三郡を与えられた羽柴秀吉は、天正2年(1574)頃小谷おだに(湖北町)から当地に城下町を移し、地名を長浜と改め、ここに城を築いて数年間居城とした。
天正11年(1583)の賤ヶ岳しずがたけの戦では、ここを根拠地として大勝し、織田信長後継者としての立場を確立した。
秀吉の家臣である山内一豊も天正13年(1585)から5年間在城したことがある。
江戸時代になって、慶長11年(1606)には徳川家康の家臣である内藤信成が入城し、その子信正が摂津高槻に移るに至って廃城(元和元年・1615)となった。
建物及び石垣の大半は、彦根城の築城に際して移され、その天秤櫓てんびんやぐら(国・重文)や三重の隅櫓すみやぐらは当城の遺構とといわれている。
また、当市内の大通寺だいつうじ台所門(市指定建造物)、知善院ちぜんいん表門(市指定建造物)も当城の遺構として名高い。
この豊公園は「本丸」という小字名でよばれ、城域の中心部にあたるところから貴重な史跡として昭和37年に市の指定文化財として指定されている。
城跡の遺構は、これまでの発掘調査によって石垣や掘立柱ほったてばしら建物跡、礎石そせき建物跡さらには舟着場らしき石組遺構等が一部発見されている。
しかし、調査は部分的であり、全体の縄張なわばりや細部の構造については、未だ解明されていない。

(説明板より)

長浜城歴史博物館



長浜市長浜城歴史博物館

(滋賀県長浜市公園町10−10)





(平成18年4月8日)

昭和の長浜城築城

現在の長浜城は、東京工業大学名誉教授藤岡通夫工学博士の設計指導により、昭和58年に再興され、市立長浜城歴史博物館として開館。
本館の外観は、2層の大屋根に望楼をのせた初期天守の様式で、「秀吉の長浜城」を再興しようという市民の熱望によって天正期の城郭を想定し建築されている。

開館時間 午前9時〜午後5時(入館はは午後4時30分まで)
休館日 年末年始(12月27日〜1月2日)を除き年中無休。(ただし展示替えのための臨時休館あり)
交通機関 JR琵琶湖線 長浜駅より徒歩5分
入館料 大人400円

(リーフレットより)

旧長浜領境界碑



旧長浜領境界碑
(長浜城模擬天守閣)





(平成18年4月8日)

旧長浜領境界碑

長浜は、秀吉によって特別に町屋敷の年貢米三百石を納めることを免ぜられた。
この特権は徳川幕府にも認められ、他地域とくぎるための石碑が、江戸時代のはじめ長浜町のまわりに三十数本建てられたといわれる。
しかし今は、わずかに十余本を数えるだけで、そのうちもとの位置にあるものは数本である。
この境界碑は、秀吉のもうけた長浜の年貢免除の範囲を知る上で貴重な資料といえる。
なおこの境界碑は「これより東 長浜領・これより南・長浜領」と記され、もとは長浜町の西北隅に建っていたと思われる。

市立長浜城歴史博物館

(説明板より)

「おかねさん」の碑



「おかねさん」の碑
(豊公園・天守閣跡)





(平成18年4月8日)

長浜城と「おかね」さん

長浜城の天守閣跡といわれるこの地に、築城に際して人柱となった「おかね」さんの話が伝えられています。
天正2年(1574)ごろ、長浜城が築かれることになりました。
強固な城を築くための人柱として、長浜一の美女と評判の「おかね」さんが選ばれました。
若くして聡明であった彼女は、けなげにも湖北地域一円の繁栄を願い、自らの命を捧げたというものです。
「おかね」さんが眠るのは、この辺りといわれ、かつてこの北側にあった堀は、その縁もあり「おかね堀」と呼ばれていました。

平成16年3月吉日

(碑文より)

天守閣跡


長浜城天守閣跡

天守閣跡の碑
平成16年3月吉日建立




(平成18年4月8日)

長浜城の構造

この碑が建つ位置は、長浜城の天守閣があったといわれる所です。
その天守台の大きさは、江戸時代の絵図によれば、東西12間×南北10間とあります。
長浜城は、天正2年(1574)から翌年にかけて、羽柴(豊臣)秀吉公が築いた城です。
その後、山内一豊など4人の城主が入りましたが、元和元年(1615)には廃城となっています。
このように、長浜城の歴史は約40年に過ぎず、江戸時代の大半は城がなかったので、その構造(専門的には「縄張」といいます)は現状から推定することはできません。
古絵図などを基にした長浜城の復元によれば、上図のように2重の外堀と内堀に囲まれた水城で、南北約1.2キロ・南西約0.7キロの大きさであったと考えられます。

(説明板より)

推定復元図 説明板より

太閤井戸跡の碑


「太閤井戸跡」の碑

(豊公園)

琵琶湖の中に建っています。




(平成18年4月8日)
長浜城石垣出土地



長浜城石垣出土地

(豊公園)





(平成18年4月8日)

史跡 長浜城遺跡

従来、この附近の水面下には、長浜城石垣の用石と伝えられる巨石が散在していた。
昭和44年7月、この地に湖岸埋め立て工事が進められることになった。
同年11月下旬から約1ヶ月間、水底の発掘調査をしたところ、石垣の根石と認められる30数個の巨石が、延長約30メートルにわたり整然と列をなしていることがわかった。
よって、ここに標石を設けて長浜城遺構の一端をしのび、郷土史研究の参考に供するものである。

昭和46年3月
長浜市教育委員会

(説明碑・碑文より)

復興天守閣

本丸跡



長浜城本丸跡
(豊公園)





(平成18年4月8日)

大手門跡



長浜城大手門跡
(長浜市南呉服町)





(平成18年4月8日)
外堀跡



長浜城外堀跡

(長浜市南呉服町・元浜町)





(平成18年4月8日)

長浜城外堀跡

この水路は長浜城の外堀跡で、昔は30メートル近くあったといわれています。
当時はこの付近に城の大手門があり、今も東西の「大手門通り」にその名残をとどめています。

(説明板より)


天秤櫓




彦根城・天秤櫓


長浜城の大手門を移築したものといわれています。



(平成18年4月10日)

天秤櫓てんびんやぐら(重要文化財)

この櫓は、豊臣秀吉が創築した長浜城大手門を移築したといわれているもので、ちょうど天秤のような形をしているところから天秤櫓と呼ばれた。
この形式は、わが国城郭のうち彦根城ただ一つといわれている。
嘉永7年(1854年)に中央部から西方の石垣を足元から積み替えるほどの大修理があり、東半分の石垣がごぼう積みであるのに比べ西半分は落とし積みになっている。

(彦根城の説明板より)


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