永井荷風 ながい・かふう

明治12年(1879年)12月3日〜昭和34年(1959年)4月30日


本名は壮吉。
東京都出身。
明治35年(1902年)ゾラの影響下に『地獄の花』を刊行。
翌年、米国へ留学。
『アメリカ物語』『すみだ川』『冷笑』などで耽美派の中心となる。
明治43年(1910年)慶應義塾教授となる。
『三田文学』を主宰。
度重なる発禁処分(『ふらんす物語』や『夏姿』など)や大逆事件に代表される時代状況のため、江戸戯作者の姿勢をとり、享楽の巷に沈んで『腕くらべ』『おかめ笹』『つゆのあとさき』などを書いた。
日記に『断腸亭日乗』がある。
昭和27年(1952年)文化勲章受章。
昭和34年(1959年)4月30日、没。61歳。
大正6年9月16日から死の前日まで1日も日記を欠かさなかった。
奔放な人生に憧れ続けた文豪といわれている。


生育地前の坂道



「永井荷風生育の地」前の細い坂道


右端に”説明板”




(平成18年3月11日)
永井荷風生育地跡



永井荷風生育地・跡
(東京都文京区春日2−20−25)





(平成18年3月11日)

永井荷風生育地
(文京区春日2−20−25あたり)

永井荷風(1879〜1959)小説家、随筆家。
本名壮吉。
別号断腸亭主人など。
作品には『あめりか物語』、『腕くらべ』、『墨東綺譚ぼくとうきたん』や『断腸亭日乗だんちょうていにちじょう』などがある。
荷風は、明治12年(1879)12月、すぐ左の細い道の左側20番25号あたり(旧金富町45番地)で生まれた。
そして、明治26年飯田町に移るまで、約13年間住んだ。
(その間1年ほど麹町の官舎へ)
明治19年には、黒田小学校(現区立五中の地)に入学し4年で卒業して旧竹早町の師範学校附属小学校に入った。
『狐』(明治42年作)という作品に、生家の思い出がつづられている。
「旧幕の御家人ごけにんや旗本の空屋敷が其処此処そこここに売り物になっていたのをば、其の頃私の父は三軒ほど一まとめに買ひ占め、古びた庭園の木立をそのままに広い邸宅を新築した。・・・・・・」
小石川は、荷風の生まれ育った地で愛着が深く、明治41年に外国から帰ってくると、このあたりを訪ねて『伝通院』を書いた。
「私の幼い時の幸福なる記憶も此の伝通院の古刹こさつを中心として、常に其の周囲を離れぬのである・・・・・」とある。

文京区教育委員会
平成5年3月

(説明板より)


金剛寺坂


金剛寺こんごうじ
(東京都文京区春日2−4と5の間)

荷風が小学校に通っていた坂。




(平成18年3月11日)

金剛寺坂
(春日2−4と5の間)

江戸時代、この坂の西側、金富小学校寄りに金剛寺という禅寺ぜんでらがあった。
この寺のわきにある坂道なので、この名がついた。
小石川台地から、神田上水が流れていた水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。
この坂の東寄り(現・春日2−20−25あたり)で、明治12年に生まれ、少年時代をすごした永井荷風は、当時の「黒田小学校」(現在の第五中学校のある所、昭和20年廃校)に、この坂を通ってかよっていた。
荷風は、昭和16年ひさしぶりにこの坂を訪れ、むかしを懐しんでいる様子を日記に記しるしている。

東京都文京区教育委員会
平成元年3月

(説明板より)


黒田小学校跡




黒田小学校跡
(東京都文京区・区立第五中学校)




(平成18年3月11日)
黒田小学校跡




黒田小学校跡
(東京都文京区・区立第五中学校)




(平成18年3月11日)

黒田小学校跡地
(東京都文京区小日向2−16−15 区立第五中学校)

黒田小学校は明治11年(1878)第4中学区26番公立小学「黒田学校」として、ここに創立された。
当時、水道端2丁目(現水道2丁目)に居住していた黒田長知くろだながとも(旧福岡藩主)が明治維新の功労による、政府賜米しまい2000石を、東京府に献納して、小日向地区への学校設立を請願した。
東京府はその篤志とくしを永久に伝えるため、校名を黒田学校とした。
初めの校舎は、南北2棟の木造で8教室であった。
昭和11年(1936)校舎は鉄筋3階建てコンクリート造りとなった。
黒田家ゆかりの藤の花を校章とし、質実剛健を校訓とした黒田小学校は、名門校として、各界に多くの卒業生を送った。
卒業生の中には、永井荷風(作家)、黒澤明くろさわあきら(映画監督)、松平恒雄まつだいらつねお(宮内大臣)などがいる。
昭和20年(1945)空襲で校舎は全焼し、翌年3月31日をもって、黒田小学校は廃校になり、輝かしい68年間の歴史を閉じた。
戦後、校舎は改修され、昭和24年(1949)新制区立第五中学校(創立は昭和22年)となったが、黒田小学校の校風は脈々と受け継がれている。
黒田小学校の名残りの藤の木は、正門右上に移植され、今も花を咲かせている。

黒田小学校校歌
月雪花と変わりゆく 都のけしき見下みおろしして 歴史ひさしき学校まなびやに通ふも楽し丘の上 (第1節)

文京区教育委員会
平成11年3月

(説明板より)

服部坂



服部坂
(東京都文京区小日向1−7と2−16の間)





(平成18年3月11日)

服部はっとり
(小日向1−7と2−16の間)

坂の上には江戸時代、服部権太夫ごんだいゆうの屋敷があり、それで「服部坂」と呼ばれた。
服部氏屋敷跡には、明治2年(1869)に小日向神社が移された。
永井荷風は眺望のよいところとして、『日和下駄』に「金剛寺坂荒木坂大日坂等は皆斉ひとしく小石川より牛込赤坂番町辺を見渡すによい。・・・・・」と書いている。
坂下にある文京区立第五中学校はもと黒田小学校といい、永井荷風も通学した学校である。
戦災で廃校となった。

文京区教育委員会
平成9年3月

(説明板より)


【愛国主義の示威に違和感】

日本国内では、対英米戦争に対して多くはつかれたように戦争に熱中した。
戦争の熱烈な支持者となった詩人の高村幸太郎とは逆に、作家の永井荷風は愛国主義の示威に違和感を覚えていた。
荷風は遠回しにこれを批判した。
「開戦布告と共に街上電車飲食店其他到るところに掲示せられしポスターを見るに『屠ほふれ英米我等の敵だ。進め一億火の玉だ。』とあり。現代の人の作文には何だの彼だのと駄の字をつけて調子を取る癖あり。駄句駄字と謂うふべし」(ドナルド・キーン『日本人の戦争』)

(参考:湯浅博 著 『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』 文春文庫 2013年7月 第1刷)

(令和2年5月3日 追記)


永井荷風



 トップページに戻る   人物と史跡のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送