永井隆像 平成19年3月27日

永井隆 ながい・たかし

明治41年(1908年)2月3日〜昭和26年(1951年)5月1日

長崎県長崎市・長崎市永井隆記念館でお会いしました。


永井隆像



白衣を着た博士の胸像(34才のころ)
(長崎市永井隆記念館)





(平成19年3月27日)
永井隆博士の生涯
1908 明治41年 2月3日 島根県松江市苧町61番地にて出生

二男三女の長男
1909 明治42年   飯石郡飯石村(現三刀屋町)に転居

博士が生まれた翌年、父はここで医院を開業した
1920 大正 9年   飯石小学校卒業、松江中学校に入学

旧制松江中学校は母の実家に下宿して通った
中学時代のニックネームは“隆盛”
1925 大正14年   松江中学校卒業、松江高校入学

優秀な成績で卒業後、高校では自然観察と議論を好み唯物論のとりことなる
卒業の頃は身長1.71m、体重70kgと大柄だった
1928 昭和 3年   松江高校卒業、長崎医大入学
1930 昭和 5年 3月29日 母、ツネ、脳溢血にて急死(47歳)
1931 昭和 6年   長崎医大篭球(バスケットボール)部、全国大会3位

運動神経は鈍かったが、バスケットボールは創意工夫を生かし、メモ書きを怠らない熱心さで全国大会3位
短歌に興味を持ち、アララギ支社に入って歌会にも出席していた
1932 昭和 7年 3月 長崎医大を首席で卒業、急性中耳炎で入院

卒業式で答辞を読むはずだったが、クラス会の帰りに雨に濡れ急性中耳炎となって入院
聴力を失って聴診器を使えない恐れから専攻を内科から放射線科に変えざるを得なかった
6月 物理的療法科で放射線医学を専攻(助手)
1933 昭和 8年 2月1日 短期軍医に採用され、満州事変に従軍
1934 昭和 9年   無事帰国し、レントゲン科助手に復帰
6月 洗礼を受ける 霊名パウロ(ポーロ)
8月 下宿先のひとり娘、森山緑と結婚

江戸時代、キリシタンの信徒頭をつとめた帳方の家系で、家畜仲買を営む森山家に下宿した博士は、広島の歩兵第11連隊に入隊後、森山家のひとり娘である緑からキリスト教の書物を受け取る
改宗を決意した博士は、帰国後洗礼を受け、緑と結婚した
1935 昭和10年 4月4日 長男、誠一(まこと)生まれる
1937 昭和12年   長崎医大講師となる
7月 日中戦争に軍医中尉として従軍(2年6ヶ月)

中国の北から南まで第一線ばかり72回の戦闘を経験した博士は、敵味方の区別なく、負傷兵や現地住民の救護活動を行った
1939 昭和14年 2月4日 父、寛(のぶる)直腸ガンで亡くなる(59歳)
1940 昭和15年 2月 下関に上陸、3月5日長崎に帰る
4月 長崎医大助教授、物理的療法科部長
1941 昭和16年 8月18日 次女、茅乃(かやの)生まれる
1944 昭和19年 3月3日 医学博士
1945 昭和20年 6月 慢性骨髄性白血病で「余命3年」と診断される
白血球10万8千(正常値7千)

結核予防の集団検診が増加し、しかもフィルム不足のため直接透視で検査していたことから放射線を過量に受けて慢性骨髄性白血病、余命3年と宣告された
それでも第11医療隊隊長を務めたり、また、自発的に貧しい病人の無料診断を行なったりした
8月9日 原爆被爆
右側頭動脈切断、出血をおして3日間救護活動
8月11日 自宅焼跡に帰り緑夫人の遺骨を拾って埋葬
8月12に 三山町木場に救護班を開設、巡回診療を行なう(約2ヶ月間)
8月15日 終戦
9月25日 失神して危篤、一週間後奇跡的に回復
10月15日 浦上に帰り、一坪程のトタン小屋(裏石垣)に住む
11月23日 浦上教会合同慰霊祭、信徒代表として弔辞
1946 昭和21年 1月28日 長崎医大教授
7月 長崎駅で倒れ、以後病床に伏す
11月17日 長崎医学会で研究発表『原子病と原子医学』
11月 寝たきりとなり、再び立てず
1948 昭和23年 3月 如己堂が建ち、移り住む
8月 長崎医大教授を休職
10月18日 ヘレン・ケラー女史が如己堂を訪れる

ヘレン・ケラー女史が全くなんの前触れもなく如己堂を訪れた。(中略)ケラーさんの手が空気の中をしきりに私の手を探し求めながら近づいてきた。とうとう届いた。手を握り合った!温かい愛情が電流回路を閉じたときのように、瞬間に私の五体へ流れ込んだ。
(『いとし子よ』より)
12月 桜の三年苗木を千本、浦上に植える
1949 昭和24年 5月27日 床についたまま長崎医大で天皇陛下に拝謁

陛下は、恐れ多くもみ足をお運びになり、親しげに「どうです。ご病気は?どうか早く回復するよう祈ります。」とのお言葉をたまわり、また、私を治療してくださる影浦教授に、「治療を頼みます。」とまでお言葉をお添えになった。なんというありがたいお言葉だろう。
(『いとし子よ』より)
5月30日 教皇特使ギルロイ枢機卿の見舞いを受ける
8月1日 長崎市長の表彰を受ける
9月30日 長崎医大教授を退職
12月26日 長崎市名誉市民の称号を贈られる
1950 昭和25年 5月14日 教皇からロザリオを贈られる
6月1日 首相の表彰を受け、天皇から銀杯一組を賜る

表彰状 永井隆
常に危険を冒して放射線医学の研究に心血を注ぎ、遂に放射線職業病の一つである慢性骨髄性白血病の犯すところとなったが、なお不屈の精神力を振い起こして職務に精励し、学界に貢献したことはまことに他の模範とすべきところである
内閣総理大臣 吉田茂
1951 昭和26年 2月3日 白血球39万(正常値7千)
5月1日 午後9時50分、長崎医大で亡くなる(43歳)

「痛い」「苦しい」などの言葉を一言ももらさず書き続けた永井博士は、『乙女峠』を脱稿した直後右肩甲部に内出血が起こり右手が使えなくなって、書くことを止めた。
それからまもなく「白血病による心臓衰弱」で生涯を閉じた。
5月2日 本人の意志により遺体を解剖
(脾臓は常人の35倍、肝臓は5倍)

解剖執刀医は「死を賭して精進した結果、死期がのびた」と発表
5月3日 浦上カトリック教会葬
5月14日 長崎市公葬、坂本国際墓地に埋葬される

(リーフレットより)

如己愛人

わがいとし子よ
    “汝の近きものを
        己の如く愛すべし”

そなたたちに遺す私の言葉は、この句をもって始めたい。そして恐らく終りもこの句をもって結ばれ、ついにすべてがこの句にふくまれることになるだろう。

(『いとし子よ』より)

父性愛

この子を残して・・・・・この世をやがて私は去らねばならぬのか!
母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさない心のいじらしさ。
戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取りとめたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?・・・・・・

(『この子を残して』より)

如己堂

如己堂は、2畳ひと間きりの家、北側の壁に香台、本だなを取りつけ、その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置いて、ここに私は身を横たえている。西側は一面の白壁、何の飾りもない。東と南はガラス戸で、草に埋もれる原子野を隔てて浦上天主堂に向かう。この家を狭いと思うは、なまじ敷居で庭と仕切って、この部屋をわが物ときめた人間がみずから招いた窮屈。・・・・・・
如己堂・・・・己の如く他人を愛す、という意味を名にとったこの家は、家も妻も財産も職業も健康も失って、ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。そして今にいたるまで、その数々の友の如己愛は絶えずこの家に注がれ、それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である。

(『平和塔』より)

如己堂



如己堂
(長崎永井隆記念館)





(平成19年3月27日)

如己堂にょこどう

長崎市名誉市民、永井隆医学博士の病室兼書斎。
島根県出身の永井博士は、長崎医科大学卒業後、放射線医学を専攻した。
当時は結核患者が多く、医療機器も不十分だったことから、放射線を過量に受け、「慢性骨髄性白血病 余命3年」と宣告された。
その2ヶ月後、原爆を被爆し大けがを負って妻までも失ったが、被災者の救護活動に積極的に取り組み、ついには寝たきりとなってしまった。
しかし、科学者としての不屈の研究心とカトリック信者としての厚い信仰心もあって、病床にありながら十数冊もの著書を執筆した。
博士は、この建物を「己の如く隣人を愛せよ」との意味から『如己堂』と名づけ、ここで2人の子どもと生活した。
そして、ここから世界中の人々に戦争の愚かさと、平和の尊さを発信し続け、昭和26(1951)年5月1日、43歳で永眠した。
博士の恒久平和と隣人愛の精神は、今も多くの人に受け継がれており、如己堂はその象徴となっている。

長崎市教育委員会

(説明板より)

長崎市永井隆記念館



長崎市永井隆記念館

(長崎県長崎市上野町22−6)





(平成19年3月27日)

永井隆の墓



永井隆・永井緑の墓

(長崎県長崎市・坂本国際墓地)





(平成20年11月22日)
永井隆の墓



永井隆・永井緑の墓

(長崎県長崎市・坂本国際墓地)





(平成20年11月22日)

坂本国際墓地

坂本国際墓地は、1888(明治21)年大浦(川上町)の国際墓地の閉鎖にともないこの地に新設された。
1903(明治36)年には道路の向かい側にまで墓地が広げられた。
そのなかにはトーマス・グラバーやその息子、倉場富三郎をはじめ日本の産業、経済、教育などの発展に多大な貢献をした多くの外国人の墓がある。
原爆被爆者で「長崎の鐘」その他の著作で名高い永井隆博士もここに眠っている。

(説明板より)


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