長久保赤水 ながくぼ・せきすい

享保2年11月6日(1717年12月8日)〜享和元年7月23日(1801年8月31日)


名は守道、のちに玄珠はるたか
通称、源五兵衛。
常陸国多賀郡赤浜村(現:茨城県高萩市)の農家の生まれ。
儒医の鈴木玄淳、藩儒の名越南渓に師事。
奥羽地方を旅したり、地元漁民の漂流者を引き取りに長崎へ行き見聞を広める。
『日本輿地よち路程全図』や『大清広輿図だいしんこうよず』などの地図を著す。
安永6年(1777年)水戸藩主の侍講に抜擢され出仕。
寛政3年(1791年)致仕、以後『大日本史』地理誌の編修に加わった。


長久保赤水

(赤水の地図は、伊能忠敬の日本地図完成より、42年も前に作成され、出版されていた)

赤水は、江戸時代の享保2年(1717)に、現在の高萩市赤浜に生まれた。
赤水は、名を玄珠(はるたか)、通称、源五兵衛(げんごべえ)といった。
9歳の時、母に死なれ、11歳の時、父を亡くし、継母に養育された。
16歳の時、下手綱の上町にあった鈴木玄淳(げんじゅん)の塾に通って一生懸命に勉強した。
25歳の頃から、水戸藩の学者名越南渓等に学び、才能を発揮する。
35歳の頃から、地図に興味を持って学び、44歳の時、今の東北地方の旅に出る。
また、磯原の船員が、季節風で安南国(今のベトナム)へ漂流し、長崎へ送り返されたので、引き取りを命じられ、長崎まで出掛けた。
赤水は、旅をしながら、実際に自分の目で、日本の国土の地理について学ぶという目的を持っていた。
そして「東奥紀行」「長崎行役日記」の書にまとめた。
52歳の時、水戸藩の郷士格(武士待遇)となり、安永6年(1777)61歳にして、水戸藩主徳川治保(はるもり)の侍講(じこう=先生)となり、江戸の小石川の水戸藩邸に住むようになる。
農民出身の赤水は「農民疾苦(しっく)」(農民の生活はとても苦しい状態にあるので、年貢(税金)の取り立てを厳しくしないようにして下さい)という上書を藩主治保に提出している。
62歳の時、有名な「改正日本輿地路程全図」(かいせいにほんよちろていぜんず)という日本地図を完成し、翌年の安永8年(1779)に江戸と大阪で発行した。
伊能忠敬(いのうただたか)の「大日本沿海輿地図」完成(文政4、(1821))より、42年も前のことである。
このほか、赤水は、世界地図、中国地図、中国歴史地図等を作成するなど世界的地理学者といっても過言ではない。
享和元年(1801)85歳にて、赤浜の松月亭で没した。

(高萩市郷土資料館配布の資料より)

(平成19年12月1日追記)


【長久保赤水】 

長久保赤水は、享保2年(1717年)11月6日、多賀郡赤浜あかはま村(現:高萩市)の旧家に、父・善次衛門貞道、母・繁しげの長男として生まれた。
長久保家は代々赤浜村の庄屋を務める家柄で、赤水は赤浜村字町の祖父・貞永の屋敷で成長し、享保8年、7歳の時に弟(2歳)や両親とともに同村字北原(現在の赤水旧宅)に移った。
享保10年、9歳の時に母・繁が没し、翌11年に父が後妻・咸みなを迎えた。
ところが父はまもなく病の床に臥し、翌12年に没した。
継母・咸の一族は咸に再婚を勧めたが、咸はこれを退け、ひたすら赤水を養育することに力を注いだ。
元文4年(1736年)、赤水23歳の時に同族の治部衛門忠次の妹・順を娶めとり、寛保元年(1741年)には長男の藤八郎敬忠が誕生した。

赤水は農業のかたわら学問に精進し、隣村の下手綱しもてづな村の郷医・鈴木松江しょうこうに漢学を学び、更に松江の紹介により水戸藩の学者・名越南渓なごやなんけいに入門し、四書五経・史学・文学・漢詩などを学んだ。
赤水は宝暦10年に奥州・北陸地方を旅行し、道中で磁針器を用いて方向を調べたり、宿場や城下町の由来や風習を記録した。
この旅行記は、のち寛政4年(1792年)に、いとこの子の長久保中行(号は暘谷)の校注、柴野栗山しばのりつざんの序文を得て『東奥紀行』として刊行された。

明和4年(1767年)には、同2年に遭難して安南国(現:ベトナム)に漂着した磯原村(北茨城市)の姫宮丸の乗組員が、清国の商船に便乗して長崎に帰着したので、赤水は磯原村庄屋代理として、その乗組員の引き取りのため長崎に赴いた。
旅行中は名所旧跡などを訪ねて大いに見聞をひろめ、また長崎では詩文を清国人と贈答し、のちにこれを『清槎唱和集』と題して出版した。
さらに、漂流民から漂流の事情や安南国の風土・人情などを聞き書きして『安南国漂流記』としてまとめ、長崎紀行の記録を『長崎行役日記』としてまとめた。
明和5年12月25日、赤水は学問の功により水戸藩の郷士格ごうしかくに取り立てられた。
安永3年(1773年)には松岡地方(現在の高萩市・北茨城市周辺)を中心とする農村の姿を素直に描写し、荒廃した農村の改革的意見を述べた『芻蕘談すうじょうだん』を著わした。
安永4年には経緯線を記入した最初の日本地図である『改正日本輿地路程よちろてい全図』を完成し、同8年に刊行した。
赤水は、日本全国の国絵図などは個人では見られなかったので、恩師の名越南渓や水戸藩の天文家・小池友賢の便宜を受けた。
また、自宅前を通る旅人や商人・僧侶などを呼び止めて、その郷里の地形を尋ね、それによって原図を訂正したこともあったという。

安永6年10月24日、赤水は抜擢されて水戸藩第6代藩主・徳川治保はるもりの侍講となり、七人扶持を与えられて江戸常勤となった。(赤水61歳)
翌7年、この年水戸藩の農政によって農民がひどく苦しんでいる実情を明らかにした『農民疾苦のうみんしっく』を藩主・治保に上呈。
以後、治保やその弟の宍戸ししど藩主・松平頼救よりすけの信任を得て、度々民政などについての下問を受けた。

天明2年(1782年)9月19日に馬廻組となり、同4年12月9日には近習番に進む。
同5年には『改正地球万国全図』を刊行した。
同6年、隠居格となるが、治保の特命により『大日本史』の「地理志」の編集に従事した。
寛政3年(1791年)8月1日の致仕ちし後も、赤水は小石川の江戸史館で「地理志」編集に没頭したが、同9年夏に郷里に帰り、享和元年(1801年)7月25日に85歳で病没した。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月発行)

(平成29年6月25日 追記)


誕生地



長久保赤水誕生地
(茨城県高萩市赤浜)





(平成19年9月11日)
誕生地



長久保赤水誕生地
(茨城県高萩市赤浜)





(平成19年9月11日)

碑文

長久保氏の遠祖は九州の大友氏。
応仁の乱のころは駿州(静岡県)長久保城々主でした。
戦国時代北条氏綱に攻めおとされ東国に落ちのび、初め久保田十郎(いわき市)に保護され、のち車氏(北茨城市)にも仕えました。
赤浜のこの地は、江戸時代初期その直系長久保貞仲(作之丞仲俊・■■院)が帰農定住した所です。
この子孫は代々赤浜村の庄屋を勤めました。
地政学者赤水(1717〜1801 伝五兵衛 源五兵衛 子■ 玄珠■■■生まれ、幼年時代をこの地で過ごしたのです。
赤水の父長久保善次衛門貞通は北原に分家して新屋に■■■■
青年時代隣村手綱の鈴木玄淳や水戸藩の名越南渓に学びました。
43歳の夏、仙台・松島・石の巻・新潟方面を旅■
50歳の秋には長崎までもの大旅行をしました。
■■歳後の赤水■第6代水戸藩主徳川治保の先生■■■■の水戸藩邸に住みました。
そのかたわら農政改善にも取り組み農民たちの陰の力となったのです。
赤水の代表作は改正日本與路程全図(通称赤水図1780年出版)といわれ、これは日本で最初に緯線とそれに交わる縦線を引いたかなり正確なものです。
伊能忠敬の日本地図の■■約半世紀■■■完成しました。
伊能図が政治上幕府の秘蔵図で一般に知らされなかったのに対し赤水図は■■■■■を約1世紀もの長い間、広く全国の志士たちや旅人たちに夢を与え、また重宝がられ■■■■
嘉永5年(1852)正月22日、長州(山口県)の22歳の青年、かの吉田松陰■三百■■■■
赤水図をふところにして、この碑の前の奥州街道を歩いて通り赤水のお墓参りをして■
今年赤水誕生270年を記念して、その徳をしのび偉大なる業績をたたえこの碑を建て■■
1987年(昭和62年)11月6日

(碑文より)


長久保赤水の墓



長久保赤水の墓
(茨城県高萩市大字赤浜955−1先)





(平成18年9月28日)
長久保家墓地



長久保家墓地

(茨城県高萩市大字赤浜955−1先の松林の中)





(平成18年9月28日)

長久保赤水の生涯について

長久保赤水生存中の85年間は、8代将軍吉宗から11代家斉にあたり、水戸藩では5代藩主宗翰から6代治保にあたる。
特に治保のときは文運復興の時代でもあった。
こうした情勢下に、赤水は享保2年(1717)に長久保氏来住地、赤浜村字町の五代貞永の庄屋屋敷で誕生した。
その後は祖父母・両親・親族の愛護により農民の子として成長したが、祖父母を失い、8歳のとき両親・弟(2歳)・農夫と共に字あざ北原の地に移り、新屋として独立し赤水一家は農業に励んだ。
その間に、弟は3歳・母は29歳・父は34歳と8年間に5人の近親を失った。
11歳の赤水は全くの孤児となったが、継母の愛育によりすなおに成長した。
そして壮年に至るまで松岡七友と交友を結び互いに学問に励んだ。
また柴田平蔵からの借用書籍から多くの啓発を受けた。
赤水23歳は同族忠次の娘(21歳)を嫁に迎えてからは、読書にもゆとりができた。
44歳のとき奥州北陸に、51歳のとき長崎行などをして、後に紀行文を再従弟またいとこの中行が校訂をして発行した。
日本地図編集は35歳頃から始め、安永8年(1779)に改正日本輿地路程全図を大阪から発行した。
その後も赤水図として明治初期まで約1世紀間も名声を博した。
61歳で藩主治保の侍講侍読(講読官)となり、江戸小石川藩邸のお長屋に81歳まで生活した。
その間に中国地図・中国歴史地図帳・世界地図その他の諸書を発行した。
なお75歳で致仕し江戸を去るまで大日本史地理誌稿の編集に専念し、82歳で水戸に移り立原翠軒宅に起居し、その校訂に没頭した。
寛政10年(1798)82歳で赤浜村字北原の新屋・松月亭に帰り、享和元年7月23日、85歳の長命で没した。
同月25日北原墓地に葬られた。
明治44年6月1日、政府は特旨を以て従四位を贈られた。

昭和57年3月1日
高萩市教育委員会

(説明板より)




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