安政5年5月13日(1858年6月23日)〜昭和8年(1933年)4月21日
新潟県上越市 「旧師団長官舎」のお庭でお会いしました。
長岡外史は安政5年1月13日に山口県の大庄屋・堀三右衛門の五男として生まれ、後に農業・長岡弥九郎の養子となります。
明治8年に兵学寮に入り陸軍軍人としての道を歩みます。
日露戦争時には参謀次長を務めました。
明治43年6月に第13師団長、大正2年1月に第16師団長を歴任、大正5年9月に予備役に編入されました。
大正13年5月から昭和3年1月まで衆議院議員を務めました。
昭和8年4月21日に亡くなりました。
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旧師団長官舎
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日本スキー発祥記念館
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【飛行機将軍】
日露戦争の陸戦では旅順攻撃が天王山となり、203高地の攻撃に何度も失敗した。
飛行機に強い関心を持っていた長岡外史は、このとき大本営参謀次長で、気球による偵察と攻撃を指示したが、現地の第3軍司令官・乃木希典の反対にあい実現しなかった。
長岡はその後、陸軍軍務局長、明治42年8月には中将となり、臨時軍用気球研究会会長として、飛行機の開発に熱心に取り組んだ。
明治43年4月には、同研究会は、徳川好敏大尉をフランスに、日野熊蔵大尉をドイツでの飛行術の習得と飛行機購入の任務を与えて出張を命じた。
しかし、当時、軍部内での飛行機への関心はそれほど高くはなかった。
明治43年(1910)12月19日、徳川好敏大尉の操縦するファルマン式複葉機と、日野熊蔵大尉の操縦するグラーデ式単葉機が代々木練兵場(現:東京の代々木公園)で飛んだ。
日本で最初に動力飛行機が飛んだこの日、寺内正毅陸相、乃木希典大将ら陸軍軍人、さらに山川健次郎帝国大学総長、田中館愛橘たなかだてあいきつ博士ら大学研究者も多数参観していたが、「飛行機なんてものは山川や長岡のような変人にまかせておけばいいさ」と放言する将軍がいたという。
長岡は大正4年(1915)に予備役となるが、「国民飛行会」を設立して会長に収まり、40センチもの長いカイゼル髭を生やして「プロペラ髭」と称した“奇人”で、飛行機の普及を目指して日本中、世界中を飛び回った“飛行機将軍”でもあった。
(参考:前坂俊之「殿様飛行士 徳川好敏」・『歴史読本・2012年8月号』所収)
(平成29年4月7日 追記)
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