長崎甚左衛門像 平成20年11月22日

長崎甚左衛門 ながさき・じんざえもん

天文17年(1548年)(?)〜元和7年12月12日(1622年1月23日)

長崎県長崎市・長崎公園でお会いしました。


長崎甚左衛門の像



長崎甚左衛門之像
(長崎県長崎市上西山町19−8・長崎公園)





(平成20年11月22日)

郷土長崎の開港を促進した長崎甚左衛門の顕彰の由来

歴史は光陰矢の如く走り去り、その昔、長崎が開港して以来425年の歳月が流れていった。
開港の往時を想起するとき、郷土長崎は九州の最西端に位置する一寒村に過ぎなかったことが伺い知られる。
平 重盛を祖とする長崎氏14代長崎甚左衛門は、領主として長崎を治め、大村純忠と謀って長崎港を開いて交易の準備を進めた。
当時、それは勇気と決断のいる一大事業であった。
また内政にあっては度重なる隣國諸藩の攻撃を受け、心の安んじた日も少なかったと歴史は語っている。
その狭間にありながら、西洋文化を積極的に採り入れた知識欲旺盛な甚左衛門は、あらゆる面で我々日本人を長い間の閉鎖的な社会性から目覚めさせ、進歩した西洋文化をこの長崎から遠望させたのである。
時あたかも戦國時代、生死をかけた戦いに幾多の辛苦、困難にあえぎながら領民と共に生き残ろうとする術も虚しく、領土は豊臣秀吉により天領として取り上げられ、甚左衛門は領民とも離別、落日とともに淋しく長崎の地を去って行った姿をまぶたに追想するとき、後世の長崎に住む者として不憫の涙を禁じ得ないのである。
晩年、甚左衛門は再び大村喜前公を頼ってその禄を受け、長崎に程近い西彼杵郡時津に余生を送り、かつては自領であった長崎の地に望郷の思いを馳せながらも帰ることを許されず、淋しく世を去った。
それは元和7年12月12日享年74歳であったと墓石(時津浜田郷小島田)に記されている。
それから時代は幾多の変遷を繰返し、今日の長崎に至ったのであるが、長崎市民はもとより、結果として全日本人が数多くの文化的遺産を、大村純忠と長崎甚際左衛門の先見と英知によってもたらされたことを直視しなければならない。
思うに、「文化」という言葉の語源が「耕す」という言葉に起因すると言われているが、この二人は、正しく閉鎖された我が國の大地を耕した先達と言っても過言ではあるまい。
我々有志は、このような史観に立って長崎甚左衛門を追慕し、ここに「汝の祖先を思い汝の子孫を思え」の心情でこのことにあたり郷土の先賢の銅像を建立して広く世に功績の顕彰を願うものである。

平成7年2月吉日
長崎甚左衛門の遺徳を顕彰する会

(碑文より)




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