永田鉄山像 平成20年10月24日

永田鉄山 ながた・てつざん

明治17年(1884年)1月14日~昭和10年(1935年)8月12日

長野県諏訪市・諏訪護国神社でお会いしました。


陸軍中将。
長野県出身。
陸軍士官学校第16期。
陸軍大学校卒。
ヨーロッパ駐在中、小畑敏四郎・岡村寧次やすじらと陸軍の改革を決意(バーデン・バーデンの密約)し、帰国後「一夕会」などの中心となる。
昭和元年(1926年)陸軍省動員課長となり、以後同軍事課長・参謀本部第二部長などを歴任。
昭和9年(1934年)3月に陸軍省軍務局長に就任し、以後は統制派の中心とみられた。
翌年8月、皇道派の相沢三郎中佐に軍務局長室で刺殺された。


永田鉄山中将像



永田鉄山中将像

(諏訪市高島1丁目・諏訪護国神社





(平成20年10月24日)

碑文

永田鐡山中将ハ明治17年1月14日上諏訪町本町ニ生マル
郡立高島病院長永田志解理氏ノ四男ナリ
高島尋常高等小学校ニ学ブ
年少志ヲ立テテ東京陸軍地方幼年学校ニ入リ進ミテ陸軍士官学校陸軍大学校ヲ卒フ
天稟ノ優秀ニ加フルニ非凡ノ勉励ヲ以テシ各校ノ卒業毎ニ成績抜群ニシテ恩賜賞ヲ授与セラル
夙ニ上司ノ嘱望ヲ受ケ官命ニ由ッテ渡欧スル事三度
入ッテハ陸軍省参謀本部教育総監部ノ諸要職ニ就キ出デテハ歩兵第三聯隊長第一旅團長タリ
遂ニ陸軍軍政ノ中心軍務局長ニ補セラル
中将頭脳明晰識見高邁裁決流ルルガ如ク思慮周到造詣深遠難局ニ■シテ苟モ擧惜ヲ■ラス
■モ獨創企畫秀デ軍隊教育令青少年訓練國家総動員等中将ノ立案献策ニ係ルモノ少ナカラズ
國軍ノ進展ニ寄與セル所絶大ナリ
陸軍ノ至寶トシテ永田ノ前ニ永田無ク永田ノ後ニ永田無シト稱セラル
多年意ヲ大陸国栄ノ研究ニ注グ
満洲事變以来ノ非常時局ニ際シ其蘊蓄ヲ傾ケ枢機ニ参畫シテ所信ニ邁進セル間妖言累ヲ及ボシ昭和十年八月十二日不慮ノ災禍ニ遭ッテ執務中局長室ニ斃ル
享年五十二歳ナリ
中将ノ死ハ真ニ身命ヲ君國ニ致セルモノ正ニ戦場ノ死ト擇ブ所無シ
因テ同郷ノ有志協議地ヲ此所ニトシ中将ノ胸像ヲ建テ以テ此ノ偉材ノ英姿ヲ永遠ニ傳ヘントス

昭和13年11月13日 永田鐡山中将記念会

碑文

この胸像は先の太平洋戦争に際して金属回収のため撤去したるもこのたび故人を崇敬する有志により新たに台石を築造原位置に復旧するを得たものである

昭和40年4月11日
永田鐡山中将胸像復旧期成同盟会


略歴
明治31年 9月 東京幼年学校入学
(入学順位10番)
   
明治34年 7月 東京幼年学校卒業
(卒業順位3番)
   
9月 中央幼年学校入学
明治36年 5月 中央幼年学校卒業
(卒業順位2番)
歩兵第3連隊(士官候補生)
    
12月 陸軍士官学校入学 校長:高木作蔵大佐
明治37年 10月 陸軍士官学校卒業
(卒業順位1番=首席)
日露戦争
11月 少尉
歩兵第3連隊補充大隊付
 
明治39年 1月 歩兵第56連隊    
明治40年 12月 中尉
陸軍大学校入学
校長:井口省吾少将
幹事(教頭):松石安治大佐
 
明治44年 11月 陸軍大学校卒業
(卒業順位2番)
校長:井口省吾少将
幹事(教頭):鈴木荘六大佐
辛亥革命起こる
明治45年 5月 教育総監部付勤務(第1課) 教育総監:浅田信興中将
本部長:本郷房太郎少将
第1課長:河村正彦大佐
 
大正2年 8月 大尉     
10月 ドイツ駐在 武官:河村正彦大佐
武官補佐官:川島義之少佐
大正3年 8月 教育総監部付
帰国
教育総監:上原勇作中将
本部長:斉藤力三郎少将
第一次世界大戦
大正4年 3月 俘虜情報局御用掛 俘虜情報局長官
菊池慎之助少将(兼務)
 
6月 デンマーク駐在  
11月 スウェーデン駐在  
大正6年 9月 教育総監部付
帰国
教育総監:一戸兵衛大将
本部長:山梨半造少将
  
11月 臨時軍事調査委員  
大正7年       シベリア出兵
大正8年 4月 少佐    
大正9年 10月 欧州出張(ウィーン)    
大正10年 6月 スイス公使館付武官 前任者:梅津美治郎少佐  
大正11年       ワシントン軍縮条約
大正12年 2月 参謀本部付 参謀総長:上原勇作大将
参謀次長:武藤信義中将
関東大震災 
 3月 教育総監部課員 教育総監:大庭二郎大将
4月 帰朝  
8月 中佐  
10月 兼陸軍大学校教官 校長:和田亀治中将
幹事(教頭):坂部十寸穂少将
大正13年 8月 歩兵第50連隊付     
12月 技術本部兼軍事課高級課員
兼陸軍大学校教官
軍事課高級課員
前任者:梅津美治郎(陸士15期)
後任者:東條英機(陸士17期)
大正14年 6月 国本社評議員嘱託  
大正15年 3月 兵器本廠付
(作戦資材整備会議幹事)
幹事長:松木直亮少将  
10月 整備局動員課長 整備局長:松木直亮少将
初代課長
後任者:東條英機(陸士17期)
 
昭和2年 3月 大佐   第一次山東出兵 
昭和3年 3月 歩兵第3連隊長   張作霖爆死事件
昭和4年       世界経済恐慌
昭和5年 8月 軍事課長 前任者:梅津美治郎(陸士15期)
後任者:山下奉文(陸士18期)
ロンドン軍縮条約
昭和6年       3月事件
満洲事変
昭和7年 4月 少将
参謀本部第2部長
前任者:橋本虎之助(陸士14期)
後任者:磯谷廉介(陸士16期)
上海事件
5・15事件
昭和8年 8月 歩兵第1旅団長    
昭和9年 3月 軍務局長 前任者:山岡重厚(陸士15期)
後任者:今井清(陸士15期)
 
昭和10年 8月 相沢中佐に刺殺される
中将進級
     
昭和11年       2・26事件
昭和12年       日中戦争勃発

【永田鉄山】

永田は、信州の諏訪湖畔で生れた。
父は医師であったが、永田が10歳の時死亡したため母は子供たちを連れて東京に出た。
実家の援助を受けながら4人の子供を育てた。
永田が軍人を志したのは父の遺言のためであったという。
「鉄山の前に鉄山なく、鉄山の後に鉄山なし」と言われたように、とにかく凄い秀才であった。
陸軍幼年学校も士官学校も、陸軍大学校もすべて首席で卒業している。
天性頭脳明晰の上に負けず嫌いで頑張り屋であった。

貧乏少尉の名の通り、任官して間もなくの頃は、多くの家族を抱えて生活もかなり苦しかったらしいが、それらしい素振りも見せず友人との交際も欠かさず、大酒を呑んで歩いたといわれる。
天性豪放磊落、呑めば呑むほど談論風発の酒豪であった。
しかし、考え方は周到緻密で、徹底的に合理性を重んじた。

永田は大正2年、ドイツ留学を命ぜられたが、翌3年、国交断絶のため一時帰国し、改めてデンマーク駐在を命ぜられた。
ここでドイツの軍事思想について研究をつづけた。

第一次世界大戦では飛行機や戦車、毒ガスが登場して、苛烈な近代戦の将来を指し示す兵器として注目され、各国とも極秘で鎬しのぎを削るような研究競争を行っていた。
しかし、帝国陸軍の首脳は日露戦争の勝利の栄光に酔いしれて、軍備縮小の掛け声に惑わされ、長夜の夢をむさぼり続けていた。
永田鉄山は大正9年に『国家総動員に関する意見』を書いている。
第一次世界大戦の教訓を踏まえて、今までのように国家の正規軍だけでなく、国家の総力をあげて戦わねばならぬと、その具体策を論じたものである。
こうして永田鉄山は三宅坂の偉材として、主に軍政面にその才能を発揮するようになる。

(参考:須山幸雄 著 『二・二六事件 青春群像』 芙蓉書房 昭和56年第1刷発行)

(平成29年2月3日 追記)


【陸士16期の三羽烏】

陸士16期の三羽烏といわれたのは永田鉄山と小畑敏四郎、それに岡村寧次の3人である。
この16期はこの外にも多士済々で、板垣征四郎、土肥原賢二、磯谷廉介、黒木親慶と、良かれ悪しかれ昭和史に深い足跡を残した俊秀が多かった。
この三羽烏はその中でも殊にきわだっていた。

明治37年10月24日、日露戦争の真っ最中に、彼らは陸軍士官学校を卒業した。
これは戦争のため卒業が繰り上げられたためである。
永田鉄山は歩兵科の首席卒業であったので、明治天皇の御前で講演する光栄をになった。
「夜間に於ける攻撃戦闘」についてであった(『明治天皇紀第十』901ページ)。

(参考:須山幸雄 著 『二・二六事件 青春群像』 芙蓉書房 昭和56年第1刷発行)

(平成29年2月3日 追記)


【軍事教練の導入】

わが国では明治21年の市町村制発足の頃から、地方青年の集団的教育が政府内で企図され、明治30年代に至って、文部省を中心とした青年教育の運動が活発化した。
ところが大正末期になると、陸軍の軍備縮小が相次いで行われ、この頃ドイツ駐在から帰国した教育総監部の俊英永田鉄山大尉らによって、中等学校以上に現役軍人を配属して、軍事教練を正課とする教育が開始された。

(参考:芦澤紀之 著 『暁の戒厳令~安藤大尉とその死~』 芙蓉書房 昭和50年 第1刷)

(平成29年9月7日 追記)


【日本青年協会の設立】 

昭和3年の秋、陸相宇垣一成、海軍軍令部長鈴木貫太郎、文部大臣岡田良平らは、関屋竜吉の主唱する中堅幹部青年の育成と青年指導者の養成を目的とし、個人を中心とした松下村塾式の青年教育を行い、将来の日本を背負って立つべき有為な人材の養成を図って、財団法人日本青年協会を設立した。

協会の組織は、総裁・清浦奎吾、会長・宇垣一成、常任理事に文部省社会教育局長・関屋竜吉、鳥取高等農業学校教授・青木常盤、理事には東横電鉄社長・篠原三千郎、住友本社総務部長・大屋敦、のちに東京電力の会長となった菅礼之助、さらに石坂泰三、河合良成、安川大五郎らが就任。
軍部からは歩兵第3連隊長・永田鉄山大佐、陸軍省軍務局員の今村均中佐らが参加し、顧問に海軍軍令部長・鈴木貫太郎大将、海軍第1航空艦隊司令官・高橋三吉少将という豪華メンバーであった。

資金については、篠原の岳父・服部金太郎や、大阪一の大地主である田中吉太郎、原田積善会の久田益太郎らの熱心な協力によって浄財が集められた。

協会事務局と研鑽道場は、理事であり歩兵第3連隊長である永田鉄山大佐が、まず連隊内の医務室跡を開放して創立の準備に当たった。
協会の実質的な運営に当ったのが常任理事の青木常盤である。
文相の岡田良平の意を受けた社会教育局長の関屋は、当時、農事試験所の技師から鳥取高等農業学校に転じた青木常盤を、三顧の礼を以てようやく口説き落としたのである。
教育の対象となる青年の多くが地方農村出身であったため、農村に理解のある青木が適任とされたのである。

昭和4年4月、日本青年協会は第1期の講習を開始した。
講習は少数精鋭主義により1回30名を標準とし、年2回にわけて全国から募集した。
教育の指導精神は、綱領に掲げられた敬神崇祖と尊皇愛国、博愛共存と自治共同、攻学遷善と実践躬行を旨とした。
第1回は28名で、歩兵第3連隊の空兵舎を借用して仮寮舎としたが、民間人が兵営内で生活するのは、おそらく空前絶後のことであったろう。
しかも関屋竜吉以下、青木常盤、服部禄郎、氏家賢次郎らの協会役員が、生徒と共に共同宿泊して、生活様式の立て直しから始め、約3ヶ月の短期間な教育ながら、初期の目的達成に自信を得たのであった。

ちなみに昭和20年8月の終戦までに、協会の卒業生は約5,000名を数えるに至る。
のちに宮内省、高松宮家から御下賜金があり、有栖川宮厚生基金なども下賜され、協会の充実が図られたのである。

(参考:芦澤紀之 著 『暁の戒厳令~安藤大尉とその死~』 芙蓉書房 昭和50年 第1刷)

(平成29年9月7日 追記)


【一夕会】 

昭和4年5月に、一夕会を誕生させた永田鉄山は、早くから荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の各中将を中心に、陸軍人事の刷新と諸政策を推進することを同志と申合せている。
永田大佐は歩兵第3連隊の連隊長であったが、間もなく軍中央部へ戻ることは確定的であった。
このことは、一夕会を中核とする中央幕僚陣が、ようやく陸軍部内の一大勢力として、無視できない重みを発揮し始める前夜ともいうべき時代であった。

(参考:芦澤紀之 著 『暁の戒厳令~安藤大尉とその死~』 芙蓉書房 昭和50年 第1刷)

(平成29年9月7日 追記)


【軍部独裁を目指す】

永田鉄山を中心とする一夕会系の幕僚は、強力な軍事によって政治への優先を合法的に図ろうとした。
すなわち、本来、天皇の前に各自平等の権限を持つ内閣、議会、軍部(統帥部)のうち他の機関を軍部に包摂しようとしたのである。
三月事件で議会を、十月事件で議会・内閣を襲撃するというのは計画だけであって永田も反対したというが、計画の内容の実現は彼の手によって合法的に進められた。
天皇の前に、公的権限を持つ国家機関が自己中心の政策や法律を制定することは“一身多頭の怪物”と評されるが、永田は多頭を一頭とし、一身と一頭による直接上奏、裁可によって強力な総力戦体制を実現しようとしたのである。
新官僚や財界人との結合を図った朝飯会は、そのひとつの現われである。

しかし、これは天皇機関説の建前だけを残した軍部独裁の実現であり、この点が反対派から“幕府”といわれた理由でもある。
永田が斬殺されたとき青年将校側から出た「怪文書」に、「昭和の安政大獄」と題するものがあり、林銑十郎を井伊直弼、永田を間部詮勝にたとえた一節があったことも一面において、そうしたことを物語っている。

(参考:高橋正衛 著 『二・二六事件~「昭和維新」の思想と行動~』 中公新書 1994年2月増補改版初版)

(令和2年10月2日 追記)


【荒木中将の不信】

荒木貞夫中将が陸相に就任して、満州事変の善後処理に追われているとき、参謀本部第2部長の永田鉄山少将が、荒木に軍制改革案を提案したことがあった。
満州事変で、軍制改革などどこかへスッ飛んでしまったとき、永田が、そんな古証文を出してきたので、それから荒木は永田を信頼しなくなったと伝えられている。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)~事件臨場記者の遺言~』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

令和元年5月6日 追記)


【統制派】

三月事件の失敗後、桜会は二つのグループに分裂した。
一つは「合法的統制派」と呼ばれるグループであり、合法的政治手段によって国家改造を実現することを目的とした。
もう一つは直接行動派すなわち「クーデター派」だった。
合法的統制派は、永田鉄山がリーダーだった。
永田はやがて軍務局長となったが、駐ドイツ武官時代にルーデンドルフ(ドイツ軍参謀次長。第一次大戦時に軍事・政治両面の軍部独裁を樹立)の国家総動員による総力戦体制を研究した。
彼は、この原則を国家改造、満蒙問題解決のために応用しようと試みた。
永田をはじめ軍情報機関当局者は、直接行動は国民の反感を招くだけであり、無益な方法だと確信していた。
このグループの顔ぶれは、永田のほか、磯谷、板垣、東条、井上といった将軍たちである。

統制派の目的は、満州事変を拡大し、満州を日本の植民地にすること、満州を総力戦体制、軍部ファシスト国家確立に努めるための実験場とすること、同時に国際危機を作り出し、それを強調しながら国家改造を一歩一歩実現していくことだった。
また、合法的に陸軍を支配するというのも、グループ結成の狙いだった。
桜会に反対する者、「皇道派」、すなわち荒木貞夫(当時は陸相)、真崎甚三郎(当時は参謀次長)、小畑敏四郎(当時は参謀本部第3部長)といった将軍たちを軍の中枢から取り除き、陸相のポストを自派で独占することを計画した。

統制派は、桜会解散後に結成されたクーデター派の、過激な動きを背後から煽動した。
5・15事件以後、ファシストのテロ事件が繰り返し発生するのを後押ししてきた。
それでも、表向きはファシストに対して強硬な措置を取り、また国際的、国内的危機意識をあおって、反ファシストのように装っていた。
政治家と国民に、ファシズムを抑えることや、政党内閣や政党と官僚の連合政権の手で国家改造を行なうことなど不可能であると思わせるため、あらゆる手段を尽くした。
こうして、統制派は軍人による政治への介入を着実に実現し、軍部内のファシストの影響力を強めていった。

(参考:ジョン・C・ルース著、山田寛 訳 『スガモ 尋問調書』 読売新聞社 1995年8月 第1刷)

(平成30年12月29日 追記)


【皇道派と統制派の対立】

(元陸軍大将・荒木貞夫の談)

昭和8年6月、参謀本部と陸軍省の首脳部を集めて会議を開きました。
席上、参謀本部作戦課長(※正しくは参謀本部第3部長)の小畑(※敏四郎)大佐(※正しくは少将)はソ連の東方侵略を防ぐため、対ソ作戦に専念すべきだと主張し、これに対して陸軍省軍事課長(※正しくは参謀本部第2部長)永田大佐(※正しくは少将)は、まず支那を叩きその上で日華提携してソ連に対すべきだと譲らず、支那は1年でかたづけることができると主張しました。
しかし大勢はソ連の思想戦に対抗して国体護持を標榜する小畑案を支持していた。
これを新聞社が便宜的に小畑に同意したものを「皇道派」、永田の主張を「統制派」として扱ったことからこの呼称が使われたものです。

昭和9年1月、林銑十郎大将が陸相になると間もなく、軍務局長になった永田は、自分の対支政策を実行するため、うるさい皇道派の青年将校を中央から遠ざけ、真崎(※甚三郎)教育総監を追い出そうとした。
才子は頭がまわるだけに間違いを起こしやすく、この小才が2・26事件を招くことになるのです。

【幕僚ファッショ】

(元陸軍大将・荒木貞夫の談)

永田は人から嫌われるいやな仕事では正面に立たない人です。
この場合は一直線に進む東条(※英機)を使ったのです。

(※11月事件で検挙され停職となった)村中(※孝次・大尉)と磯部(※浅一・一等主計)は激怒し、「粛軍に関する意見書」を書いた。
これは美濃紙に印刷し、番号をふって12冊だけ作り、三長官(※陸軍大臣、参謀総長、教育総監)と軍事参議官などに上申したのです。
ところがこれを政党が利用し、印刷してバラまいたために、これがまた永田の逆鱗に触れ、二人とも免官にされた。
軍の内規によると、身分を保証せられた将校は恩給がつくまで行政免官できないが、これを裁判にもかけずに断行したのです。
そこで再び青年将校が怒り出した。
上層部が非合法的手段をとるなら、俺たちもやるぞ、ということになったのです。
そのうち閑院宮まで利用した無理な手段で統制派の最大の障碍である真崎教育総監を10年7月15日、強引に更迭してしまいました。
これが相沢事件となり、2・26事件の近因となったのです。

【相沢事件】

(当時陸軍省軍務局政策班長・中佐・池田純久の談)

(※昭和10年)天皇を統治上の機関とみなす美濃部博士の(※天皇)機関説は、我が国体を冒瀆するものとして排撃し、右翼団は陸軍に、その排撃の声明を出せと迫ってくる。
在郷軍人団もそれに同調し、陸軍が声明に反対なら、陸軍大臣をボイコットするという強い態度をとっている。
これは、軍の統制上由々しきことである。

(※軍務局長・永田)中将は、陸軍が憲法論議の渦中に入るのは適当でないとの見解に立って、この際国体明微運動を展開し、機関説問題にすり換えようとした。
政府もこれを方針とした。
右翼は一斉に永田中将に対し国賊呼ばわりを始めた。

今ひとつ問題が起こった。
それは荒木(※貞夫)・真崎(※甚三郎)の両大将である。
青年将校たちは大将を親分のように慕い、皇道派の巨魁としてまつり上げていた。
そこで、両大将が軍中央部にいては、青年将校の政治策動を封ずることが難しい。
少なくとも真崎大将の教育総監は退いてもらわねばならない、という議論が、統制派を中心として論議された。
ことに真崎大将は、天皇機関説排撃の急先鋒でもあった。
そこで大将の引退を永田中将から林(※銑十郎)陸軍大臣に進言し、遂に大将の引退が実現したのである。
このことは、ひどく皇道派を刺激し、(※永田)中将を中傷する怪文書が乱れ飛んだ。

私は、軍務局長室に近い大部屋で武藤章中佐(後に軍務局長になり戦犯で絞首刑となった)と席を並べて執務していた。
8月12日午前10時頃であった。
突如として局長室に異変が起こった。
(※永田)中将が惨殺されたのである。
武藤中佐が先頭で、私がそれに続いて局長室に駆け込んだ。
中将は鮮血に染まって、肩肘をついて絨毯の上に倒れている。
まだ息はあるようだが、頭はざくろのように斬られ、そこからドクドクと血がほとばしり出ている。
武藤中佐が後から、私が前から抱きかかえるようにして「局長」「局長」と二声、三声呼んでみたが、何の反応もなく、かすかな呼吸の音が聞こえるばかりで虫の息である。
手のつけようがない。
暫くして、最期の息を大きく吸って、ガックリと首を垂れ、こと切れてしまった。

「長身の将校が血刀をさげて、ヤッタ、ヤッタと叫びながら廊下を歩いて行った」と誰かが叫んだ。
犯人が軍人だろうとは、私は夢にも想像しなかった。
それは相沢三郎という中佐であったのだ。
(※相沢)中佐と私とは、昵懇の間柄だったので、私は二度びっくりしてしまった。

私は、陸軍省公表を書いた。
「相沢三郎中佐は、永田軍務局長に関する誤れる巷説を妄信したる結果、中将を斬殺した」と。
しかるに「誤れる巷説を妄信」とは何事かといって皇道派からは取り消しを要求せられた。

永田中将の死は、陸軍を始め朝野に一大衝撃を与えた。
中将の死によって、陸軍は、たがのはずれた桶のように、バラバラになってしまった。
翌年2・26事件をよび、引き続き支那事変となり、大東亜戦争へと連鎖反応的に発展していった。
もし永田中将が存命であったら、これらの事件は、未然に防ぎ得たであろう。
それほど中将は、聡明、非凡であった。
全く惜しい人を死なせたものである。

(参考・引用:猪瀬直樹 監修 『目撃者が語る昭和史 第4巻 2・26事件』 新人物往来社 1989年第一刷発行)

(平成24年10月11日追記)


【相沢事件(永田事件)】

昭和10年(1935年)8月12日午前9時半過ぎ、陸軍省の軍務局長室にいた永田鉄山は、東京憲兵隊長の新見英夫大佐から「粛軍に関する意見書」についての報告を受けていた。
同席していた山田長三郎兵務課長が隣室の橋本群軍事課長を呼びに行ったほんのすきに、抜身の軍刀を持った男がつかつかと入ってきた。
(山田の行動については異説がある)
「天誅!」
男はそう叫ぶなり、永田局長に襲いかかり、背後から突き刺した。
男を制止しようとした新見もまた、軍刀で斬りつけられ重傷を負った。
永田はまもなく絶命した。
犯人は、福山連隊から台湾への転勤が決まっていた皇道派の相沢三郎中佐だった。
相沢は、崇拝していた真崎が教育総監の座を追われると、上京して永田の辞職を迫ったが受け入れられず、この日の凶行に及んだのである。

同事件の責任を取って、林銑十郎陸相は9月5日に辞任し、後任には川島義之が就いた。
東京憲兵隊長の新見大佐は京都憲兵隊長として左遷され、ほどなく軍籍を去る。
悲惨だったのは、事件発生時の行動に疑惑をもたれた山田長三郎大佐だった。
山田は永田の百ヵ日に世田谷の自宅で自刃した。

(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)

(平成29年2月8日 追記)




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