平成18年8月2日
明治12年(1879年)4月3日〜大正4年(1915年)2月8日
茨城県常総市・生家前でお会いしました。
茨城県出身。
茨城県尋常中学を病気中退後、治療のため上京。
正岡子規に入門。
明治36年(1903年)正岡子規没後、伊藤左千夫らと『馬酔木あしび』を創刊、ついで『アララギ』の同人となる。
写生の歌を主張して正岡子規の理論の発展を図るが、しだいに短歌から写生文・小説に関心が移る。
明治43年(1910年)には小説『土』を発表。
翌年、喉頭結核の診断を受け、短歌創作に戻る。
このときの連作『鍼はりの如く』は有名。
長塚節の像 (生家前) 平成3年12月吉日 石下町・石下町観光協会 建之 寄贈 丸三商事株式会社 代表取締役 木村三郎 (平成18年8月2日) |
長塚 節
長塚節は、明治12年4月3日茨城県岡田郡国生村(結城郡石下町国生)に父源次郎、母たかの長男として生まれた。
国生は鬼怒川の西岸台地にあり、その頃は櫟木林に囲まれた不便な村落であった。
当時長塚家は、多くの土地を所有していた豪農で質屋などの営業もしていた。
父源次郎は自由民権運動にも参加し、県会議員に数回当選し議長もつとめた政治家であった。
節は村の尋常小学校から下妻の高等小学校を経て、明治26年水戸の茨城県尋常中学校(現水戸一高)に首席で入学したが、健康がすぐれず4年に進級して退学した。
節は、文学好きで3歳にしてすでに百人一首を暗唱したといわれ、療養中にも文章会を作り文章や歌を発表した。
明治31年頃には、正岡子規の歌論の清新な論調に感銘思慕し、同33年に子規を訪ね教えをうけることになった。
明治36年には、伊藤左千夫らと「馬酔木」を創刊するなどして節の大活躍の時代となる。
さらに健康快復のため西行や芭蕉の旅にあこがれ全国行脚が始まる。
そして、写生文をまとめ「月見の夕」に次いで「土浦の川口」「利根川の一夜」など10篇を発表した。
明治41年「アララギ」を創刊し、歌から小説へと意欲を燃やしたこの間長年にわたる父源次郎の政治活動で失った財産の回復を計るため炭焼き、竹林の研究も行われたが、かんばしくなかった。
小説では、「芋掘り」に続いて「開業医」「菜の花」「おふさ」「教師」「太十と共の犬」などを書き上げ「土」への準備がなされた。
明治43年6月13日から11月17日まで151回にわたり朝日新聞に連載小説として「土」が発表された。
節は、これを病気とたたかい経済復興ととりくみながら精魂をこめ書き続けた。
後に単行本「土」が出版され、その序文に夏目漱石は、「先ず何よりも先に、是は到底余に書けるものではないと思った。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだろうと物色して見た。すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。」と書いている。
こうして「土」は日本近代文学史上に一大傑作と高く評されている。
明治44年には、結城郡山川村山王(結城市山王)の黒田てる子との婚約が成立したが、病気のため自ら婚約を解消し療養を続けた。
翌年九州大学で診療をうけるため長旅につく。
家族のこと、病気、婚約解消と苦しみ、悩み多い生活の中で生み出したのが不朽の名作「鍼の如く」である。
「土」に続いて死刑囚をモデルにした大作を構想したというが大正4年2月8日九州大学の病院で37歳の若い一生を終えた。
昭和57年3月
石下町
石下町教育委員会
(説明板より)
生家 (茨城県常総市国生1147−1) 門の向かいに「長塚節生家案内所」があります。 案内人の方にご案内いただいて内部を見学します。 見学は無料。 (平成18年8月2日) |
母屋と書院 母屋(手前)は現在でも子孫の方が「長塚整体治療院」として使用しています。 見学できるのは左奥にある書院部分だけです。 (平成18年8月2日) |
書院内部 書院には遺品が展示されています。 (平成18年8月2日) |
生家前の歌碑 (平成18年8月2日) |
暮春の歌
すがすがしかしが若菜に
天ひびきこえひびかせて
鳴く蛙かも
この歌は、明治41年5月のはじめ雨の日にあひて興を催してよめると詞書して詠んだ暮春の歌の一首で、長塚節30歳のときの作品である。
石下町教育委員会
(説明板より)
平成18年8月2日
茨城県常総市・石下中央公民館でお会いしました。
長塚節の像 (茨城県常総市下石下85・石下中央公民館) (平成18年8月2日) |
生誕百年記念
郷土の偉大な文人長塚節を永遠に顕彰するため 全町民の名において銅像を建立し ここに不朽の諸名作を讃える
昭和55年4月2日
石下町長 松崎良助
石下町観光協会
(碑文より)
長塚節の生涯
長塚節は明治12年4月3日、茨城県岡田郡国生村(現、結城郡石下町国生)に父源次郎母たかの長男として生まれた。
3才のときいろはを確実に読み百人一首を暗誦するなど神童振りを発揮した。
学令に満たない5才の時、国生小学校に入学、下妻高等小学校を経て明治22年茨城尋常中学校(現、水戸一高)に入学、常に首席を占めていた。
しかし健康がすぐれないため4年のとき中学校を退学、以来家郷に在って気の趣くままに旅を志し自然の美を探勝しながら療養につとめた。
明治33年の春かねて感銘敬慕していた正岡子規に入門、もっぱら万葉集の歌風を学び36年には根岸短歌会の機関誌「馬酔木」の編集同人として活躍。
40年前後には家運の挽回をはかるべく炭焼きの研究、竹林の栽培に情熱を傾けた。
また岡田村青年会を創設し、初代青年会長となって青年の指導と農村振興に努力した。
41年には伊藤左千夫たちと「アララギ」を創刊し、短歌から写生文そして小説へとますます意慾のほどをみせ「芋堀」「開業医」「旅日記の一節」「菜の花」「おふさ」「教師」「隣室の客」「愛せられざる花」「太十と其犬」などを、ホトトギス誌上などに発表した。
更に43年には不朽の名作「土」を夏目漱石の推挙により朝日新聞に6月13日から151回に亘って発表した。
44年黒田てる子との縁談が成立(われ33年にしてはじめて婦人の情味を解したり)と喜んだが、それも束の間、病魔の冒すところとなり婚約を解消して療養生活に追込まれる。
この間名作「鍼の如く」231首を詠んだ。
因みに「土」につづいて死刑囚をモデルにした大作を構想していたが、未発表のまま大正4年2月8日旅先福岡医大の病室に於いて37才の短い生涯を閉じたのである。
昭和45年大阪万国博覧会における毎日新聞社の企画により、古来から現代に至る日本の文化百般に亘る最高の業績の物をタイムカプセルに納めて5千年後の人々に紹介することになり、厳選の結果近代歌集については5点が選ばれたが、勿論そのなかに「長塚節の歌集」が含まれたということは、とりもなおさずその真価を物語るものである。
昭和55年4月2日
石下町
石下町観光協会
(説明板より)
石下中央公民館 (茨城県常総市下石下85) (平成18年8月2日) |
平成18年8月2日
茨城県常総市・常総市地域交流センターでお会いしました。
長塚節の像 (常総市地域交流センター) 平成3年12月吉日 石下町建之 (平成18年8月2日) |
歌碑 (常総市地域交流センター) (平成18年8月2日) |
歌碑
長塚ながつか 節たかし(1879〜1915)
茨城県岡田郡国生こっしょう村(現石下町)に生まれ、九州大学病院で客死。
36歳10か月。
明治33年正岡子規門に入り根岸短歌会の「馬酔木あしび」(明36・6)に短歌、歌論、写生文を発表文学的基盤を築く。
「ホトトギス」に短編小説を発表。
夏目漱石の推輓で朝日新聞に「土」を掲載。
明治44年喉頭結核となり短歌が復活し病中の雑詠と「鍼の如く」が作られる。
評価の高い書簡を多く残す。
垂乳根たらちねの母が釣りたる青蚊帳あおがやを
すがしといねつたるみたれども
「鍼はりの如く」の一首。
2か月余の東京での療養生活を終え大正3年5月30日帰郷した折、3首の歌が作られその1首目。
かつての許嫁黒田てる子との悲しい決別があり「病院の一室にこもりける程は心に悩むことおほくいできて自らもまなこの窪めるを覚ゆるまでに成りたれば、いまは只よそに紛らさむことを求むる外にせん術もなく・・」と詞書にある。
母の暖かい愛情と故郷へ帰った安堵、そして写生の歌の修練の歌境もみられる。
多くの人人に感動を与えた情感こまやかな秀作。
長塚節歌碑建立実行委員会
(副碑・碑文より)
常総市地域交流センター(豊田城) (茨城県常総市新石下2010) 1階:ロビー・多目的ホール 2階:図書室・研修室 3階:展示室(いしげの歴史) 4階:展示室(いしげの産業等) 5階:企画展示室(関井コレクション) 6階:展示室(長塚節関係) 7階:展望室 (平成18年8月2日) |
常総市地域交流センター(豊田城) (茨城県常総市新石下2010) 展示室観覧時間:午前9時〜午後4時30分 展示室観覧料:一般 400円 休館日 毎週月曜日(祝祭日の場合は翌日) 12月28日〜翌年1月4日 (平成18年8月2日) |
明治11年 (1878) |
大久保利通暗殺 | ||
明治12年 (1879) |
0歳 | 4月3日 父源次郎、母たかの長男として生まれる。 |
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明治14年 (1881) |
2歳 | 「百人一首」の歌10首あまりを暗唱。 「いろは歌」を正確に読んだという。 |
国会開設の詔 |
明治16年 (1883) |
4歳 | 4月 年齢(7歳)に達しないまま国生尋常小学校に入学。 |
立憲改進党成立 (総理:大隈重信) |
明治18年 (1885) |
6歳 | 『小説真髄』 (坪内逍遥) |
|
明治19年 (1886) |
7歳 | 小学校令公布 | |
明治21年 (1888) |
9歳 | 磐梯山噴火 | |
明治22年 (1889) |
10歳 | 3月 国生尋常小学校を卒業。 4月 下妻町の真壁第二高等小学校に入学。 (在学中に下妻高等小学校と改称) |
大日本帝国憲法発布 東海道本線全通 |
明治23年 (1890) |
11歳 | 『舞姫』 (森鴎外) |
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明治26年 (1893) |
14歳 | 3月 下妻高等小学校を首席で卒業。 4月 茨城県尋常中学校 (後の水戸中学校・現水戸第一高等学校)に入学。 |
『文学界』創刊 |
明治27年 (1894) |
15歳 | この頃より小説を読み、仲間と会を作り和歌の創作を始める。 | 日清戦争 北村透谷自殺(27歳) |
明治28年 (1895) |
16歳 | 8月 健康がすぐれず塩原温泉に保養する。 |
『たけくらべ』 (樋口一葉) |
明治29年 (1896) |
17歳 | 中学4年に進級まもなく、脳神経衰弱のため退学。 夏 塩原温泉に2ヶ月間転地療養。 |
赤痢大流行 樋口一葉没す(25歳) |
明治30年 (1897) |
18歳 | 『ホトトギス』創刊 | |
明治31年 (1898) |
19歳 | 写生の歌を学び始める。 6月 京橋区築地の山田病院に入院。 『新小説』第15回懸賞和歌1等に入選。 |
『歌よみに与ふる書』 (正岡子規) 日本美術院創立 |
明治32年 (1899) |
20歳 | 神田錦町の橋田医院に転院。 徴兵検査を受け不合格となる。 『新小説』第16回・第20回懸賞和歌1等に入選。 |
根岸短歌会成立 『中央公論』創刊 |
明治33年 (1900) |
21歳 | 3月27日 根岸庵に正岡子規を訪問。 4月1日 根岸短歌会に出席、伊藤左千夫・香取秀真・岡麓らを知る。 この年、長歌1首・短歌125首を発表。 未発表作品は300首を数える。 |
北清事変 東京にペスト流行 『明星』創刊 鉄道唱歌発行 |
明治34年 (1901) |
22歳 | 万葉集の研究に専念し、長歌の創作が多い。 | 福沢諭吉没す(68歳) |
明治35年 (1902) |
23歳 | 9月19日 子規の訃報に接し、翌日上京、葬儀に参列。 |
日英同盟 高山樗牛没す(32歳) |
明治36年 (1903) |
24歳 | 6月 根岸短歌会の機関誌『馬酔木』を創刊。 7月下旬〜8月 近畿を中心とした長旅。 10月 最初の写生文「栗毛虫」を発表。 |
『東洋の理想』 (岡倉天心) 早慶野球戦の初め 滝廉太郎没す(25歳) |
明治37年 (1904) |
25歳 | 7月10日〜21日 断食療法を実行。 秋頃から改良炭焼の研究を始める。 |
日露戦争 小泉八雲没す(55歳) |
明治38年 (1905) |
26歳 | 国生村最初の青年会長に選任され活躍。 その功績により結城郡長より表彰を受ける。 5月22日〜6月9日 房総半島への旅。八瀬尾農科大学演習林の炭焼を見学。 8月18日〜10月13日 房州・甲斐・木曽・近江・京都・伊勢等に遊ぶ。 この年発表の短歌298首、長歌など12首。 |
『吾輩は猫である』 (夏目漱石) |
明治39年 (1906) |
27歳 | 6月28日〜7月19日 静養を兼ねて常陸平潟の旅。 8月24日〜10月1日 奥州・佐渡の旅。 |
『坊ちゃん』 (夏目漱石) 『破戒』 (島崎藤村) |
明治40年 (1907) |
28歳 | 7月1日 旧下妻藩主井上子爵家二女艶子との縁談が不調に終わる。 |
『蒲団』 (田山花袋) |
明治41年 (1908) |
29歳 | 1月 『馬酔木』廃刊。 4月8日〜30日 京都・吉野・奈良に遊ぶ。 8月20日〜9月15日 草津・軽井沢・榛名山・伊香保に遊ぶ。 |
中央本線全通 『アララギ』創刊 |
明治42年 (1909) |
30歳 | 下妻中学校教員や横瀬夜雨と読書倶楽部を組織する。 10月1日〜22日 奥羽一周の旅。 |
伊藤博文暗殺 『スバル』創刊 |
明治43年 (1910) |
31歳 | 6月 痔を病み、妹の婚家奥田医院に入院し切開手術を受ける。 小説『土』を朝日新聞に連載。 12月15日〜26日 京都・奈良に遊ぶ。 |
韓国併合 九州帝国大学設立 『別離』 (若山牧水) 『白樺』創刊 |
明治44年 (1911) |
32歳 | 4月 医師黒田貞三郎の長女てる子(22歳)と婚約成立。 農事に励む。 喉頭結核に罹り、12月5日根岸養生院に入院、手術。 発病により、てる子との婚約解消。 |
梅毒の研究 (野口英世) 青木繁没す(30歳) 谷干城没す(75歳) |
明治45年 (1912) |
33歳 | 3月26日 京都医科大学附属病院に入院、翌日手術を受ける。 3月16日〜9月26日 治療を受けながらの九州への長旅。 5月15日 春陽堂から『土』を出版。 |
明治天皇崩御 乃木希典殉死(64歳) |
大正 2年 (1913) |
34歳 | 3月14日〜4月末日 大阪・博多・宮島・神戸・京都・奈良に遊ぶ。 8月15日 春陽堂から『芋掘り』を刊行。 12月26日 喉頭結核再発のため神田の金沢医院に入院、手術。 |
東京神田大火 岡倉天心没す(52歳) 伊藤左千夫没す (50歳) |
大正 3年 (1914) |
35歳 | 3月14日 神田錦町の橋田医院に入院。 6月5日〜9月22日 治療を受けながらの日向青島への旅。 |
第一次世界大戦 桜島噴火 『こゝろ』 (夏目漱石) |
大正 4年 (1915) |
36歳 | 1月4日 九州帝国大学附属病院南隔離病棟6号室に入院。 2月8日 同病室において死去。 法名『顕節院秀嶽義文居士』 3月14日 郷里において葬儀を行う。 |
井上馨没す(81歳) 『羅生門』 (芥川龍之介) |
大正 5年 (1916) |
大山巌没す(75歳) 夏目漱石没す(50歳) |
(参考:常総市地域交流センター『長塚節略年譜』・他)
歌碑・短歌碑 (茨城県日立市諏訪町・諏訪梅林) (平成18年7月27日) |
碑文
明治35年3月24日風雪を冒して
とほく多珂郡に行く乃ちよめる歌並短歌
物部の真弓の山の 尾の上には人さはに据ゑ 谷邊には人さはに据ゑ 巖根裂く音のみ聞きし 諏訪村の梅さきけりと とほ人の吾に告らせば 燃ゆる火の焔なす心 包めども包みもかねて をとつ日の雨降る日の きその日の雪降る日の 今日までにけならべ降れど 時經なば散りか過ぎむと 行き悩み吾はぞ追へる とほき多賀路を
短歌
雪降りて寒くはあれど梅の花散らまく惜しみ出でゝ来にけり
多賀路はもいや遠にあれば行かまくのたゞには行かず時經ぬるかも
長塚節全集より
昭和54年3月25日
長塚節歌碑建設委員会建之
歌碑 (茨城県日立市諏訪町・諏訪梅林) (平成18年7月27日) |
長塚節歌碑建設の由来
長塚節は明治12年4月 茨城県岡田郡岡田村国生(現在結城郡石下町大字国生)に誕生
後年アララギ派歌人として活躍し また長編小説「土」を発表して作家としての名声を博した
明治35年3月24日 節は はるばると烈公ゆかりの当諏訪梅林を訪れ碑面の歌を残している
雪降りて寒くはあれど梅の花
散らまく惜しみ出でゝ来にけり
自然をこよなく愛し春にさきがけて開く梅の花に心ひかれ ここまで旅して来た節の気迫と情熱に深い感動を覚える
今年 節の生誕百年 諏訪来遊七十七周年の意義ある年に当り諏訪の人々は由緒ある景勝の地である当地に節の歌碑を建設して多年の念願を果たした
ここに市民運動実践協議会 梅友会及び地域有志各位の多大のご尽力とご協賛に感謝しつつ 建碑の由来を記して後世への記念とする
長塚節歌碑建設委員会 会長 助川長藏
昭和54年3月25日
長塚節歌碑建設委員会建之
長塚節歌碑 (茨城県水戸市常磐町・偕楽園近く) (平成25年11月23日) |
【副碑・碑文】
長塚 節 (1879〜1915) 歌人・小説家
結城郡石下町に生まれる。
茨城県尋常中学校(水戸中学校、現在の水戸第一高等学校)に進学したが、病気のために中退。正岡子規(「水戸紀行」があり、偕楽園に句碑がある)に師事し、多くの短歌、小説、写生文を残す。
近代日本を代表する歌人であり、小説『土』の作者としても有名。
那珂川ニ網曳ク人ノ目モカレズ鮭ヲ待ツ如君待ツ我ハ
長塚 節
1904(明治37年)年9月作。
中学校時代の親友滝口述たきぐちのぶるが日露戦争に出征し負傷した。
その時の見舞いの手紙に添えられた短歌十五首中の一首。
碑文はその手紙から採った。
那珂川に帰ってくる鮭を、漁師がいまかいまかと川面から目を離さずに待つように、私は君が元気で帰って来るのを待っている、と水戸時代に親しんだ那珂川を詠み込んで友との再会を願う気持ちを歌っている。
長塚節歌碑建立実行委員会
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