平成17年4月9日
慶長13年3月7日(1608年4月21日)~慶安元年8月25日(1648年10月11日)
滋賀県高島市・JR湖西線安曇川駅前でお会いしました。
名は原、字は惟命これなが、通称は与右衛門。
自宅の藤の木にちなみ藤樹先生とよばれた。
近江国高島郡小川村で生れ、9歳で祖父に引き取られ、伯耆国米子、伊予国大洲おおずと移り、祖父の死後に大洲藩に出仕。
京都から来た禅僧の「論語」講義聴講をきっかけに、「四書大全」で朱子学を独学。
27歳で近江に残る母への孝養を理由に脱藩し、帰郷して学問に専念した。
藤樹書院という塾を開いて、道徳の形式よりも精神が重要であるとして、時・処・位の具体的場面に適した行動をとることを説いた。
37歳のとき、王陽明の全書を得て、その思想に傾倒する。
近江聖人として崇敬され、熊沢蕃山くまざわ・ばんざん、淵岡山ふち・こうざんらの門人を輩出した。
近江聖人 中江藤樹之像 (滋賀県高島市・JR湖西線安曇川あどがわ駅前) 昭和52年10月吉日建立 (平成17年4月9日) |
碑文
藤樹先生は1608年ここ安曇川町上小川で生まれ多くの門人達を教えられ41歳の若さでなくなられました
短い生涯でしたが その教えは孝を中心として良知にしたがい行ないを正しくすることにつとめられ ただ 学者というだけではなくたいへん徳の高い人で近江聖人とたたえられました
書院には藤の木が今もよく茂り藤樹先生といってみんなの人に敬われ親しまれています
故郷に帰る心のいかなれや
久しく旅に年とふりつゝ
滋賀県教育長
中山正 書
(銅像銘板より)
近江聖人中江藤樹記念館 (滋賀県高島市安曇川町上小川69番地) (平成17年4月9日) |
近江聖人おうみせいじん中江藤樹記念館
中江藤樹は、江戸時代初期の儒学者じゅがくしゃ。
晩年、中国明代みんだいの儒学者・王陽明おう・ようめいのとなえた【致良知ちりょうち】の説を最高の教学として示したことから、《日本陽明学の祖》とされている。
また数多くの徳行とっこうによって《藤樹先生》と親しまれ、没後には《近江聖人》とたたえられる。
慶長13年(1608)3月7日、近江国高島郡たかしまごおり小川村に生れる。
15歳、祖父吉長よしながの家禄をつぎ伊予の大洲藩士となる。
27歳、大洲藩士を辞して小川村に帰郷する。
以後、慶安元年(1648)8月25日、41歳で没するまでの14年間、居宅に私塾《藤樹書院》をひらき、武士や近隣の庶民に「良知の学(良知心学)」をおしひろめた。
代表的門人に熊沢蕃山くまざわ・ばんざん・淵岡山ふち・こうざん・中川謙叔なかがわ・けんしゅく・泉仲愛いずみ・ちゅうあい・中西常慶なかにし・つねよしらがいる。
おもな著書に『翁問答おきなもんどう』『鑑草かがみぐさ』『孝経啓蒙こうきょうけいもう』『論語郷党啓蒙翼伝ろんごきょうとうけいもうよくでん』『大学考だいがくこう』などがある。
当館は、昭和63年(1988)3月、藤樹先生生誕380年を記念して開館した。
藤樹書院および藤樹神社の宝物を収蔵し、先生の遺品や遺墨いぼく、著書の代表的なものを展示している。
あわせて陽明学関係など、8千冊におよぶ図書を所蔵し、閲覧に共している。
(説明板より)
開館時間:午前9時~午後4時30分
休館日:毎週月曜日・祝日の翌日・年末年始
入館料:200円
略年譜
西暦 | 年号 | 年令 | ことがら | |
1608 | 慶長13 | 1 | 3月7日、近江国高島郡小川村に生れる。 | 姫路城完成 |
1614 | 慶長19 | 7 | 高山右近等国外追放 大坂冬の陣 |
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1615 | 元和元 | 8 | 大坂夏の陣 | |
1616 | 元和 2 | 9 | 米子藩主加藤貞泰の家臣であった祖父吉長の養子となり 米子に移住。 |
徳川家康没す。 |
1617 | 元和 3 | 10 | 加藤貞泰の転封により、伊予国大洲へ移住。 | キリシタン迫害激化 |
1621 | 元和 7 | 14 | 曹渓院天梁和尚に書道や漢詩を学ぶ。 8月7日祖母卒。 |
|
1622 | 元和 8 | 15 | 9月22日祖父吉長卒。 | |
1624 | 寛永元 | 17 | 京都から来た禅僧に『論語』を学ぶ。 | |
1625 | 寛永 2 | 18 | 1月4日父吉次卒。 | |
1628 | 寛永 5 | 21 | 『大学啓蒙』を著す。 | |
1630 | 寛永 7 | 23 | 「安昌、玄同を殺するの論」を書く。 | 林羅山、学寮を建設 |
1631 | 寛永 8 | 24 | 「林氏、髪を剃り位を受くるの弁」を書く。 | |
1632 | 寛永 9 | 25 | 近江に帰省し、母に大洲での同居を勧めるが拒否される。 | |
1634 | 寛永11 | 27 | 3月7日辞職願を提出するが拒否される。 10月脱藩し、京都に潜伏後近江に帰郷する。 |
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1637 | 寛永14 | 30 | 伊勢亀山藩士高橋小平太の娘久と結婚。 この頃より門人となる者多し。 |
島原の乱 |
1638 | 寛永15 | 31 | 『持敬図説』『原人』を著す。 大野了佐入門、のちに彼のために『捷径医筌』を著す。 |
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1639 | 寛永16 | 32 | 「藤樹規」「学舎座右戒」を作る。 | 鎖国断行 |
1640 | 寛永17 | 33 | 『性理会通』を読み、太乙神を祭る。 『翁問答』を著す。 |
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1641 | 寛永18 | 34 | 『孝経啓蒙』の執筆開始、翌年完成。 熊沢蕃山入門。 |
鎖国の完成 |
1642 | 寛永19 | 35 | 11月長男宜伯誕生。 | 諸国に飢饉が起る |
1643 | 寛永20 | 36 | 『小医南針』を著す。 | |
1644 | 正保元 | 37 | 『陽明全集』を初めて入手する。 『神方奇術』を著す。 |
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1646 | 正保 3 | 39 | 1月25日次男仲樹誕生。 4月30日夫人久卒。 |
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1647 | 正保 4 | 40 | 9月大溝藩士別所友武の娘と結婚。 『鑑草』を著す。 |
各地に寺子屋が起る |
1648 | 慶安元 | 41 | 7月4日三男季男(常省)誕生。 8月25日中江藤樹卒。 (年齢は数え年) |
(記念館のリーフレットの略年譜を参考に作成)
逸話『そば屋の看板』 |
小川村からほど近い鴨村の街道ぞいに、一軒のそば屋がありました。
その主人は、藤樹先生が大変りっぱな学者だと聞きおよんで、先生に店の看板を書いてもらったら、きっと商売繁盛になると思い立ち、まっさらの板をかかえてお願いに上がりました。
先生は、ふたつ返事で承諾しました。
一週間が過ぎて、主人が先生の屋敷をたずねると、「まだできておりません。もう少し待ってください」との返事でした。
それからまた10日ばかりが過ぎた頃にうかがうと、そこにはみごとな字で書かれた看板ができ上がっていました。
主人はとても喜び、さっそく店の軒先に吊るしました。
ある時、大名行列があって、そば屋の近くで休息をとりました。
家来がお殿様にお茶を差し上げるためそば屋に行くと、軒先の看板に目が止まりました。
「これを殿様に献上したら、きっとお喜びなされるに違いない」
家来は、大金を主人にわたして、看板をもらいうけました。
思わぬ大金を手にして喜んだ主人は、もう一度、先生に頼んでおなじ看板を書いてもらおうと、屋敷に行きました。
先生は、主人を座敷に上がらせ、家の奥から半櫃を運び出してふたを開けました。
すると、その中にはなんと「そば屋」の下書きのほごが、びっしりと入っていたのです。
それを見た主人は、驚くとともに、自分のなした言行の軽率に、ふかく恥じ入るのでした。
(入館券より)
藤樹神社 (中江藤樹記念館の目の前) (平成17年4月9日) |
藤樹神社
近世初期の儒学者、中江藤樹(1608~48)を祭神とし、藤樹神社創立協賛会(会長・堀田義次郎滋賀県知事)が中心となって、大正11年県社として創立された。
神社の創建に際しては、すべて寄附金でまかなわれ、寄附者は日本全国はもちろんのこと中国や朝鮮にまで及んだ。
おもな宝物としては久邇宮良子女王(香惇皇后)の御作文「吾が敬慕する人物中江藤樹」 藤樹直筆の書翰「送佃子」をはじめ熊沢蕃山や佐藤一斎の書。
さらに「藤樹先生全集」校正本等数多くある。
安曇川町
(説明板より)
平成19年11月8日
愛媛県大洲市・大洲市立大洲小学校でお会いしました。
中江藤樹先生少年像 (大洲小学校) (=中江藤樹先生勉学の地) (=中江藤樹先生邸地) (=加藤主馬光尚邸址) (平成19年11月8日) |
中江藤樹先生邸地
中江藤樹先生は、1617年(元和3)10歳の時、祖父に従って米子より大洲藩に来られ、間もなく風早郡(現北条市)に行かれました。
1620年(元和6)13歳の時、再び大洲藩に帰られ、現在大洲小学校の校庭のこの地に小さい邸を構えて居住されていました。
1622年(元和8)15歳の時祖父が死亡され、その後は、邸地を鉄砲町の現在大洲高等学校の校庭内に移され、武士ではありましたが大変学問を身につけられ、度々開講されて人々を教化されました。
教化を受けた人々は、多数にのぼっています。
1634年(寛永11)27歳の時、近江に残しているただ一人の老母に孝養したい一念から遂に大洲を去られました。
大洲藩にとっては、実に残念なことでありました。
当世の人々からも大変おしまれました。
先生の学問は、朱子学より陽明学に転じ、深い学問と徳を兼備された近江聖人として後世に敬慕されています。
ここにある藤の木は、先生の御生誕地にある近江の土地より送られたゆかりの藤の木であり、少年像は、1958年(昭和33)藤樹先生生誕350年祭を記念して、本校の卒業生、村上弘一氏の寄贈されたものであります。
(説明板より)
大洲市立大洲小学校 (愛媛県大洲市大洲711番地) (平成19年11月8日) |
平成19年11月8日
愛媛県大洲市・愛媛県立大洲高等学校でお会いしました。
中江藤樹像 (愛媛県立大洲高等学校・天心園) (平成19年11月8日) |
天心園由来
この庭園は昭和35年本校創立60周年を記念してもと天皇皇后両陛下御写真奉安殿あとに築造せられたものである
天心園築造経費寄附者
鎌田道海氏 30万円 天心園銅像台
沖本政夫氏 25万円 本校同窓会 5万円 中江藤樹銅像
銅像制作者 塩崎宇宙氏
明治40年堀野林治先生指導の下に築かれた築山を天心山と称した謡曲羽衣に
疑ひは人間にあり天に偽りなきものを
とある如く本校生徒はこの天の心を心とするよう心がけるべきである
昭和36年1月28日
愛媛県立大洲高等学校長 兵頭 正
(碑文より)
平成19年11月8日
愛媛県大洲市・県立大洲高校内『至徳堂』でお会いしました。
中江藤樹木像 (愛媛県立大洲高等学校・至徳堂) (平成19年11月8日) |
藤樹先生御木像
昭和17年5月14日安置
至徳堂寄贈者窪田哲次郎氏御令弟今川七郎氏鎌田五郎氏篠崎六郎氏の寄進にて制作は当時帝展審査員関野聖雲氏
用材は樟の心輪 重量約4貫
(説明文より)
至徳堂 (愛媛県立大洲高等学校敷地内) (平成19年11月8日) |
至徳堂建設趣旨
本校は中江藤樹先生邸址の地にあり、先徳を奉じ至誠慎独を傳統教條として校風をこゝに樹て邸址校精神を稱して任ずるところがあった。
夙に藤樹道の實践者として知られた宇和島中学大洲分校第2回卒業生工学博士窪田哲次郎氏(日立精錬所長)は郷党子弟の啓培に積極的に協力せられ更にまた邸址の名を實にせんとせられて、独力巨額の資を寄進され新に藤樹先生の旧宅になぞらえ院を建設し将来本校に学ぶ子弟相共に研鑽修養し得る道場たらしめられたのである。
昭和14年11月18日
(説明文より)
中江藤樹の邸跡(現:至徳堂) (愛媛県立大洲高等学校内) (平成19年11月8日) |
中江藤樹の邸跡(現:至徳堂) (愛媛県立大洲高等学校内) (平成19年11月8日) |
愛媛県指定史跡(昭和28年2月28日指定)
中江藤樹の邸跡
中江藤樹は江戸時代の儒学者で、後年「近江聖人おおみせいじん」として人々から仰がれ、また「日本の陽明学の祖」と呼ばれている。
藤樹は諱いみなを原げん、通称与右衛門よえもん、号を■軒もっけんという。
慶長13年(1608)近江国小川村に生まれた。
9歳の時、祖父良長よしながの養子となり、米子に行く。
翌年藩主加藤貞泰かとうさだやすの大洲転封で当地に移る。
15歳で家督相続し(禄百石)、この地に屋敷を給せられた。
17歳の時、『四書大全ししょだいぜん』を購入し独学で朱子学を学ぶ。
学問の進展著しかった。
寛永11年(1634)近江の母への孝養と自分の病を理由に辞職を願うが許されず、その冬無断で脱藩した。
27歳の時である。
近江では「藤樹書院」で多くの門人を教育し、また37歳の時、『王陽明全集おうようめいぜんしゅう』を読み、その思想に共感し「知行合一ちこうごういつ」の実践を深めた。
しかし、慶安けいあん元年(1648)41歳の若さで没した。
自宅に大きな藤の木があったことから門人に「藤樹先生」と尊称された。
大洲高等学校は明治34年(1901)の創立以来、中江藤樹の教えを「邸址校教育」として重視、昭和14年(1939)の「至徳堂しとくどう」建立、「中江の水」の整備など伝統的校風づくりに生かしている。
大洲市教育委員会
(説明板より)
愛媛県立大洲高等学校 (愛媛県大洲市大洲737番地) (平成19年11月8日) |
平成19年11月8日
愛媛県大洲市・大洲城でお会いしました。
中江藤樹像 (愛媛県大洲市・大洲城) 明治43年10月 建立 大正14年6月 改鋳 昭和27年11月 再建 原型制作 塩崎宇宙 鋳造 香川縣立高松工藝高等学校 (平成19年11月8日) |
碑文
藤樹先生賛
内外瑩徹八面玲瓏
千古聖徳萬衆知崇
大洲藤樹会総裁
舊大洲藩主正三位子爵加藤泰秋書
近江聖人 中江藤樹先生 (1608~1648)
先生の名は原、通称は与右衛門、生家は近江の小川村(滋賀県)屋敷内に大きな藤の木が生い茂り、その下で学問を積み、敬い集まる人々を導いたので、藤樹先生と呼ばれ、後の世の人々からは近江聖人と敬慕されてきた。
大洲は、先生が10歳から27歳まで過ごされた立志・感恩・勉学の地である。
大洲の人々は、先生ゆかりの地として、その学徳を追慕し、藤樹先生の心をいつまでも継承しようと、この城山に銅像を建立した。
※教えー「孝」「致良知」「慎独」「知行合一」など
※著書ー「翁問答」「鑑草」「春風」「捷径医筌」など
平成9年11月吉日 記 大洲藤樹会
(副碑・碑文より)
詩碑
忍の字に題す 中江藤樹
一たび忍べば七情皆中和す
再び忍べば五福皆ならびいたる
忍んで百忍に至れば満腔の春
ききたる宇宙すべて真境
昭和55年3月建立
至善流大洲吟詠会
(副碑・碑文より)
中江藤樹 詩碑 (愛媛県大洲市・大洲城) (平成19年11月8日) |
賛
丑尾鳳秀師を主宰者とする大洲吟詠会は先哲偉人を敬慕しその遺志を学ぶことに努めてこられた
とりわけ中江藤樹先生を師表と仰ぎ会の名を至善流大洲吟詠会と呼称し 先生の詩碑建立を多年の念願としてこられたのであるが機ここに熟して20年来の会活動の間に蓄積された浄財を基に建立の実現を見るに至った
選ばれた「忍」の詩は先生を忍ぶに真に適切志を同じくする本会はこの詩碑建立に敬意を捧げ世人に訴える意義の大きいことを信じるものである
昭和55年3月吉日
大洲藤樹会々長 兵頭義高
(碑文より)
資料 |
中江藤樹 筆 『真吾説』(個人蔵)
「真実の吾、だと思われがちな見在観応思慮分別は、すべて子どもの頃から今に至るまでに身につけた『仮吾』である。世間の転倒迷乱は仮吾を真吾と誤認することにより生まれるものである。真吾とは、虚霊不昧の良知をいう。この真吾を求めることが何より大切である」と説いている。
藤樹哲学を究明する上で重要な資料である。
中江藤樹 筆 『孝字并釈』(個人蔵)
藤樹の生涯を貫いた根本精神である「孝」について述べた書。
孝の心は、誰しもが生まれながらに持ちながら、そのことに気付けないでいる。
愛敬により孝に至ることができるのだから、驕り慢心することなくつとめるべきだ、と記されている。
中江藤樹 筆 『慎独』(個人蔵)
「慎独」とは、人を相手にしているのではなく、自己の良知、すなわち良心の命令に従って己を慎むことである、と慎独の本義を述べている。
藤樹の学説を究明する上で貴重な資料である。
中江藤樹 著 『翁問答』(大洲高等学校所蔵)
寛永17~18(1640~41)年に大洲の門弟たちの求めによって著された。
先覚者「天君」と、その弟子「体充」の問答を、傍らで聞いた人物が筆録したという形式で書かれている。
著述後、意にかなわないことがあると、たびたび改正が試みられたが、病気などにより、結局藤樹自身による「定本」は実現されることはなかった。
寛永20(1643)年、無断出版されそうになったが版木を破却させている。
没後、版本となったものには大きく慶安2年版と、慶安3年版がある。
慶安2年版は草稿に基づくもので、全5巻。
慶安3年版は、慶安2年本を弟子が校訂し、主に「孝経」を平易に説明した上巻之本、文武論を述べた上巻之末、学問論を述べた下巻之本、儒仏論を中心とする下巻之本、に巻わけして藤樹の改正編をつけて出版したもので、定稿本とみなされている。
慶安2年以降現在に及ぶまで様々な形で再版され藤樹の代表的著書として読みつがれている。
中江藤樹 著 『鑑草』(大洲高等学校所蔵)
全6巻、正保4(1647)年初版。
寛永20(1643)年、『翁問答』を無断出版しようとした業者が、版木制作に要した費用などにより困惑しているのを見かねた藤樹が、その代わりとして婦女子の教訓書として書き溜めていた原稿を渡して『鑑草』という標題で出版させたもの。
明の顔茂猷編の『廸吉録』から故事を引用し「孝逆之報、守節背夫報、不嫉妬毒報、教子報、慈残報、淑睦報、廉貧報」んも八つの教訓を述べ、藤樹の評が加えられている。
儒教道徳に基づきながらも、明徳と仏性を同一視するなど、仏教・道教に対して寛容な態度をとっており、藤樹の思想の変化が顕著に表れた著作でもある。
平成19年度大洲市立博物館秋季特設展「中江藤樹生誕400年記念」協賛展示
『与右衛門から「藤樹」へ~中江藤樹の軌跡~』平成19年10月10日~平成20年1月13日
展示解説シートより
平成17年4月9日
滋賀県高島市・安曇川町立青柳小学校でお会いしました。
安曇川町立青柳小学校 (滋賀県高島市) 昭和49年10月14日 青柳小学校百周年を記念して「中江藤樹先生少年像」が建立されました。 (平成17年4月9日) |
藤樹書院跡 (滋賀県高島市安曇川町) (平成17年4月9日) |
藤樹書院跡
国指定 大正11年3月8日
藤樹書院は、中江藤樹先生の屋敷地に開かれた私塾で、慶安元年(1648)の春、門人達によって創建されたもので、近世における私塾のさきがけといえる。
しかし、講堂は、明治13年(1880)に焼失したが、幸い先生の遺品や遺墨類の焼失はまぬがれた。
現在の講堂は、その2年後募金により、仮の講堂として再建されたものである。
平成9年2月
安曇川町教育委員会
(説明板より)
再建された講堂 (平成17年4月9日) |
藤樹書院模型 (近江聖人中江藤樹記念館) (平成17年4月9日) |
藤樹書院
藤樹先生の開かれた私塾で、門人たちの発意により土地を買い広め、慶安元年(1648)に創建される。
草ぶき屋根の建物で、大きさは4間×8間に7つの部屋からなり、南側に玄関と縁側があり、講義された部屋の正面には祭壇が設けられ、太乙神を祀られていた。
寛政8年(1796)光格天皇より藤樹書院に対して「徳本堂」の堂号をたまわる。
明治13年(1880)上小川村の大火で創建時の建物は焼失し、2年後に県内外の募金によって瓦葺の建物として再建される。
おもな行事としては、1月11日の講書始め・鏡開き、7月23日の常省祭、9月25日の儒式祭典がある。
(説明パネルより)
熊沢蕃山入門懇願の跡 (藤樹書院敷地内) (平成17年4月9日) |
熊沢蕃山入門懇願の跡
かつて中江家の門は、このあたりにありました。
蕃山は『正直馬子』の話を聞いて藤樹先生を訪ね教えを請いますが、先生は「自分は師たるに足らざる」と断ります。
蕃山は、一旦、桐原(近江八幡)へ帰り再び小川村を訪ね、教えを請いますが許されません。
蕃山は、この場所に二夜、座して懇願し、やっと先生の母のとりなしによって許されました。
先生のもとで学問に励んだのはわずか8ヶ月でしたが、先生は「わが心友である」と別れを惜しみました。
蕃山は後に池田光政に仕え異色の経世家として著名になりました。
その後、古河(茨城県)に幽閉されて亡くなりますが、それまでの40年間、命日に欠かさず先生の墓に詣でたのです。
ここは、そのような羨むばかりの師弟関係が生れた場所です。
(説明板より)
藤樹先生邸跡の藤 (藤樹書院敷地内) (平成17年4月9日) |
藤樹先生邸跡の藤
藤樹先生は、この藤の木のある家で生まれ、この地で短い一生を終えられました。
先生は、この藤の木の下で、門人や村人達を教えられましたので、誰いうともなく、藤樹先生と呼ばれるようになったといわれています。
安曇川町教育委員会
(説明板より)
藤樹先生墓所 (滋賀県高島市安曇川町) 左:中江藤樹の墓 手前:藤樹の三男弥三郎の墓 左:藤樹の母親の墓 (平成17年4月9日) |
藤樹先生墓所
町史跡 昭和56年3月18日
中江藤樹先生は、慶安元年(1648)秋8月25日、持病のぜんそくがこうじて、41歳という若さで亡くなる。
先生の遺がいは門人によって、ていちょうに儒葬される。
正面向かって左側が藤樹先生、右側が藤樹先生のお母さん(中江徳右衞門の妻、北河氏)、その手前が藤樹先生の三男弥三郎(常省先生)の墓である。
安曇川町教育委員会
(説明板より)
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