滋賀県高島市安曇川町上小川69番地
平成17年4月9日
近江聖人おうみせいじん中江藤樹記念館
中江藤樹は、江戸時代初期の儒学者じゅがくしゃ。
晩年、中国明代みんだいの儒学者・王陽明おう・ようめいのとなえた【致良知ちりょうち】の説を最高の教学として示したことから、《日本陽明学の祖》とされている。
また数多くの徳行とっこうによって《藤樹先生》と親しまれ、没後には《近江聖人》とたたえられる。
慶長13年(1608)3月7日、近江国高島郡たかしまごおり小川村に生れる。
15歳、祖父吉長よしながの家禄をつぎ伊予の大洲藩士となる。
27歳、大洲藩士を辞して小川村に帰郷する。
以後、慶安元年(1648)8月25日、41歳で没するまでの14年間、居宅に私塾《藤樹書院》をひらき、武士や近隣の庶民に「良知の学(良知心学)」をおしひろめた。
代表的門人に熊沢蕃山くまざわ・ばんざん・淵岡山ふち・こうざん・中川謙叔なかがわ・けんしゅく・泉仲愛いずみ・ちゅうあい・中西常慶なかにし・つねよしらがいる。
おもな著書に『翁問答おきなもんどう』『鑑草かがみぐさ』『孝経啓蒙こうきょうけいもう』『論語郷党啓蒙翼伝ろんごきょうとうけいもうよくでん』『大学考だいがくこう』などがある。
当館は、昭和63年(1988)3月、藤樹先生生誕380年を記念して開館した。
藤樹書院および藤樹神社の宝物を収蔵し、先生の遺品や遺墨いぼく、著書の代表的なものを展示している。
あわせて陽明学関係など、8千冊におよぶ図書を所蔵し、閲覧に共している。
(説明板より)
開館時間:午前9時~午後4時30分
休館日:毎週月曜日・祝日の翌日・年末年始
入館料:200円
略年譜
西暦 | 年号 | 年令 | ことがら |
1608 | 慶長13 | 1 | 3月7日、近江国高島郡小川村に生れる。 |
1616 | 元和 2 | 9 | 米子藩主加藤貞泰の家臣であった祖父吉長の養子となり 米子に移住。 |
1617 | 元和 3 | 10 | 加藤貞泰の転封により、伊予国大洲へ移住。 |
1621 | 元和 7 | 14 | 曹渓院天梁和尚に書道や漢詩を学ぶ。 8月7日祖母卒。 |
1622 | 元和 8 | 15 | 9月22日祖父吉長卒。 |
1624 | 寛永元 | 17 | 京都から来た禅僧に『論語』を学ぶ。 |
1625 | 寛永 2 | 18 | 1月4日父吉次卒。 |
1628 | 寛永 5 | 21 | 『大学啓蒙』を著す。 |
1630 | 寛永 7 | 23 | 「安昌、玄同を殺するの論」を書く。 |
1631 | 寛永 8 | 24 | 「林氏、髪を剃り位を受くるの弁」を書く。 |
1632 | 寛永 9 | 25 | 近江に帰省し、母に大洲での同居を勧めるが拒否される。 |
1634 | 寛永11 | 27 | 3月7日辞職願を提出するが拒否される。 10月脱藩し、京都に潜伏後近江に帰郷する。 |
1637 | 寛永14 | 30 | 伊勢亀山藩士高橋小平太の娘久と結婚。 この頃より門人となる者多し。 |
1638 | 寛永15 | 31 | 『持敬図説』『原人』を著す。 大野了佐入門、のちに彼のために『捷径医筌』を著す。 |
1639 | 寛永16 | 32 | 「藤樹規」「学舎座右戒」を作る。 |
1640 | 寛永17 | 33 | 『性理会通』を読み、太乙神を祭る。 『翁問答』を著す。 |
1641 | 寛永18 | 34 | 『孝経啓蒙』の執筆開始、翌年完成。 熊沢蕃山入門。 |
1642 | 寛永19 | 35 | 11月長男宜伯誕生。 |
1643 | 寛永20 | 36 | 『小医南針』を著す。 |
1644 | 正保元 | 37 | 『陽明全集』を初めて入手する。 『神方奇術』を著す。 |
1646 | 正保 3 | 39 | 1月25日次男仲樹誕生。 4月30日夫人久卒。 |
1647 | 正保 4 | 40 | 9月大溝藩士別所友武の娘と結婚。 『鑑草』を著す。 |
1648 | 慶安元 | 41 | 7月4日三男季男(常省)誕生。 8月25日中江藤樹卒。 (年齢は数え年) |
(記念館のリーフレットの略年譜)
逸話『そば屋の看板』 |
小川村からほど近い鴨村の街道ぞいに、一軒のそば屋がありました。
その主人は、藤樹先生が大変りっぱな学者だと聞きおよんで、先生に店の看板を書いてもらったら、きっと商売繁盛になると思い立ち、まっさらの板をかかえてお願いに上がりました。
先生は、ふたつ返事で承諾しました。
一週間が過ぎて、主人が先生の屋敷をたずねると、「まだできておりません。もう少し待ってください」との返事でした。
それからまた10日ばかりが過ぎた頃にうかがうと、そこにはみごとな字で書かれた看板ができ上がっていました。
主人はとても喜び、さっそく店の軒先に吊るしました。
ある時、大名行列があって、そば屋の近くで休息をとりました。
家来がお殿様にお茶を差し上げるためそば屋に行くと、軒先の看板に目が止まりました。
「これを殿様に献上したら、きっとお喜びなされるに違いない」
家来は、大金を主人にわたして、看板をもらいうけました。
思わぬ大金を手にして喜んだ主人は、もう一度、先生に頼んでおなじ看板を書いてもらおうと、屋敷に行きました。
先生は、主人を座敷に上がらせ、家の奥から半櫃を運び出してふたを開けました。
すると、その中にはなんと「そば屋」の下書きのほごが、びっしりと入っていたのです。
それを見た主人は、驚くとともに、自分のなした言行の軽率に、ふかく恥じ入るのでした。
(入館券より)
中江藤樹記念館
中江藤樹生誕380年を記念し、旧安曇川町が滋賀県の《小さな世界都市づくりモデル事業》の補助金をうけて、昭和61年度に建設する。
第1展示室は小企画展と藤樹神社宝物を中心に、また第2展示室は中江藤樹の遺品・遺墨を中心に常設展示している。
図書室には、中国哲学の漢籍をはじめとする専門書1万冊弱を収蔵し、自由に閲覧することができる。
講義室では、各種講演会等を開催している。
当館は、中江藤樹研究センター機能をもつ。
ビデオコーナー
第2展示室に設けられ、オリジナルビデオ「藤樹先生」(12分)等がご自由に鑑賞できます。
(リーフレットより)
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第1展示室 |
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第2展示室 (平成17年4月9日) |
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藤樹書院模型 (平成17年4月9日) |
藤樹書院
藤樹先生の開かれた私塾で、門人たちの発意により土地を買い広め、慶安元年(1648)に創建される。
草ぶき屋根の建物で、大きさは4間×8間に7つの部屋からなり、南側に玄関と縁側があり、講義された部屋の正面には祭壇が設けられ、太乙神を祀られていた。
寛政8年(1796)光格天皇より藤樹書院に対して「徳本堂」の堂号をたまわる。
明治13年(1880)上小川村の大火で創建時の建物は焼失し、2年後に県内外の募金によって瓦葺の建物として再建される。
おもな行事としては、1月11日の講書始め・鏡開き、7月23日の常省祭、9月25日の儒式祭典がある。
(展示パネル解説文より)
平成17年4月9日
陽明園
陽明園は、昭和61年(1986)からはじまった王陽明(1472―1528)先生の生誕である中国浙江省余姚市と、日本陽明学の祖・中江藤樹(1608―48)先生生誕の地である滋賀県安曇川町との友好交流シンボルとして建設した中国式庭園です。
この設計にさいしては、上海の豫園、蘇州の抽政園や留園など、中国における代表的庭園を参考にしました。
「太湖石」と呼ばれる池の周囲などに配した奇怪な形をした岩石や塀の「龍瓦」をはじめ、陽明園に用いられている建築材料のほとんどは、中国から輸入したものばかりです。
[陽明亭]
八角平面の二層式あづまやの陽明亭は、王陽明が講学した中天閣に残されている建物にならって建築しましたが、このたびの陽明園における陽明亭は、余姚市文物管理委員会の時代考証をへて500年前の建築様式にもとづき、余姚市城郷建設委員会の監修によって復元したものです。
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王陽明石像 |
[王陽明石像]
皇帝に拝謁する時の姿を描いた等身大の石像は、余姚市に古くから伝わっている王陽明画像にもとづき、余姚産の花崗岩を使用して制作したものです。
(リーフレットより)
交通案内:JR湖西線安曇川駅より徒歩15分
入園料:無料
※近江聖人中江藤樹記念館の裏に位置します。
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