那珂通辰 なか・みちとき






那珂通辰の墓

(茨城県常陸太田市増井町・正法寺跡)





(平成21年6月7日)

那珂通辰の墓(南北朝北常陸義軍の主将)
昭和42年8月31日 市指定

那珂通辰は現在常北町にある那珂西域の城主といわれている。
建武2年(1335)12月後醍醐天皇にそむいた足利尊氏追討の命を受けた義良親王と北畠顕家は陸奥の国府を発って、多賀の甕の原で足利方の佐竹貞義と激戦した際、那珂通辰は背後より奇襲をかけ佐竹勢を敗走させたという。
その後、通辰は北畠顕家に従って上洛し後醍醐天皇から菊桐紋章を賜わった。
延元元年(1336)瓜連城に楠木正家が入城し通辰が帰国するに及んで西金砂山に籠城していた佐竹勢としばしば戦った。
同年12月12日瓜連城は攻め落とされた。
このとき佐竹貞義を西金砂城に迎撃して失敗した通辰の軍は敗走して増井の勝楽寺裏で一族34人と共に自害したとも捕らわれて斬られたとも伝えられている。
通辰一族の節に殉じた一本松の峰には、これを顕した碑が建てられている。

常陸太田市教育委員会

(説明板より)






那珂通辰の墓






(平成21年6月7日)





那珂下総守藤原通辰之墓






(平成21年6月7日)

那珂下総守藤原通辰公墓碑雨除施設建立趣意、並びに寄進者名簿

昨年8月、那珂通辰公の墓碑雨除施設建立の話が持ち上がり、本年(平成18年)1月9日・3月10日と岡田町会館に於いて小祝の皆様との話会の機会を持ち、建立推進の総意ができたのであります。
那珂通辰公の墓碑については、明治19年2月、私達の先達、小祝貞蔵、小祝雄次郎、小祝政吉、小祝健次郎連名による茨城縣令島惟精宛に碑表建設願が提出され、明治20年4月7日茨城県知事安田定則により願之趣聞届候事という許可がおりました。
それにより寄進を募り建立された経緯がございます。
然し約120年の時が流れ墓碑の傷みがはげしく、このまま放置すれば歴史は風化してしまうとの理解と危惧の念により、岡田町会館に於いて配慮が得られた次第であります。
昭和42年8月常陸太田市の指定文化財に指定され、歴史価値また、観光資源として今日迄来たのでありますが、風雨による傷みがはげしく、早急な対策として雨除施設の建立となり、今日の佳き日を迎える事ができました。
これもひとえに教育委員会、市文化財保護審議会、地元地域の方々、そして、小祝一族の皆様方のご理解とご協力による賜物と深く感謝を申し上げます。
今後共末永い発展を願い、市そして地域の為お役にたてれば幸いでございます。
茲に御寄付を戴いた方々のご芳名を刻み後世に残すべき配慮をさせていただきました。

平成18年(2006年)6月吉日 小祝隆雄

(名簿は省略)

(碑文より)





正法寺跡(那珂通辰の墓所)

(茨城県常陸太田市増井町)





(平成21年6月7日)



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