中村彝像 平成18年8月3日

中村彝 なかむら・つね

明治20年(1887年)7月3日〜昭和10年(1935年)10月17日

茨城県水戸市千波町・県民文化センター前でお会いしました。


茨城県出身。
明治39年(1906年)白馬会絵画研究所で黒田清輝、翌年太平洋画会で中村不折・満谷みつたに国四郎に師事。
中村悌二郎ていじろうと親交を結ぶ。
荻原守衛もりえの感化を受け、レンブラント、ルノワール、セザンヌらの影響を受けた。
新宿中村屋の相馬家の庇護の下、文展・帝展で活躍。


中村彝像



中村彝像
(茨城県水戸市千波町・県民文化センター前)





(平成18年8月3日)

わが国近代美術史上に 燦然と輝かしい足跡を残した中村彝は 明治20年水戸に生まれ12歳にして父母を失い 軍人を志望して名古屋幼年学校に入学したが 病のため中退
19歳の時療養と同時に洋画に志し 白馬會太平洋画会両研究所にて基礎技術を学び 明治42年第3回帝展に油絵2点を出品して以来 毎回若き中村彝の芸術は常に注目・敬愛の対象となり 確固不動の存在となった
不治の病躯をいたわりつつ■■■真実を求めて精進し その透徹した英知と崇高な精神 思想 しかも美しい愛情をもって貫いた芸術生活 孤独と貧困の中に幾多の名作を残し37歳の生涯を閉じたが いまなお彼の画業に芸術の無限感を示し 多くの人に深い感銘を与えている
墓所は 水戸祇園寺にあり

昭和43年7月■日 中村會

(副碑・碑文より)

※ ■は判読不明文字


生い立ち

彝は5人兄弟の末っ子で、父は旧水戸藩士。
幼い頃から絵ごころがあったといわれています。
17歳で名古屋陸軍幼年学校を卒業しますが、この時、結核にかかり軍人になることを断念します。

画家としての出発

病におかされた彝は、暖かな千葉の海岸地に、転地療養を繰り返し、回復のきざしをつかみます。
房州白浜に出かけ写生をして過ごす一方、白馬会研究所や太平洋画会研究所に通い本格的に絵に取り組みました。
そこで中原悌二郎や鶴田吾郎らの画友を得ます。

中村屋サロン

明治40年(1907)に新宿駅前に開店したパン屋「中村屋」は文化人が集うサロンの役割を果たしていました。
相馬愛蔵、黒光夫妻の経営する中村屋には、愛蔵と同郷の彫刻家荻原守衛の他、戸張孤雁、高村光太郎らが集い、美術や演劇の交流の場として、独特の賑わいをみせました。
彝は愛蔵、黒光夫妻の好意で中村屋裏の木造アトリエを借りて住み、そこで制作するようになります。

恋愛と伊豆大島への旅立ち

彝は、素朴で開放的な丸顔の健康美に満ちた中村屋の長女俊子をモデルに多数制作をしています。
やがて、彝は俊子に恋をしますが、その恋愛はこじれ、精神的な動揺と激しい葛藤に悩まされます。
大正3年(1914)12月、俊子との愛に悩みつつ、伊豆大島へと旅立つことになります。

アトリエの彝

大正5年(1916)、現在の東京都新宿区下落合に建てられたアトリエが、画家後半期の制作活動の舞台となります。
彼は、短い画業にもかかわらず、レンブラント、セザンヌ、ルノワールなどの影響を受けつつ、西洋絵画を咀嚼そしゃくしながら、真の芸術を求め続け、「エロシェンコ氏の像」(重要文化財)、「頭蓋骨を持てる自画像」など数々の傑作を残しました。

(茨城県近代美術館のパンフレットより)


【中村彝】 

中村彝は明治20年(1887年)7月3日、水戸市上市寺町うわいちてらまち七番屋敷(金町3丁目2番地)に、旧水戸藩士・中村順正、よしの末子として生まれた。
誕生の翌年に父を失い、上市尋常小学校(水戸市立五軒小学校)から茨城県尋常師範学校付属小学校(茨城大学教育学部附属小学校)に進学したが、明治31年には母も没したため、一かは牛込区(新宿区)原町に住む長兄を頼って上京した。
彝は5人兄弟で2人の兄がいた。
長兄は軍人で、次兄も軍人を目指し、名古屋陸軍地方幼年学校に進んだ。
彝も次兄と同じ名古屋陸軍地方幼年学校に進学したが、3年間の厳しい教練を修了した明治37年に胸部疾患となり、軍人志望を断念。
この間に、次兄と姉が没し、さらに同年、日露戦争従軍中の長兄も戦死し、彝は頼るべき人を失った。

彝は転地療養先で、たまたま水彩画を試みるようになった。
そして水彩画家・三宅克巳の門を叩いたが果たせず、黒田清輝の指導する白馬会第二研究所、そして白馬会溜池研究所に入所して洋画を学ぶ。
その後、太平洋画会研究所に移り、改めてデッサンの基礎から学んだ。
明治40年に文展(文部省美術展覧会)が開設されると、早速応募したが、第1回、第2回と落選を重ねた。
しかし、房総の白浜で描いた「巖」と「曇れる朝」の二作が第3回文展で初めて入選、「巖」は褒状受賞という華々しいデビューとなった。
さらに第4回文展の「海辺の村」、第5回文展の「女」と、連続して三等賞を受賞し、出品すれば必ず受賞するという目覚ましい活躍ぶりであった。

注目の洋画家となった彝は、明治44年末から新宿中村屋の主人・相馬夫妻の好意により、中村屋裏のアトリエに住むようになった。
ここで彝は相馬家の長女・俊子をモデルに一連の少女像を描いている。
幼年学校時代からレンブラントに傾倒してレンブラント風の自画像を数多く描いていたが、中村屋裏のアトリエ時代は、ゴッホやルノワール、あるいはセザンヌ風の描法に変化しており、大正3年(1914年)の東京大正博覧会には半裸の俊子像「少女」、第8回文展には着衣姿の俊子像「少女」(三等賞)と、立て続けに俊子を描いて出品している。
彝は俊子に対して、次第に好意以上の感情を抱くようになったが、相馬夫妻の理解を得られず、単身、大島に渡る。
しかし、島の気候は彝の健康に適さず、喀血と感冒に悩まされ、わずか3ヶ月の滞在で帰京し、中村屋裏のアトリエを出た。

大正5年8月、豊多摩郡落合村下落合(新宿区下落合)に、待望のアトリエ付き住宅が完成。
同年の第10回文展には「田中館たなかだて博士の肖像」と、新築の画室で描いた「裸体」を出品し、前者が特選となった。
しかし、その後、健康状態はすぐれず、気合術治療や呪術じゅじゅつなど、体に良いと言われることは次々に試みているが、いずれも効果なく、大正8年の夏に、勧められて郷里水戸近郊の平磯海岸へ転地療養を試みた。
しかし、ここでも健康状態は回復せず、2ヶ月余で滞在を切り上げた。

こうした状況下、大正9年の第2回帝展に4年ぶりに出品した「エロシェンコ氏の像」は、大きな称賛を受け、会場の話題を集めた。
しかし、制作に伴う極度の興奮と緊張から、作品完成と同時に喀血。
その後、病状は悪化の途をたどり、医師から1ヶ月ももたないと診断された。

大正12年9月、関東大震災が起こり、九死に一生を得た彝は、決意を新たに制作に取り組み、「カルピスの包み紙のある静物」をはじめとする花の連作を描き、第5回帝展には岡崎きいを描いた「老母の像」を出品した。
岡崎きいは下落合時代に、死に至る病として恐れられた肺病の彝に対して、親身の看護をしてくれた女性で、幼くして母を失った彝には、母ともいうべき存在であった。
彝は「老母の像」と、それに先行した対の作品ともいえる「髑髏を持てる自画像」を描いているが、「エロシェンコ氏の像」と両作とは、色調をはじめ大きな変貌を遂げており、彝の作風の転換を明確に示していた。
しかし、大正13年12月24日、恐れていた死が彝の画業に終止符を打った。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月発行)

(平成29年7月8日 追記)


中村彝君墓



中村彝君墓
(茨城県水戸市八幡町・祇園寺)





(平成20年6月30日)
祇園寺


祇園寺
(茨城県水戸市八幡町11−69)

開山は明の僧・心越禅師
開基は徳川光圀



(平成20年6月30日)

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