中野正剛像 平成20年11月25日

中野正剛 なかの・せいごう

明治19年(1886年)2月12日〜昭和18年(1943年)10月27日

福岡県福岡市・鳥飼八幡宮でお会いしました。


福岡県出身。
早稲田大学卒。
大正9年(1920年)から衆議院議員。
昭和6年(1931年)満州事変勃発後、安達謙蔵内相の協力内閣運動に加わり、民政党を脱党。
翌年、国民同盟(党首は安達謙蔵)を結成したが、昭和11年(1936年)国家主義的な東方会を結成して自ら総裁となる。
太平洋戦争の戦局が悪化すると、東条内閣の倒閣を画策したため、昭和18年(1943年)10月21日憲兵隊に捕らわれ、釈放後に割腹自殺した。


中野正剛像


中野正剛像

(福岡県福岡市中央区今川2−1−17・鳥飼八幡宮)


中野正剛先生碑
(昭和30年3月27日建之)


(平成20年11月25日)

中野正剛先生碑・碑誌

中野正剛君ハ明治末期ヨリ大正ヲ経昭和中期ニ至ル我カ日本ノ産出シタル不■卓■ノ好男児ナリ
君ノ家ハ福岡藩士幼時黒田武士ノ雰囲気中ニ成長シ其ノ教養ヲ受ク
君ノ郷校ニアルヤ学業■■ニ冠タリ
進ンテ官学ニ入リ高弟ヲ取ル立身出世乎唾シテ■ヘキナリ
然モ君ヤ自カラ好ンテ早稲田大学ニ赴ケリ
学成ルヤ朝日新聞記者トナル
君文章雄健識見透徹■ク人ノ言フ克ハサル所ヲ言フ
忽チ当代ノ大家名士ニ認知セラル
■テ朝鮮ニ特派セラル
予カ親シク君ト面シタルハ實ニ明石柏蔭京城ノ邸ニ於テス
明石ハ君ト同郷人ニシテ當時朝鮮警務総監タリ
予ハ君カ眉目■秀意気軒昂談論風發眼中人ナキ状ヲ見テ心私ニ将来ノ大成ヲ期セリ
幾■ナク君ハ朝鮮満洲ヨリ中國ニ遊ヒ東亜ノ大勢ニ就テ得ル所アリ
朝日新聞ノ論壇ニヨリテ大ニ政治活動ヲ試ミ自カラ東方時論ヲ興シ■ニ進ンデ遂ニ議會人トナレリ
君ハ同郷ノ大先輩頭山立雲ニ■フ所最モ多ク當初犬養木堂傘下ニ■シ安達■城ニ結ヒ而シテ遂ニ自カアr東方會ヲ興シテ同志ノ才俊ヲ糾合シ議會内外ニ其ノ勢力開張セリ
君ノ辯論ハソノ文章ニ優ルモ決シテ劣ルトコロナシ
■■雲ヲ興シ痛快肺腑ヲ穿ツ
君ハ議會ニ於テ反対党タル田中内閣ヲ倒シ更ニ自党タル若槻内閣ヲ総辞職セシム
君ノ党人トシテノ官歴ハ逓信政務次官ニ止マル
然モ議會人トシテハ實ニ一敵國ノ■ヲ■セリ
君ノ政界ニ於ケル進退行■ハ常人ノ諒解シ克ハサルモノ鮮カラス
然モ君ハ既往ニ■ラハレス執一ノ見ニ縛セラレス文義ニ泥マス
只國家ノ為ニ當面ノ必須トスル標的ニ向ツテ■進ス
故ニ其ノ所信ヲ断行スルニ當リテハ世上ノ毀誉褒貶ヲ顧ミス一身ノ利害得喪ヲ無視シテ猛然之ニ■クノミ
然モ其ノ志恒ニ君國ニ存シ専ラ東亜ノ興隆を圖リ自カラ世界諸民族ノ水平運動ノ唱首タランコトハ君カ終始ヲ一貫シタル精神タラスンハアラス
君ヤ第一世界大戰ニ際シ英國ニ遊ヒ巴里會議ニ際シ佛國ニ遊ヒ更ニ第二世界大戰前ニ於テ獨伊諸邦ニ遊フ
其ノ三回ノ外遊ハ君ヲシテ世界的活眼者タラシムルニ足ルモノアリ
君ハ第三次外遊ニ際シ同郷ノ先輩頭山立雲岳父三宅雪嶺及老友予ヲ迎ヘテ星岡茶寮ニ留別ノ■ヲ催ウセリ
今ヤ■中ノ主客剰スモノ予一人ノミ
當時君慷慨卓属真ニ一世ノ智勇ヲ推倒シ万古ノ心胸ヲ開拓スルノ慨アリキ
而シテ歸■大東亞開戰ニ際シテ當局ノ措置君ト相恊ハス
遂ニ君ヲシテ自裁ノ極所ニ至ラシム
若夫レ君ノ死生ノ際ニ於ケル従容自若面シテ自裁ノ方式態度悉ク皆古武士的典型ニ導フ
之ヲ知ル者誰カ君カ人生ノ大道ニ於テ其ノ悟入ノ真且ツ深ヲ諒トセサルモノアランヤ
君ハ何故ニ斯ノ如キ決心ヲナスニ到リタルカ
■ハ曰ク是一死ヲ以テ當局者ニ最後ノ打撃ヲ與ヘタルモノナリト
■ハ曰ク當時君ハ同志ト共ニ戰局打開ノ為メニ或ル企畫ヲ做シ事方ニ成ラントシテ縲■ノ■ニ羅レリ
之カ為メニ君ハ其ノ禍機不測ノ方面ニ波及センコトヲ慮リ獨リ自カラ其ノ責ニ任シタルナリト
然モ其ノ真相如何ハ唯天之ヲ知ルノミ
君ヤ平生大塩中斎西郷南洲ニ私淑シ王陽明ノ知行合一ノ説ヲ■■ス
君ヤ實ニ其ノ學フ■ヲ行フニ■シ君ノ家庭ハ實ニ理想的ナリキ
孝友慈愛一トシテ■■スル所ナシ
夫人三宅氏聰慧貞淑君ニ■テ逝ク
君■ニ娶ラス操行清浄亡夫人ノ霊牌ト同■スルノミ
平生嗜好曰ク乗馬曰ク讀書同郷ニシテ同學ノ親友緒方君竹虎君ト政見ノ異同ニ■セス交情始終■ラス
君逝クヤ其ノ後事ノ経記専ラ其ノ力ニ頼ル
銘ニ曰ク
蟄龍在山 降■人■ 一朝神變 飛翔雲■
友人蘇峰徳富正敬撰 門人進藤一馬謹書

(碑文より)

中野正剛先生略伝

明治19年2月12日福岡市西湊町(現荒戸1丁目)ニ生レ中学修猷館、早稲田大學ニ学ブ。
東京朝日新聞記者、東方時論主幹トシテ健筆ヲ揮イ郷土紙九州日報ヲ経営ス。
福岡県1区ヨリ衆議院議員ニ当選スルコト8回在職二十年四月其間大蔵参與官逓信政務次官トナル。
後、東方会ヲ組織シ全国ノ青年同志ヲ糾合国事ニ奔走ス
性剛直果断、愛国ノ至誠ハ熱血ノ雄弁
不抜■筆陣トナリ毅然トシテ所信ニ邁進、太平洋戦争酣ナルヤ戦局日ニ非ナルヲ憂イ東條内閣ノ退陣ヲ図リ其収拾ニ盡瘁
東條首相ノ熾烈ナル弾圧ニ屈セズ抗議スルモ志成ラズ。
昭和18年10月27日渋谷ノ自邸ニテ自刃
歳 満五十七

門人 進藤一馬 謹書

(副碑・碑文より)


【田中義一 VS 中野正剛】

(シベリア出兵)
陸軍がシベリア出兵を強行した時(大正7年)、真っ先に反対し、徹頭徹尾、陸軍大臣・田中義一を糾弾し続けたのは、まだ駆け出しの政治家・中野正剛であった。
「世界中の眼がヨーロッパの戦局に集中しているそのスキを狙って、ウラジオをどうの、シベリアをどうのと言うのは、泥棒猫と何の選ぶところぞ。泥棒猫ならまだいい。自分の意志に基いて行動するからだ。だが、シベリア出兵の了解を大国アメリカに求めようとするが如き陋劣ろうれつなやりかたは泥棒猫以下ではないか。ロシア革命は起こるべくして起こっている。明治維新がそうであったように、そして、現在進行している中国の革命がそうであるように、よかれ悪しかれ一つの歴史的必然だ。これを外部から干渉してストップをかけようとするのは、『民族の自然権』を侵害するものだ。だから、日本国としては、『シベリア出兵』という如き邪心を起こすことなく、世界に率先してロシア政府を承認すべし。・・・・」と主張続けたのである。
そして、正剛は、シベリア出兵を動かしている参謀本部の中の中心人物田中義一を鋭く批判している。
「このときにあたり、外務省以外より、ひそかに寺内内閣の外交方針に容喙ようかいするものに参謀本部あり。参謀本部内において最も寺内伯の信用を博する者は、伯の同郷人たる次長田中義一中将なり。(略)田中義一中将の頭脳には軍事行政ありて、国民的外交なし、細工あれども経綸けいりんなし。(略)」
正剛は対露不干渉と撤兵を主張し、寺内、原両内閣の対露政策の失敗を責めたが、とくにに尼港事件の責任を取ろうとせぬ田中陸相の厚顔無恥をなじり、とくに3月31日のシベリア居坐り声明を「時代錯誤の最たる剣付鉄砲」と非難した。

(機密費問題)
大正7年から11年にかけてのシベリア出兵で、陸軍は2400万円の機密費を消費した。
この機密費がいかに膨大であるかは、日清戦争の陸軍機密費36万9千円、日露戦争の陸軍機密費320万円と比較すれば明白である。
この機密費のうち、寺内内閣時代に使ったのは、340万円、あとの2000万円余はほとんど原内閣のときであり、陸相は田中義一、次官は山梨半造(後半、田中に代わって陸相となる)であったから、この二人に疑惑がかかったのは当然である。
中野正剛は、大正15年3月4日、加藤高明首相が急逝し、内相の若槻礼次郎が後継内閣の首相となった直後の衆議院本会議で壇上に立ち、田中、山梨両人の背任横領を告発した元陸軍省大臣官房付陸軍二等主計・三瓶俊治や元陸軍第1師団長・石光真臣中将の手記を読み上げ、さらに田中義一陸相、山梨半造次官、松本直亮高級副官らの在職中の罪状を徹底的に暴いたのである。
当時の陸軍大臣は宇垣一成で、かねてから長州軍閥の悪しき遺産を一掃して陸軍を近代化し、すっきりしたものにしようと念願していたが、その肝心の彼が大道を踏み誤った。
正剛の演説の次の日、宇垣は首相、閣僚たちの前で「陸軍全体の面目、威信」を強調して威圧したのである。
この陸軍を代表する立場の宇垣の態度に、閣僚たちはひたすら恐縮し、若槻首相は陳謝して善処を約束した。
正剛が暴露した「機密費」問題について、政友会の秋田清が3月6日の予算総会で宇垣陸相に質問した。
宇垣は、陸軍の軍紀は決して緩んではおらず、「軍事機密費」は会計上不審の点がなく、正剛が査問を要求した事件は、「私にはどうも荒唐無稽のように思われます」と答弁した。
その後、国会は中野問題で荒れに荒れたが、結局、陸軍大将・政友会総裁田中義一を救うために、宇垣陸軍大臣は「陸軍の威信」で問題を糊塗し、政友会は「陸軍の威信」のかげに隠れ、軍部を批判する者は国体を破壊する共産主義者であるという大前提で、議会の権限を縮小・制限して、政党を人畜無害な存在にまで無力化して、軍部専制、軍閥横暴に至る転落の道を進むこととなる。
その後、中野正剛は「機密事件の顛末」という一文を草し天下に訴えたが、中野や尾崎行雄などの奮闘もむなしく、機密費事件は闇から闇に葬られた。

(参考:鳥巣建之助 著 『日本海軍失敗の研究』 文春文庫 1993年2月 第1刷)

(平成29年10月16日 追記)


【シベリア駐兵反対論】

シベリア出兵は大正9年5月の尼港事件という惨劇を起こし、北樺太を保障占領しただけだった。
当時、参謀本部支那班に勤務していた鈴木貞一(のち中将、企画院総裁)は、中野正剛のシベリア駐兵反対論を読んで共鳴したと言っている。
「欧州大戦の講和会議において強い発言権を持つには、十分な実力を背景とすべきで、こんなことで兵力を浪費するのは、ばからしい」というのが中野の趣旨であった。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

令和元年5月8日 追記)


【講和会議を目撃して】

大正8年(1919)1月、パリで開かれた平和会議に、中野は東方時論特派員の資格で参加した。
日本全権は西園寺公望、牧野伸顕ら、西園寺全権は妾と料理人を伴い、畳と味噌持参の物見遊山で出発したと陰口をたたかれたが、会議で、中野は日本全権団が中国全権の顧維釣こいきん、王正廷らアメリカで教育を受けたヤング・チャイナにやり込められている姿を目撃して、さっさと引き揚げてしまった。
時事新報特派員の伊藤正徳(『連合艦隊の最後』の著者)は、ホテルに訪ねてきた中野が「早く帰国して全権たちの無能を公表し、使節の更迭を説くのだ」と息巻くのを、まだ早過ぎると止めたが、決然としてパリを辞したという。
帰国後、中野は大阪毎日新聞主催の中央公会堂での講演会で、5千の聴衆にこの「国家の危急」を訴えて喝采を浴びた。
さらに東方時論社から『講和会議を目撃して』を出版、十数版を重ねるベストセラーとなった。

(参考:渡邊行男 著 『中野正剛 自決の謎』 葦書房 1996年初版)

(平成29年1月31日 追記)


【馬好き】

長男をアルプスで亡くし、最愛の妻を結核で亡くし、さらには次男を敗血症で亡くした中野の、唯一の慰めは乗馬であったという。
四男泰雄によると、乗馬は妻の病前から始め、毎朝2時間の遠乗りを日課にしていたという。
福岡にも馬をおいていて、車の代わりに使っていた「馬狂い」であった。
演説会への出発時間に馬が来ないと、「馬に乗れんごとあれば行かん」と駄々をこねたらしい。

(参考:渡邊行男 著 『中野正剛 自決の謎』 葦書房 1996年初版)

(平成29年1月31日 追記)


【東方会】

昭和12年4月、林銑十郎内閣は議会を懲らしめるために「喰い逃げ解散」を行い、その総選挙で敗北を喫した。
この選挙で東方会は20名の公認候補を立て、11名が当選した。
さらに繰り上げ当選1名で計12名となった。
総選挙後、東京赤坂溜池の東方会本部で全体会議を開き、宣言・綱領を決定、中野が会長になった。
綱領には「全体主義に則のっとり階級的特権と階級闘争とを排除すべし」と謳うたい、統制経済を主張した。
中野は会長としての挨拶の中で、「われらこそ国民主義革新陣営の中堅として自重すべき将来を約束される」と述べた。
「全体主義」を東方会の綱領として正式に決定したのである。

(参考:渡邊行男 著 『中野正剛 自決の謎』 葦書房 1996年初版)

(平成29年1月31日 追記)


【朝日新聞発禁事件】

中野正剛は早稲田大学を卒業後、朝日新聞社に入社。
健筆を振るい、若くして「朝日新聞に中野あり」と言われた。
しかし、そのほとばしる才気ゆえに、同僚記者たちとは必ずしもうまくいかなかった。
その後、中野は新聞社にとどまらず政界に打って出て、張作霖爆死事件の時には舌鋒鋭く田中義一内閣を攻め、ついに内閣総辞職に追い込んでいる。
竹馬の友でもあり、朝日新聞社のロンドン特派員をした緒方竹虎の影響もあってか、中野は一時は議会制民主主義を唱えたが、社会大衆党と東方会の合同に失敗すると、その責任をとって議員を辞職し、しだいに議会制民主主義を見限るようになった。
それに拍車をかけたのは、昭和16年(1941年)10月に誕生した東条英機内閣が推薦議員制を持ち出した時である。
推薦議員制とは、これによって一挙に議会を骨抜きにし、軍部独裁を強化する策謀である。
中野たちの執拗な反対にもかかわらず、この法案は議会を通過し、選挙となった。
全面的に推薦を拒否した東方会は48名の候補者を立てたが、当選者はわずか6名だった。
東条内閣は「言論出版集会結社等臨時取締法」に基いて政治結社を翼賛政治会一本とし、東方会解散を命じてきた。
中野は意を決し、東条軍閥政治がまかり通る限り日本の明日はないと、東条英機に宣戦布告した。
それが昭和17年12月21日の日比谷公会堂における時局批判大講演会である。
中野の反東条の動きは、東条英機にとって無視できないものとなった。
さらに中野は昭和18年元旦、朝日新聞に「戦時宰相論」という、東条に謹慎を求める論文を書いた。
東条はこの新聞を朝の食卓で見て激怒し、自ら情報局に朝日新聞の発売停止を命じた。

(参考:神渡良平著 『宰相の指導者 哲人安正篤』 講談社+α文庫 2002年第1刷)

(平成26年4月17日 追記)


【逮捕と自刃】

中野正剛の東条批判が熱を帯びるにつれ、政府の弾圧は激しくなった。
昭和18年(1943年)10月21日未明、ついに警視庁特高部は中野をはじめ東方会関係者を検挙した。
特高は中野が5・15事件の首謀者の一人、井上日召らと密かに会合していないか、また日本は負けるなどと造言蜚語を飛ばしていないかなど訊問した。
しかし、いくら訊問しても自白を引き出すことはできなかった。
東条英機は検事総長の松阪廣政まつざかひろまさや内務大臣の安藤紀三郎あんどうきさぶろう、法務大臣の岩村通世いわむらみちよなどを呼び、なんとか中野を起訴できないかとせっついた。
東条が焦ったのには理由があった。
翌日の25日には議会が召集され、26日に議会が開催されたら、衆議院議長の承諾なしには国会議員は拘束できない。
このまま証拠不十分で中野が釈放され、この問題を国会で追及されたら大変なことになる。
そのため、議会召集までになんとか中野を起訴に持ち込み、身柄を拘束しなければならないのである。
25日の正午、中野が自白したと特高発表し、26日、東京憲兵隊は中野を警視庁から連れ去った。
そして26日の夜に中野は家に帰されたが、その夜のうちに自刃した。
中野が自刃した部屋の机の上には『大西郷伝』が開かれたままになっていた。

(参考:神渡良平著 『宰相の指導者 哲人安正篤』 講談社+α文庫 2002年第1刷)

(平成26年4月17日 追記)


【釈放認めた検事に召集令状】

中野の検挙は、極秘裡に行なわれたのだが、すでに政界では、周知の事実となっていた。
しかも25日には、議会が召集されることになっていた。
当然政界では、議会が開かれようとしている時期、中野を行政検挙で留置しているのは、けしからんという動きが出てきた。
慌てた東条らは、中野がかつて東久邇宮と重臣の一人、近衛文麿に会った時、近衛が中野の東条批判の言葉をたしなめたことがあったのを利用し、「不敬罪」という名目で、裁判所から勾留状を発行させることにした。
ところが、東条に呼び出されて官邸で会った松阪広政検事総長は、その請求を拒否した。
中野らの検挙は、彼の正式な認可を受けたものではなく、部下の検事らが合同会議で決めたものであり、中野に対しては、新事実が出ない限り、単なる「不敬罪」の容疑だけでは証拠不十分でもあり、起訴するには当らない、というのが、その理由であった。

やむなく東条は、中野の身柄を釈放しようとした。
その時、私の方で落としてみましょうと、乗り出して来たのが、腹心の四方諒ニ憲兵隊長であった。
議会召集日の当日、10月25日午前4時頃、直ちに中野の身柄を、警視庁から憲兵隊へ移した。
すると、この日の正午頃、憲兵隊から松阪検事総長のもとへ、中野正剛が「ガダルカナルの戦いは、陸海軍間に不一致があったため負けたのだ」と自白したので、勾留請求してくれという電話が入った。
地検の検事らは、その程度のことで代議士は勾留できないと反対したが、松阪検事総長は、新事実が出たならば一考すると東条に断言していた手前、起訴前の勾留請求を、総長命令で下さざるを得なかった。
そこでこの夜、当時東京刑事地方裁判所予審判事で、宿直であった小林健治のところへ、思想部長であった中村登音夫検事名で勾留請求が出された。

しかし、勾留請求を受けた小林予審判事は、帝国議会議員には大日本帝国憲法第5条『両議院議員ハ現行犯罪又ハ内乱外患ニ関スル罪ヲ除ク外、会期中其ノ院ノ許諾ナクシテ逮捕セラルコトナシ』により、会期中不逮捕特権があるばかりか、伊藤博文著『憲法義解ぎげ』に、召集日も会期中に入ると明記してあったことから、この日が会議召集日に当たるという見解で、中野の勾留請求を却下した。
中村検事も、このことを可とした。

だが東条は、直ちに報復措置をとった。
国民兵に編入されていた43歳にもなる思想部長中村登音夫検事へ召集令状を発したのである。

(参考:津野田忠重 著 『秘録・東条英機暗殺計画』 1991年8月初版発行 河出文庫)

(平成27年8月16日・追記)


【自決】

中野正剛は、釈放の決定がなされても、直ぐ代々木の自宅へは帰れなかった。
中野が登院し、検束にいたる東条の圧力と謀略の真相を暴露したら、どうなるか。
議会の反発を恐れた東条の意を汲んだ四方憲兵隊長が、中野を登院させないため口実を設けて、“釈放”しなかったからである。

中野が自決したのは、釈放された翌日の27日、東条内閣の定例会合日であった。
その理由は明らかではない。
遺書は簡潔であった。
「決意一瞬、言々無滞、欲得三日閑、陳述無茶、人に迷惑なし」と記した上、「断、十二時」の四字が残されているだけであった。
東条との戦いに敗れたと感じた絶望の余りの自決ということは、平常の中野の信念、闘争心などから推しても、到底信ずることはできない。
中野が最も敬愛したのは、西郷隆盛である。
その隆盛は、「自分の一生涯に信ずることが行なわれない時は、後世に喧伝けんでんされる目的をもって、地上に血を流して印刻して置くことが、確実に意志を残すことになる」という主旨の言葉を残している。

中野の自決は、左足が義足で座れなかったので、肘掛ひじかけ椅子に腰掛けた割腹であった。
用いた刀は、軍刀造りの美濃国関兼定、刃渡り2尺2寸の名刀であった。
左手の血形が、肘掛の上にくっきりと残っていたそうである。

(参考:津野田忠重 著 『秘録・東条英機暗殺計画』 1991年8月初版発行 河出文庫)

(平成27年8月16日・追記)


【石原莞爾とは犬猿の仲】

中野正剛は、同じ反東条のスローガンを掲げながら、なぜか石原莞爾とは、犬猿ともいうべき仲になっていた。
石原とは同県人で、「東方同志会」のメンバーであった木村武雄は、かねてから石原の東亜連盟の理念に共鳴していて、日支事変解決は、この理念しかないと教えられていた。
それを某日、中野正剛へ受け売りした。
すると中野も大いに共鳴し、石原の許へ使者を派遣して、運動に協力したい意向を伝えさせた。
ところが石原は、中野自身が来ぬことを罵倒し、中野こそ日本を誤らせる元凶とまで極論した。
これを聞いた中野は大いに憤慨。
以後は、東亜連盟運動の“東”の字も口にしなかったそうである。

(参考:津野田忠重 著 『秘録・東条英機暗殺計画』 1991年8月初版発行 河出文庫)

(平成27年8月16日・追記)




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