(大分県中津市二ノ丁本丸)
平成23年2月10日
中津城
中津城は山国川を天然の水堀とした堅城でデルタの上に三角形の城地を構えているところから扇城、扇要城などの称もある。
現在の中津城は天正15年の秀吉の島津征伐に従軍した黒田官兵衛孝高が戦功によりこの地を与えられ、翌天正16年に着工したものである。
そのころ、領内には黒田氏に服属しない豪族が多く、さまざまな妨害をするので工事はなかなか捗らなかった。
そのため孝高、長政父子は犬丸城や日隈城など豪族の拠る諸城を攻め落とし、領内の平定に乗り出した。
孝高は、攻め落とした犬丸城を解体して用材を工事中の中津城へ運び、それで櫓を築いたといわれる。
豪族のうち、黒田氏に最も激しく抵抗したのは城井谷きいだに城に拠る宇都宮鎮房であった。
宇都宮氏は鎌倉以来中津を本拠とする名族で、鎮房は豪勇で鳴る猛将であった。
天正16年10月、孝高は城井谷城に初めて鎮房を攻めたが大損害をこうむって退き、12月に再度猛攻を加えたが、このときも黒田の臣・後藤又兵衛が瀕死の重傷を負わされるという反撃を受けてついに武力攻略は成らなかった。
そこで孝高は一計を案じてまず鎮房と和議を結び、そのあとで鎮房を謀殺してしまった。
貝原益軒の「黒田家譜」によると、天正16年2月に肥後陣へ上使として出向いていた黒田孝高の留守中、長政の守っている中津城へ挨拶と称して鎮房が200の兵を率いて突然やって来た。
長政の手兵は100名に満たなかったので鎮房の陰謀を恐れて大いにあわて、先手を打って鎮房を殺すことにした。
まず鎮房に酒をすすめ、適当に酔ったところで長政が「肴をもて」と声をかけるのを合図に黒田家の豪の者、野村太郎兵衛が躍り出て一刀のもとに鎮房を仆したという。
宇都宮氏を滅した孝高は築城に専念し、大塚、白見の海岸までも構想に取り入れる壮大な工事に着手した。
しかし、慶長5年の関ヶ原の役のあと、孝高は筑前に転封となったので、工事は中断された。
この未完成の中津城へ細川忠興、忠利父子が宮津城から移封された。
忠利は同11年に小倉に新しく城を築いて移り、同時に中津城も改築を加えて忠興の本拠とした。
寛永9年忠興は肥後の八代城へ移り、そのあとには播州竜野城から小笠原長次が入城、以後4代小笠原氏が居城したが、享保元年小笠原長邑が9歳で亡くなるとともに断絶した。
城は享保2年に豊後竹田の岡城主、中川久忠に預けられ、久忠の家臣、中川求馬が城番として在城した。
同年10月、丹後の宮津から奥平昌成が10万石を以て転封されて入城、以後代々伝えて明治に至った。
明治の初め、藩主昌服は藩士・福沢諭吉の進言でいちはやく城郭を破壊したので、城址には石垣と堀が残るのみであったが、昭和39年に五層の天守閣が建てられた。
(参考: 大類伸 監修 『日本城郭辞典』 昭和58年 8版発行 秋田書店)
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増築された石垣 (平成23年2月10日) |
【増築された石垣】
現地点の道路は明治期に石垣を壊して通されたものです。
本来ここには道はなく、道路の左右にある石垣と堀は続いていました。
中津城の石垣は、築城当初は今より低く、幅が狭いものでした。
堀側だけでなく、城内側にも石垣があったことがわかっています。
こちらの断面には、城内側の古い石垣が顔をのぞかせています。
下の写真で@と表示してある石垣が築城当初(16世紀末頃)のものです。
高さは根石から約5.85m、天頂の幅は約2.4m。
石垣には排水溝が造られており、城内の雨水は石垣の溝を通って堀へ流されていました。
排水溝の床面には丁寧に瓦が敷かれていました。
その後17世紀には現在と同じ約7mの高さにまで積み上げられ、さらにA→B→Cと徐々に拡幅されていきました。
石垣の増築が城内方向だったため、堀に面した石垣は昔のままの姿を私達に見せてくれています。
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中津市教育委員会
(説明板より)
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石垣 右(1枚):黒田時代のもの 左(2枚):細川時代のもの |
【櫓と堀】
正面に見える石垣の角の石(出角ですみ)に注目してください。
向って右側が黒田時代、左側が細川時代のものです。
黒田時代の出角は、自然石の形を利用して角をつくっていますが、細川時代の出角は加工した石を使用しています。
最も古い石垣には水平に細長い石を使用していますが、左側は小さく丸い石が多く使われています。
また黒田時代の石垣が低く途切れた場所から礎石が出土し、櫓やぐら跡が確認されました。
しかし、細川時代には櫓を埋め、石垣は高く幅広く造りかえられました。
石垣の下には松ノ木(胴木どうぎ)を敷き石垣が重みで沈まないように工夫されていました。
堀の底は外側へ向かって傾斜しており、より攻められにくいつくりになっていました。
堀からは金箔を貼った瓦や桐の模様の瓦などが出土しており、石垣上に櫓等の立派な建物が建ち並んでいた様子がうかがえます。
中津市教育委員会
(説明板より)
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石垣 (平成23年2月11日) |
【石垣の特徴】
中津城は1587年に入国した黒田孝高が1588年から築城に着手した城で、九州最古の近世城郭の一つです。
同じ年に建築された他の城はその後破却されたため、九州で唯一当時の石垣が地表面に見えるのが中津城なのです。
石は全て未加工の自然石を使用しています。
小さな石を乱雑に積んでいるように見えますが、自然石の特徴を活かした積み方で、石の奥行きは長く、縦目地横目地が通りません。
これは石垣建築では最も高度な安土桃山時代の技法です。
当時穴太衆あのうしゅうと呼ばれる石垣造りを得意とする集団が用いた技法で、「穴太あのう積み」と呼ばれています。
中津城の石垣造りにもその技法を持った石工が関わったと考えられています。
石垣は反りがなく直線的ですが、両端より中央の方がより傾斜し、さらに真上からみるとゆるやかな弧を描きます。
これを「輪取り」といいます。
力を内側に集中させ、地震等があっても前に崩れにくい工夫がされています。
現在では、この技法はすたれてしまいました。
中津市では、昔の技法を復元することをめざし、石垣の文化財としての価値を損なわないよう、解体から復元まで慎重に工事を進めてきました。
解体修復工事は石垣が痛んでいる部分のみ行っています。
中津市教育委員会
(説明板より)
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中世の館と寺院跡 (平成23年2月10日) |
【中世の館と寺院跡】
中津城が築城される以前、この場所には、二重の溝に囲まれた中世(15〜16世紀)の館跡がありました。
高石垣を積む近世の城とは違い、溝の壁には石が貼り付けられており、溝の間には土塁があったと考えられています。
中津城築城当初の地層からは、最大径1.6m、厚さ70cmの大型な礎石や、?せんというタイル状の瓦が多量に出土しました。
また、表面に仏を意味する梵字や、日付などを墨で書いた大きな石が出土しました。
中央には丸い穴が掘られており、仏舎利などが収められ、地鎮に使われていたと考えられています。
これらの遺跡から、この地には黒田氏の時代に寺院があったことがわかりました。
1600年に入国した細川氏は寺院を二の丸に建築し、本丸内に寺院は姿を消したのです。
近世の城では本丸内に寺院を建築することはなく、黒田氏の時代はまだ近世の城郭のスタイルが確立されていない時代であったといえます。
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中津市教育委員会
(説明板より)
本丸跡
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松の御殿跡 (本丸) (平成23年2月10日) |
【松の御殿】
江戸時代の参勤交代や江戸藩邸定住などの諸緩和令により、中津藩の江戸藩邸より帰郷する諸姫君を住まわせるため、文久3年(1863年)8月に、本丸下ノ段西側のこの地に新殿を建築した。
名称は「松の御殿」
以来8年間、ここで生活した姫君達は、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で、同年9月片端町かたはまちの立木深邸に引き移った。
その後「松の御殿」は小倉県に、続いて大分県の中津支庁舎として使用される。
明治10年(1877年)3月、西南の役に参戦する「中津隊」(隊長 増田宋太郎ますだそうたろう)の襲撃にあい灰燼かいじんに帰し、その跡地に中津神社が明治16年(1883年)3月に建立された。
中津市
中津の郷土史を語る会
(説明板より)
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中津神社 (本丸・松の御殿跡) (平成23年2月10日) |
【中津神社】
明治16年(1883年)3月31日六所神社を主とし義氏神社・稲荷神社・蛭子神社及び大江八幡宮の御分霊を合祀す
当時大江八幡宮に属せる祇園踊車八車はともに中津神社に寄進された
(説明板より)
天守閣・二重櫓(いずれも模擬)
【蘭学の里・中津と中津城】
中津藩は前野良沢から福澤諭吉に至るまで、多くの蘭学者を輩出し、日本の洋学の近代化の為に多大な貢献をした藩である。
中津藩主3代目・奥平昌鹿まさか(1744〜1780)は、母の骨折を長崎の蘭方医吉雄耕牛よしおこうぎゅうが見事に治療したことから、蘭学に興味を抱いた。
明和7年(1770)、藩医の前野良沢を中津に連れて帰り、長崎に留学させた。
良沢は、藩主の期待に応え、オランダ語で書かれた解剖書『ターヘル・アナトミア』を杉田玄白等と翻訳し、蘭学の開祖となった。
その成果は安永3年(1774)、杉田玄白、中川淳庵じゅんあん等により『解体新書』として出版され、近代医学の発展に大きく貢献した。
中津藩主5代目・奥平昌高まさたか(1781〜1855)は、薩摩藩・島津家からの養子であり、実父島津重豪しげひで(1745〜1833)とともにシーボルトとの親交を深め、自らもオランダ語を学んだ。
文化7年(1810)に、日本で最初の和蘭辞書『蘭語訳撰らんごやくせん』を、文政5年(1822)には、日本で3番目の蘭和辞書『中津バスタード辞書』を出版し、蘭学の普及に努めた。
これらの辞書に関与した蘭学者は前者は神谷弘孝かみやひろよし、後者は大江春塘おおえしゅんとう(1787〜1844)である。
2冊の辞書は併せて「中津辞書」とも称され、日本各地で活用されたのみならず、出島やオランダのライデン大学で日本語を学ぼうとするオランダ人にも、大いに利用された。
文政2年(1819)、昌高は、藩医村上玄水(1781〜1843)による九州で史料が残る最初の人体解剖を許可した。
玄水は、解剖の詳細な記録を『解臓記かいぞうき』として残し、生家は、3000点の医学史料を蔵する「村上医家資料館」として、中津市諸町に保存公開されている。
嘉永2年(1849)、辛島正庵からしましょうあんを筆頭とする中津の医師10名は、長崎に赴き、バタビア(現ジャカルタ)由来の痘苗とうびょうを入手し、中津に持ち帰って種痘を実施し成功した。
この年は種痘元年ともいわれ、日本で最も早い時期の成功であった。
なお、辛島家では、種痘を含めた400点を越す医学史料が発見されている。
種痘の成功により、多くの子供の命が救済された。
この事に感動した住民からのボランティア基金により、文久元年(1861)、勢溜せいたまるに「医学館」が設立され、種痘所としても大いに活用された。
明治に入り「医学館」は、奥平家が、年に米二百二十五俵を提供して、西洋医学教育の必要性から「中津医学校」へと発展的に改称された。
明治4年(1871)、中津医学校校長に就任した大江雲澤おおえうんたく(1822〜1899)は、“医は仁ならざるの術、務めて仁をなさんと欲す”という医訓を示し、外科医としてのみならず、教育者としても優れた業績を残した。
市内鷹匠たかじょう町にある大江家からは、世界で初めて全身麻酔による手術に成功した華岡青洲はなおかせいしゅうの肖像画や多数の華岡流外科手術図が発見された。
その他に『解体新書』や『重訂ちょうてい解体新書』なども発見されている。
当時の中津藩から華岡塾の大坂分塾に5名の医師が派遣され、学んでいたことが明らかになった。
前野良沢を生んだ蘭学研究の流れが、幕末に至ってもなお続いていたことが伺える。
中津出身の外科医として、陸軍・軍医学校校長を務めた田代基徳たしろもとのり(1839〜1898)がいる。
松本良順りょうじゅん(1832〜1907)等と医学会の前身である「医学会社」を起こしたり、『外科手術』や『医事新聞』を発行するなど幅広い活動を行なった。
基徳は、大坂にある緒方洪庵の適塾に学んだ。
そこでは中津から福澤諭吉をはじめ11人が学び、幕末の中津藩蘭学に大きな影響を及ぼした。
基徳の養子田代義徳よしのり(1864〜1938)は、初代東大教授に就任し、整形外科の開祖にふさわしい活躍をした。
さらに、日本の歯科学の開祖小幡英之助おばたえいのすけ(1842〜1909)や、近代医学史上に残る心臓の刺激伝導系の発見者田原淳たわらすなお(1883〜1952)など、中津には次々と医歯学のパイオニアが出現した。
洋学史上に残る中津人の活躍した背景には、藩を挙げて蘭学に取り組み、学ばせた藩主のリーダーシップがあったと考えられる。
時代に対して先見の明があり、人材育成を怠らなかった中津藩の仕上げは、福澤諭吉によって行なわれた。
諭吉は自ら蘭学を学んだことで、前野良沢達が翻訳を成し遂げた苦労を顕彰する為、杉田玄白が晩年著した『蘭学事始らんがくことはじめ』を、明治2年(1869)に復刻させた。
その序文の中で諭吉は―良沢達パイオニアの苦労は涙無しには語れない―と述べている。
中津城には中津の「蘭学の光芒」を示す史料が数多く展示されている。
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平成16年3月13日 除幕
※ 中津ロータリークラブ
※ 中津中央ロータリークラブ
※ 中津平成ロータリークラブ
(説明板より)
【奥平家(10万石)】
村上天皇を祖とする奥平家は、群馬県甘楽郡かんらぐんを発祥とする関東武士であった。
三河の国に移り奥平家第26代定能さだよし公を以て初代とする。
嫡男ちゃくなん信昌のぶまさ公は三河の国長篠ながしの城主で天正3年(1575年)天下統一をめざす武田勝頼軍1万5千騎と28日間にわたり激戦・籠城をし、落城寸前で織田・徳川連合援軍の鉄砲隊の活躍を得て大勝利を収めた。
この軍功(長篠の合戦)により信昌公は家康公の長女亀姫を娶めとり、徳川幕府三百年の親藩となる。
亀姫は4人の男子をもうけ長男家昌公は奥平宗家を継ぎ、二男から四男は家康公の養子となり、松平姓を名乗った。
四男松平忠明ただあきは初代大阪城主や姫路城主も務めた。
奥平家は長篠の合戦後、愛知県新城しんしろ城・岐阜県加納かのう城・栃木県宇都宮城・京都府宮津城を経て享保2年(1717年)奥平家第7代昌成まさしげ公が当地中津に入城する。
以後9代にわたって藩政の改革や蘭学の奨励など数多くの功績を残し第15代の昌邁まさゆき公まで155年間中津で活躍し明治維新をむかえた。
藩祖を祀る奥平神社では長篠の合戦当時を偲び毎年5月21日に「たにしまつり」を盛大に執り行っている。
(説明板より)
天守閣
【天守閣】
天守台石垣は黒田孝高の築城で「野面積」慶長15年細川忠興が増築の石積みは「打込みはぎ積」東西42米、南北40米、高さ8米。
天守閣は昭和39年、東京工業大学・藤岡通夫博士設計、地下1階5層5階高さ23米、鯱1.4米、床面積延795平方米。
奥平宗家第17代当主・奥平昌信らが中心となり新たに造営し管理、運営している。
(リーフレットより)
天守閣の内部 | |
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【展示宝物】
藩祖を祀る奥平神社所蔵の歴代藩主着用鎧、天下ご免白鳥の槍、陣営具、衣装、長篠合戦図、鳥居強ェ門磔図、徳川家康親筆軍法事、吉宗花押領地目録等、由緒ある著名な宝物をはじめ奥平家刀剣録、藩臣録、士族分限帖、馬術、柔術、剣術、槍術、各師範奥伝の書、絵画、古文書(家康親書)、鷹狩り道具などを展示しています。
(リーフレットより)
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天守閣の最上階から見た景色 |
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二重櫓(大鞁櫓だいひやぐら) 「城主の馬具等を格納するところ」 (平成23年2月10日) |
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奥平神社 (本丸) 修復工事 工期 (着工)平成22年11月25日 (竣工)平成23年 5月20日 施工 T&M修復工事共同企業体 (平成23年2月10日) |
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城井きい神社 (本丸) (平成23年2月10日) |
【城井きい神社】
御祭神 宇都宮鎮房しげふさ
城井谷きいだに城主宇都宮家は信房より鎮房に至る16代およそ四百年の間豊前国守ぶぜんのくにのかみとして徳政とくせいを布しいた。
天正15年(1587年)5月豊臣秀吉は九州平定にあたり豊前六郡ろくぐんを黒田孝高よしたかに、二郡を毛利勝信に与え、鎮房には四国今治(12万石)移封いふうの御証判ごしょうばんを与えた。
鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、このご朱印状を返上したため、宇都宮一族は黒田孝高、長政ながまさと豊前の地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯みね合戦)では長政を敗退させた。
そこで秀吉は孝高と謀り所領安堵を条件として長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚こんを約し和睦した。
天正16年(1588年)4月20日鎮房は中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された。
天正19年長政は深く感ずる処があって城内守護紀府きふ(城井きい)大明神として鎮房を祀り、福岡移封後はその地に警固けご大明神として祀った。
宝永2年(1705年)小笠原長円ながのぶは小社こやしろを建て城井大権現として崇あがめ、その後幾度かの変遷の後城井神社として改められた。
中津市
中津の郷土史を語る会
(説明板より)
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扇城せんじょう神社 (本丸) (平成23年2月10日) |
【扇城せんじょう神社】
宇都宮鎮房うつのみやしげふさ公従臣45柱
天正16年(1588年)宇都宮鎮房公従臣は、庶子空誉上人(鎮房公と静の方の間に生まれた)の合元寺ごうがんじに止め置かれ、鎮房公は小姓松田小吉を伴い中津城内の館で謀殺された。
異変を知った家臣群は次々に城中に駆け入り、龍が荒れるように戦った。
小姓松田小吉は19人に手傷を負わせ京町きょうまち筋で討死、野田新助・吉岡八太夫は手傷を負い広津ひろつ広運寺こううんじまで切り抜け追腹、その他2士は合元寺門前に遁れ戦い遂に庫裏にて討死、その他はことごとく討死した。
家老渡辺右京進は7・8人を薙ぎ伏せたという。
松田小吉は小吉稲荷として京町に、野田新助・吉岡八太夫は広運寺にそれぞれ埋葬され、その他の従臣の遺体は寄せられ城内乾の上段、この地に埋葬された。
宝永2年(1705年)小笠原長円おがさわらながのぶ公は広運寺追腹2士を小吉稲荷大明神とともに祀った。
その後変遷。
城井きい神社再興後、大正9年(1920年)4月20日、鎮房公従臣45柱を境内末社として祀ったのである。
中津市
中津の郷土史を語る会
(説明板より)
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中津大神宮 (本丸) (平成23年2月10日) |
【中津大神宮由緒記】
御祭神 天照皇大神あまてらすすめおおかみ・豊受大神とようけおおかみほか2柱
明治14年9月伊勢ノ神宮御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として御鎮座。
明治32年神宮教解散、神宮奉斎会設立により、神宮奉斎会中津支部と改称、神宮大麻と神宮暦頒布業務を担当、豊前の国(企救きく・田川たがわ・京都みやこ・仲津なかつ・築城ついき・上毛こうげ・下毛しもげ・宇佐うさ)総しづめの社として、また、豊前の国の「お伊勢様」としてあまねく人々の崇拝をあつめ、その後、幾多の変遷を経て昭和21年4月中津大神宮として今日に至る。
また、奉拝殿の格天井には創建当時の崇敬者の手による天井絵216枚が奉納されている。
中津市
中津の郷土史を語る会
(説明板より)
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中津城 水門跡 |
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鉄御門跡 (本丸) (平成23年2月10日) |
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中津市指定文化財 史跡 中津城 椎木門跡 (本丸) 指定 昭和56年4月25日 (平成23年2月10日) |
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中津市指定文化財 歴史資料 独立自尊の碑 (本丸) 福沢諭吉が唱えた言葉 日下部鳴鶴(東作)の書 (平成23年2月10日) |
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三斎池 (本丸) (平成23年2月10日) |
【三斎池さんさいいけ】
慶長5年(1600)関ヶ原の戦などの功によって黒田長政は筑前52万石となり、如水じょすいとともに中津を去った。
黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後の国東くにさき・速見はやみの二郡の領主として入部した。
忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元おきもとを小倉城においた。
慶長7年忠興は、居城を小倉城に変更した。
元和6年(1620)家督を忠利に譲り、忠興は三斎と号し隠居した。
翌7年三斎は中津城に移り、中津城や城下町の整備を、黒田氏の後を引き継いで行った。
この時、城内の用水不足を補うため、城内への水道工事を行った。
工事は、山国川の大井出堰おおいでぜき(三口みくち)から水道を城内まで導く大工事であった。
その水をたたえたのがこの池であり、鑑賞や防火用水としても使用された。
忠興の号“三斎”の名を冠して「三斎池」という。
現在は、中津上水道を引いている。
中津市教育委員会
中津の郷土史を語る会
(説明板より)
時代 | 城主 | 西暦 | 中津城下の出来事 | |
安 土 ・ 桃 山 時 代 |
黒 田 時 代 |
天正15年 孝高よしたか (如水) |
1587 | 黒田孝高が豊前六郡(12万3千石)の領主となる。 |
豊前城井の宇都宮氏挙兵、黒田長政が諸城を攻撃。 | ||||
1588 | 中津城の造営を始める。 | |||
黒田軍、中津周辺の反黒田勢の諸城を攻略。 | ||||
天正17年 長政ながまさ |
1589 | 宇都宮鎮房が中津城に招かれて酒宴中殺される。 | ||
孝高隠居して如水と号す。長政(甲斐守)が封を継ぐ。 | ||||
1600 | 11月黒田氏、筑前52万石に封じられ福岡へ移る。 | |||
細 川 時 代 |
慶長5年 忠興ただおき |
1600 | 12月細川忠興が豊前六郡と豊後二郡32万石の領主として中津城に入る。 | |
慶長7年 忠利ただとし |
1602 | 忠興が小倉城・忠利は中津城を居城とする。 | ||
江 戸 時 代 |
1609 | 忠利と愛姫(徳川家光の養女)の婚礼が中津城で行われる。 | ||
1620 | 中津城の修築を完成。城下の町割、金谷に堤防、お水道等を完工した。 | |||
元和7年 三斎さんさい (忠興) |
1621 | 忠興は家督を忠利に譲り三斎と号し、中津隠居城(6万石)に移る。 | ||
1632 | 10月細川氏、肥後54万石に封じられ熊本に移る。 | |||
小 笠 原 時 代 |
寛永9年 長次ながつぐ |
1632 | 12月小笠原長次が中津8万石の藩主として中津城に入る。 | |
1652 | 城下町中津の姿、次第に整う。 | |||
寛文6年 長勝ながかつ |
1666 | 長勝が封を継ぐ。 | ||
1669 | 高瀬川(山国川)の大洪水で小祝と広津間が小川となる。 | |||
天和3年 長胤ながたね |
1683 | 長胤が封を継ぐ。 | ||
1686 | 下毛郡樋田を起点とした三里半(13km余り)に及ぶ荒瀬井堰を着工し8年余りで完成させる。 | |||
1688 | 中津城の本丸、矢倉、石垣などの修築を行う。 | |||
元禄11年 長円ながのぶ |
1698 | 長円(長胤の弟)4万石に封じられ中津城に入る。 | ||
1702 | 長円は病に悩み鎮魂のため宇都宮鎮房を城内の城井神社に、従臣らをお城稲荷(扇城神社)として祀る。 | |||
正徳3年 長?ながさと |
1713 | 長?が封を継ぐ。 | ||
1716 | 長?没す(7才)後嗣なく幕府へ領地(4万石)返還。 | |||
長興(5才 長?の弟)1万石で播州安志へ。 | ||||
奥 平 時 代 |
享保2年 昌成まさしげ |
1717 | 奥平昌成が10万石の藩主として中津城に入る。 | |
中津城下の14町を6組に分けて「町年寄」を置く。 | ||||
1719 | 城下総町の戸数調べを行う。 | |||
延享3年 昌敦まさあつ |
1747 | 昌敦が封を継ぐ。 | ||
1750 | 中津藩「倹約令」を出す。 | |||
1752 | 中津河口に「運上場」を設け、輸出入品に課税。 | |||
宝暦8年 昌鹿まさか |
1758 | 昌鹿が封を継ぐ。 | ||
1771 | 中津藩医前野良沢、杉田玄白とともに中津藩江戸屋敷に於いて「解体新書」の翻訳にとりかかる。 | |||
安永9年 昌男まさお |
1780 | 昌男が封を継ぐ。 | ||
1783 | 中津城下各町内に竜吐水(消火ポンプ)を備えつける。 | |||
天明6年 昌高まさたか |
1786 | 昌高が封を継ぐ。 | ||
1790 | 進脩館(藩校)を片端町に開設。 | |||
1808 | 藩主、参勤の御座船「朝陽丸」を造る。 | |||
1810 | 蘭語訳撰(日蘭辞書)を刊行。12年後にバスタード辞書(蘭日辞書)を刊行。 | |||
文政8年 昌暢まさのぶ |
1825 | 昌暢が封を継ぐ。 | ||
1829 | 角木町の北に新しく土地(角木新開)を開拓する。 | |||
天保4年 昌猷まさみち |
1833 | 昌猷が封を継ぐ。 | ||
1834 | 福沢諭吉、大坂堂島の中津藩蔵屋敷で生まれる。 | |||
1841 | 「家禄半知」を実行。 | |||
1842 | 昌猷中津で没す。(墓所、自性寺) | |||
天保13年 昌服まさもと |
1842 | 昌服が封を継ぐ。 | ||
1857 | 中津城下の人口調査(士卒を除く)戸数(1,143戸)、人口(4,156人) | |||
道生館(国学塾)を桜町に開設。 | ||||
1861 | 医学館を勢溜に開設。 | |||
1863 | 城内に松の御殿を新築。 | |||
1867 | 小倉領の小祝、高浜が中津領となる。 | |||
慶應4年 昌邁まさゆき |
1868 | 昌邁が跡を継ぐ。 |
(説明板より・一部省略)
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高輪地蔵 (本丸) (平成23年2月10日) |
【高輪地蔵の由来】
徳川家4代将軍家綱の頃(明暦2年 1656)奥平家は東京高輪南町に下屋敷を賜った。
その頃も現在と変わらず隣との地境争いは頻繁であり、奥平家下屋敷も隣藩との境界争いとなっていた。
しかし裁き所で証人として出た隣藩の名も知れぬ家臣は正直に「ここまでは我が藩の屋敷だが、そこからは奥平藩の土地である。」と堂々と証言したと伝えられている。
これに腹を立てた上司達は即刻彼を死罪にし、奥平の屋敷内に亡骸を投げ入れたという。
中津藩主4代忠昌公はこれにとても心を痛め懇ろに供養しこの家臣を地蔵菩薩として地蔵堂に納め終生お参りをした。
大地の神、地蔵菩薩は屋敷神として古より尊ばれ受け継がれこのたび新たな使命に燃えてここ中津城本丸に移る。
(〜以下略〜)
平成9年4月
日本石佛協会
会長 大護八郎
(説明板より)
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西南之役 中津隊 百年祭記念碑 影山正浩書 (本丸) (平成23年2月10日) |
【歌碑説明】
壮士悲秋歌並反歌
増田宋太郎
武士もののふと名に負ふ吾も 正心夫ますらをと於おもへる吾も
匏形ひさかたの空に向かひて 野干玉ぬばたまの月を悲しみ
白露の身にしむ夜半に 秋風の彳たたずみ居つつ
荒妙の袖しぼるべき時は来にけり
反歌
照る月のゆゝしみ劔太刀とりてぞしぬぶ
秋の夜な夜や
明治十年八月二十二日
日向国三田井ニテ
楳谷安良うめたにやすら
幾年か於おも比こめにし眞心を
都つくしの国に今盡す南利なり
裏面の碑文に曰いわく
今年3月31日、中津隊決起百年祭を仕へまつりその献詠の中に
雄々しくも健たけき思ひや
やさしくもまた香細かぐはしき
大丈夫ますらをの君が詠み歌
眼交まなかひにつね顕たち給ふ
大丈夫ますらをの君が御面輪
と、追慕景仰の思を籠め参りしが、茲に秋季百年大祭を仕へまつるに当り隊長増田宋太郎、副隊長楳谷安良両先生の国風くにぶりを夫々自筆のまま拡大して石に刻く
挙げてわが中津隊一統の真精神を永く後昆に傳へんと志し之を建つ
昭和52年9月吉日
西南之役中津隊百年記念顕彰会
(説明板より)
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西南役中津隊之碑 従三位勲三等伯爵奥平昌恭書 (本丸) 中津隊隊長増田宋太郎 同志58名 (平成23年2月10日) |
【碑文】
中津隊隊長増田宋太郎君吾郷傑士也君資性篤厚沈勇文武兼
秀夙慨皇室式微國威不揚■欲以身殉君■恢宏世運與郷之志
士楳谷安良櫻井貫一郎後藤純平等相来往常談時事偶明治十
年西南之役起也蹶然糾合同志八十餘名皆慷慨悲歌之士相謀
編隊君任之首帥以投薩軍薩軍迎之使當攻守之要衝奮戦于弾
丸雨注濶乱・乎中津隊名■於全軍然大勢己決退入城山守節
終焉嗚呼壮哉仝追慕遺風之士胥議乃建碑于扇城景勝之地以
慰一隊英霊亦以傳烈士高義於後昆云爾 銘曰
扇城志士 忠勇絶倫 修文振武 鼓舞士民
舎生取義 殺身成仁 郷俗欽仰 光榮于春
大正十四年三月■澣 従三位勲二等水島銕也撰并書
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【黒田本丸の石垣と細川時代の石垣】
右側の石垣は、「折おりあらば天下人てんかびとに」という野望を秘めた黒田孝高よしたか(如水じょすい)時代の本丸跡の石垣である。
左側の石垣は、細川忠興(三斎さんさい)時代のもので、忠興自慢の石垣である。
両時代の石垣とも花崗岩かこうがんが多く使われている。
中津城が歴史に登場するのは、天正15年(1587)孝高が豊臣秀吉に豊前ぶぜんの六郡を与えられ、山国川やまくにがわの河口デルタである中津の地を選び、翌年築城を始めたことによる。
軍事的にも西に山国川、南と東に大家川おおえがわ(のち忠興の築いた金谷堤かなやづつみによってふさがれた)、北に周防灘すおうなだを控えた要害の地であった。
同時に瀬戸内海に面し、畿内きないへの重要な港でもあった。
孝高は、闇無浜くらなしはまから自見じみ・大塚一帯を含む大規模な築城に取りかかったが、度重なる戦いくさのため、なかなか工事もはかどらないまま、慶長5年(1600)関ヶ原の戦などの功によって筑前ちくぜん52万石への加増かぞう転封てんぽうし中津を去った。
黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後国ぶんごのくにの国東くにさき・速見はやみ二郡の領主として入部にゅうぶした。
忠興は最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城においた。
慶長7年忠興は、居城を小倉城に変更し大規模な小倉城築城を始めた。
元和元年(1615)一国一城令が出され、忠興は慶長年間より行っていた中津城の普請ふしんをいったん中止した。
小倉城以外に、中津城も残されるよう老中に働きかけた結果、翌2年中津城の残置ざんちが決まった。
元和6年(1620)家督を細川忠利に譲った忠興は、翌7年中津城に移り、中津城や城下町の整備を本格的に行った。
元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格のため、同年本丸と二之丸の間の堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。
中津市教育委員会
中津の郷土史を語る会
(説明板より)
(鉄御門跡)
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西門跡 |
【西門】
中津城の西南隅に位置する西門は、大手門と同じ「矢倉門やぐらもん」型と思われる。
豊前ぶぜん街道の発着所「小倉口」に一番近い西門は、堀の巾を広くとり、その奥に三方を大石で囲った「桝形ますがた」をもつ「搦手からめて門」である。
武器や道具類が収めてあったこの櫓門やぐらもんは、明治2年(1869年)10月、放火により焼失した。
中津市
中津の郷土史を語る会
(説明板より)
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黒御門跡 (中津市二ノ丁・中津簡易裁判所) (平成23年2月10日) |
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二の丸 長福寺儒学堂跡 (中津市二ノ丁・中津簡易裁判所) (平成23年2月10日) |
【二の丸 長福寺儒学堂址】
細川忠興公が小倉城の修築を終り、中津城の修復城地町割が判定したのは、元和6年(1620年)頃である。
忠興、忠利父子は、かねて切支丹信仰の念も深く、関ヶ原役のとき、石田三成の人質となるのを拒み、非業の死をなされたガラシャ玉夫人の冥福祈祷ミサのこともあり、城内二の丸に長福寺を建立し、本尊に秘佛マリア観音像を安置して、外人宣教師を招き、年々大ミサを行ったという。
現在中津に残る織部灯籠(かくれ切支丹灯籠)も長福寺へ供奉された遺物であると伝えられている。
徳川の禁教令が厳しくなってからは長福寺はすたれ、小笠原・奥平時代には、二の丸孔子を祀る儒学堂となり、儒学堂の塾として活用せられ釋奠せきてん祭(孔子の祭)をはじめ、藩公直参の儒学祭(漢学祭)が行われた。
中津は江戸末期まで儒学の旺さかんな地であったが、この二の丸儒学堂が中心であった。
中津市教育委員会
中津の郷土史を語る会
(説明板より)
中津城旧地図 (中津市・中津の郷土史を語る会の案内板)
【二の丁 にのちょう】 この町について
中津城の核心である「本丸」(奥平藩では「上の段」に藩主殿舎・「下の段」には藩政殿・能舞台・松の御殿などがあった)と「二の丸」(現存する薬研堀・樫ノ木門・黒門・内馬場・お花畑・長福寺などがあった)が明治3年の廃城後「二の丁」と呼ばれるようになった。
丁内ちょうないには天守閣・奥平神社・大神宮・城井神社・中津神社などがある。
中津中央ロータリークラブ
(説明板より)
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馬場跡 (ニノ丸跡) (平成23年2月10日) |
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武家屋敷跡 (二ノ丸跡) (平成23年2月10日) |
【武家屋敷跡】
中津城二の丸の北側である当地には、江戸時代から続く一軒の武家屋敷が建っていました。
1829〜1833年の間に作成された「中津城下絵図」(中津市歴史民俗資料館蔵)には、奥平藩士「竹下義兵衛たけしたぎへい」の名前が見えます。
「竹下義兵衛」は奥平家三河以来の譜代の家臣である竹下氏の一族です。
享和3年(1803年)の「江戸家中分限帳えどかちゅうぶんげんちょう」の供番格ともばんかくの項には「竹下義兵衛一高十人扶持ぶち」と記されています。
木造、藁葺わらぶき、平屋の住宅で、建築年代は不明ですが、江戸時代の住人扶持供番格の屋敷を伺い知る貴重な資料であることから、昭和60年6月20日建物が中津市指定文化財に指定されました。
建物は藁葺部分が桁行けたゆき9.756m、梁間はりま4.984mの寄棟造よせむねづくりで、入口には土塀と門がありました。
平成20年12月25日、当時の持ち主であった大江家より中津市に建物が寄贈されました。
中津市教育委員会では、建物の保存が第一と考えましたが、調査した結果、老朽化が進んでいたため、やむをえず解体せざるをえないと判断しました。
ただし、江戸時代の貴重な建物であることから、建物の構造を記録し、状態のよい柱など一部の部材については教育委員会が大切に保管することとしました。
解体後は、建物の基礎石を現地保存しました。
建築当時の武家屋敷の形状を解明することはできませんでしたが、後世の増築部分を除いた、江戸時代から伝わる建物中心部を表示しています。
中津市教育委員会
平成22年3月作成
(説明板より)
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三ノ丸跡あたり (平成23年2月10日) |
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藩校・進脩館跡 (中津市片端町・中津市立小幡記念図書館) (平成23年2月10日) |
(説明板より)
中津市指定史跡
藩校 進脩館しんしゅうかん跡
進脩館は学館がっかんとも呼ばれ、学問や武道などの教育が行われていました。
藩より維持費として年間米100石が助成され、生徒数は年間200名程でした。
進脩館の歴史は、藩の儒官じゅかんであった倉成龍渚くらなりりゅうしょが、安永9年(1780)4月この地の屋敷を拝領し家塾かじゅく(※1)を開いたことに始まり、そのころは片端学文稽古場かたはがくもんけいこばまたは学文所と呼ばれていました。
寛政元年(1789)、龍渚が江戸詰となったため、稽古場は弟子の野本雪巌のもとせつがんに引き継がれました。
当時、全国の諸藩では、財政再建や藩体制の動揺などの克服に必要な人材を育成するため、藩校の創設が相次いでいました。
中津藩でも、寛政8年(1796)稽古場を藩校とし、8月1日には「進脩館」と命名、同14日藩主奥平昌高まさたかも出席して開館の釈菜せきさい(※2)が開かれました。
創立当初は、稽古場の施設を改修しての出発でしたが、数度の大改修で施設も段々整備されました。
学制改革も数度行われ、最終的には藩士やその子弟以外にも神官・僧侶・農民・町民の入学も認められました。
教授には、龍渚、雪■のほか野本白巌はくがん・福沢諭吉の師白石照山しらいししょうざん・国学の渡辺重名しげな・渡辺重春しげはるなども勤め、中津の教育の源流となって多くの人材を送り出しました。
明治4年(1871)、廃藩置県により閉校しました。
※1 家塾・・・幕府や諸藩に仕える儒官がその内意により藩士の子弟を対象に開いた塾。
※2 釈菜・・・孔子や顔回がんかいなどの儒教の先哲を祭る儀式で、牛・羊・豚などを供える儀式を釈奠せきてんと呼び、野菜類で祭るものを釈菜と呼ぶ。湯島の聖堂や各地の藩校で行われていたが、幕末から明治維新のころ廃絶した。
中津市教育委員会
(説明板より)
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生田門 (中津市三ノ丁・南部小学校) (平成23年2月10日) |
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南部小学校 (中津市三ノ丁1309) (平成23年2月10日) |
生田しょうだ門と中津市学校
南部小学校の校門であるこの「生田門」は、明治時代の廃藩置県後「中津市学校」の校門としても利用されました。
もともとは奥平中津藩家老生田家の門であり、中津の藩政時代から現代まで、風雪に耐え抜いてきた貴重な建造物です。
この辺りは、江戸時代には、“三の丸”と呼ばれ、藩主の一族や家老などの屋敷が建ち並んでいました。
南部小学校の敷地は、「大手屋敷」と呼ばれた家老の生田家(1800石)の屋敷と、隣の「中なかの屋敷」と呼ばれた奥平図書ずしょ(2600石)の屋敷があった場所の一部を含んでいます。
明治4年(1871)、福沢諭吉の建議により、「大手屋敷」に西日本有数の英学校である中津市学校が創立されました。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」で有名な『学問のすゝめ』は、この市学校を創立する時に、中津の青少年に学問の重要性を説くため福沢諭吉によって書かれたもので、翌年刊行されて大ベストセラーになりました。
市学校の組織づくりには福沢諭吉、小幡おばた徳次郎などがかかわり、学校の規則はすべて慶應義塾の規則に従って定められ、教員は主に慶應義塾の中津出身者が派遣されました。
明治6〜9年には、生徒数が600名程にもなったと言われます。
廣池千九郎ひろいけちくろうの『中津歴史』に、中津の西洋風の文化・生活様式の出発点は常に市学校であったと書かれています。
市学校が大きな転機を迎える契機となったのは西南戦争で、西南戦争とその後の経済情勢は生徒数の減少をもたらしました。
また、学制の整備に伴う公立学校の充実なども加わり、市学校は徐々に衰退し、ついに明治16年(1883)3月に閉校しました。
市学校閉校後、いろいろな学校として変遷を重ね、明治43年(1910)4月1日、南部小学校が開校し、以降生田門は同小学校の校門として長く利用され親しまれて来ました。
【生田門】
門の分類:藥井門
門の幅(桁行):6.06m
門の高さ:5.56m
当初の建築年代:1700年前後(推定)
(使用部材)
欅けやき・杉・松と蟇股かえるまたのほか天井板などの一部に屋久杉に酷似した部材を使用。
※この内、杉や松の部材は、後年修理の時に使用されたものと考えられる。
(生田門の変遷等)
もともと生田門は、現存する大手門の石垣西端から西へ約20mの位置に、道路に沿って建てられていた。
昭和46年、校舎改築の際、道を挟んだ錬心館の門として移築された。
昭和63年、老朽化のため解体された。
平成12年、現在地に場所を変更し復元工事を行った。
平成13年3月完成。
生田門の現在の復元位置は、生田家「大手屋敷」の敷地から外れて、奥平図書家「中の屋敷」の敷地内では、と考えられる。
また、塀については、古写真を参考にして復元した。
(〜以下略〜)
中津市教育委員会
(説明板より)
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大手門跡 (南部小学校) (平成23年2月11日) |
【大手門】
中津城三の丸の東端に位置する大手門(追手門)は「馬出うまだし無しの桝形虎口ますがたこぐち」である。
中津城の外堀より三の丸(大手門)に入ると、そこは前方と左右の三方を大石で囲んだ奥行き約13間(23米)、巾約3.3間(6米)の「桝形ますがた」がある。
面積約43坪(138平米)の大手門「桝形」は騎馬武者であれば約30騎(供武者ともむしゃ60人を含む)、徒士かち武者であれば約250人が収容できる。
桝形の前方右側には黒田如水によって滅ぼされた犬丸城の古材木を使って造られたといわれる「矢倉門やぐらもん」型の大手門があった。
中津市
中津の郷土史を語る会
(説明板より)
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上勢溜跡 (平成23年2月10日) |
【上勢溜かみせいだまる】
勢溜せいだまるの名は城下町の町割の中ではなくてはならぬ要所である。
島田口しまだぐちを関所にしてここ上勢溜は、京町きょうまち、博多町、諸町もろまち、新魚町しんうおまちなどに接した民衆の避難所であり、戦いや災害時には人々を救うための大切な広場であった。
明治以降、上博多町かみはかたまち(出小屋でこや)、江三竹町えみたけまちなどが新設され、上勢溜は益々商業発展に活かされた。
中津市
中津の郷土史を語る会
(説明板より)
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お囲山跡 |
【自性寺じしょうじ周辺のお囲山かこいやま】
自性寺の南側と北側には、鉄砲山とも呼ばれた「お囲山」が残されています。
「お囲山」は中津城を守るために築かれた土塁で、その外側には外堀がありました。
「お囲山」は外堀に沿って北部小学校あたりまで続いていましたが、現在では自性寺のこのあたりにのみに「お囲山」が残されています。
このあたりのお囲山の内側には、自性寺のほか、六所宮ろくしょぐう・明王院みょうおういん・祥雲寺しょううんじ・義氏よしうじ神社など由緒ある社寺がありました。
自性寺の西側、外堀の外側には広津口ひろつぐちが設けられていました。
広津口とは、中津の城下の出入り口にあった人や物資の出入りを監視していた口屋番所くちやばんしょの一つで、広津口のほか、小倉口こくらぐち・金谷口かなやぐち・島田口しまだぐち・蠣瀬口かきぜぐち・大塚口の6ヵ所に設けられていました。
山国川の小倉口渡しを船で渡って来た旅人は、容易に城下に入れず、外馬場そとばば・御堀端おほりばたを外堀に沿って島田口に行き宿っていたとの事です。
お囲山の西側の外馬場では、乗馬や鉄砲の訓練等が行われていました。
明治維新後の外馬場は、山国川を筏流いかだながしで下くだり来た耶馬渓やばけいから伐きり出された材木の集積場となっていました。
中津市教育委員会
(説明板より)
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広津口跡 |
【中津城と城下町の城戸口「広津口」】
広津口
中津城下の西側にある城戸口(二ヶ所)の一つで、中津城の南側に位置する殿町と新魚町の間に在る諸町(一部武家屋敷のある町屋)の西端に位置する。
広津口から外馬場を北に行けば小倉口へ、西へ行けば山国川岸の船渡場を経て対岸の広津へ、南へ進めば金谷口、島田口へと続く。
広津口の郭内(おかこいの内側)には、非常時の対応に即して、仮設の陣営を築くために用意された自性寺と祥雲寺(跡)がある。
城戸口とは
天正16年(1588)黒田孝高(如水)が丸山の地で中津城の修築をはじめ、細川忠興(三斎)によって、慶長12年(1607)中津城は竣工する。
細川忠興は中津城を竣工させると、直ちに城下町の体裁を整えるために「町割令」を出す。
以後13年を経て元和6年(1620)に城、城下町の工事もようやく完了したとある。
このとき城下の外郭に6ヶ所(小倉口、広津口、金谷口、島田口、蛎瀬口、大塚口)の城戸口(木戸口)を設け、見付番所を配して城下の出入りを監視した。
(説明板より)
【寺町】 この町について
中津城総曲輪そうくるわ内の東側に在って島田口と蛎瀬の中程に城下防備を目的に作られた町。
ここ「寺町」には、黒田入封以前からの地蔵院・安随寺あんずいじと黒田藩時代に開基の合元寺ごうがんじや大法寺・円応寺・西蓮寺、細川藩時代の普門院・宝蓮坊・本伝寺・小笠原藩時代の円竜寺・浄安寺そして奥平藩時代の松巌寺の計12ヶ寺がある。
中津中央ロータリークラブ
(説明板より)
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浄安寺 (中津市寺町995) (平成23年2月10日) |
【正寿山しょうじゅざん 浄安寺じょうあんじ】
浄安寺は、寛永17年(1640)小笠原長継の菩提を弔うため、長男の小笠原政直が建立したと伝えられています。
正徳5年(1715)9月、本堂と鐘楼は焼失しました。
現在の本堂は、文化8年(1811)、舟町ふなまちの豪商井筒屋勘之助高通たかみちの寄進により、再建されたものです。
浄安寺境内の墓所には、次のような墓などがあります。
和田豊治の墓(富士紡績で活躍し後社長となる。中津に和田奨学金を設けた。)
神官で渡辺重名しげな以降代々国学者が続いた渡辺家の合葬墓がっそうぼ
福澤諭吉が一時養子になったこともある中村術平じゅっぺいの墓
(術平は、福澤百助ひゃくすけの実弟で中村家の養子になった)
中津藩の祐筆ゆうひつで書家の磯田崇山・東郭の墓
書家の中村寿山の墓。墓碑は福澤百助の撰せんである。
小笠原長継
慶長9年(1604)没。法号心誉浄安寺殿。
小笠原中興ちゅうこうの祖で中津小笠原の祖でもある松本城主貞慶さだよしの従弟いとこにあたり5千貫の分地を受けた。
中津市教育委員会
(説明板より)
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円応寺 (中津市寺町961−2) (平成23年2月11日) |
【円応寺えんおうじの由来】
知恩院末浄土宗鎮西ちんぜい派、鏡智山きょうちざんと号し、阿弥陀如来を本尊とする。
天正15年(1587年)黒田如水の開基で見道けんどう大和尚の開山。
黒田氏福岡に転封後、細川氏も熊本に移住、小笠原氏城主の時天仲寺より十一面観音像を移し、寺内に観音堂を建立す。
墓地には儒学者山川東林やまかわとうりん、玉蕉ぎょくしょ父子の墓、奥平家の重臣桑名家、東條家の墓所や有名な河童の墓、池などがある。
又「富永章一郎氏解剖記念碑」という大きな碑が建立されている。
章一郎氏は名家の生れで、生前儒学、洋学に優れ、又医学の研究家で、死に臨み自ら進んで死体の解剖を申し出て医師立ち合いで解剖が行われた。
中津では初の試みで、この徳行を賞して、下毛郡医会によって建立されたものである。
中津市
中津の郷土史を語る会
(説明板より)
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合元寺 (中津市寺町971) (平成23年2月11日) |
【赤壁 合元ごうがん寺】
通称「赤壁」といわれるこの寺は、浄土宗西山派。
開山空誉上人は、天正15年(1587年)黒田孝高よしたか(如水)に従って姫路から中津に来錫したした。
その後、天正17年4月、孝高が前領主、宇都宮鎮房しげふさを謀略結婚により中津城内に誘殺したとき、その従臣らが、中津城を脱出し、この寺を拠点として奮戦し、最期をとげた。
以来門前の白壁は幾度塗り替えても、血痕が絶えないので、遂に赤色に塗られるようになった。
当時の激戦の様子は現在も庫裏くりの大黒柱刃痕が点々と残されている。
また、戦死した宇都宮家の家臣は合葬し、寺内の延命地蔵菩薩堂に祀り菩提を弔った。
その空誉上人は、宇都宮鎮房の庶子であったといわれ、文武の道に秀で、世人の崇敬が篤かったため、後事をおそれ、慶長16年、黒田長政に福岡城で誘殺されたという哀史を秘めた寺である。
寺内には、三浦梅園、倉成龍渚の師、儒学者藤田敬所(藤貞一)の墓がある。
後のお堂は経蔵である。
中津市教育委員会
中津の郷土史を語る会
(説明板より)
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宝蓮坊 (中津市寺町980) (平成23年2月11日) |
【宝蓮坊の由来】
慶長5年(1600年)細川忠興が中津城に入封の際、名僧の誉れ高かった行橋浄喜寺の村上良慶を伴って、中津浄喜寺を開基させた。
これが後、宝蓮坊と改称されたものである。
宝蓮坊はその後代々名僧が続いたが、特に第三世村上良道(この良道より村上家は代々中津藩の御典医を勤めた。)は学問に秀で、勅命により聖徳太子の経典を進講し、天皇から非常なお誉めを戴き、大阪四天王寺奥の院にまつられていた太子の尊像を拝領した。
この太子像は室町時代初期の傑作と言われている。
良道は帰国後堂を建て、多くの信者に講義を続けていたが、永年の風雨により堂は崩壊し、尊像は現在本堂に安置され、楼門のみが当時の面影を残している。
中津市
中津市観光協会
(説明板より)
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桜町天満宮 (中津市桜町1055) (平成23年2月11日) |
【桜町天満宮の御由緒】
寛永9年(1632)播州竜野より中津城主に封ぜられた小笠原信濃守長次公は、かねてより崇敬の深かった天神像を奉戴して中津城に入られた。
この像は新羅三郎義光の作と伝えられ、播州川上郷に鎮座したところから川上天神と称せられ、当初は萱津大江ヶ岡の八幡宮境内に祀られていたが再度の洪水のため危険を感じ、一時金谷へ移してのち、元禄元年(1689)6月当地桜町に遷座されたのである。
御祭神菅原道真公は学問文学の神と仰がれるが、自筆の神額を寄進された。
奥平家初代藩主源昌成公をはじめ代々の藩主や多くの文人あるいは学問を志す人々の崇敬を集めるとともに、江戸末期より明治初中期には近在子弟の勉学の場としても名高かった。
近年では毎年10月に秋の例大祭が盛大に執り行われている。
昭和53年10月
桜町天満宮総代会
郷土史家島通夫先生御監修
(説明板より)
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