南方産業建設殉職者の碑


南方産業建設殉職者の碑 平成20年11月22日

碑文

大東亜戦争勃発シ占領地域ノ擴大ト共ニ南方経済建設ノ業急務トナルヤ各関係官廰竝ニ開発企業担當會社ヨリ産業開発戦士選抜セラレ勇躍大洋丸ニ乗船シ壮途ニ就ク
然ルニ可惜昭和十七年五月八日東支那海ニ於テ不幸敵潜ノ冒ス所トナリ其ノ一部ハ本船ト運命ヲ倶ニスルニ至レリ
然シ共之等殉國ノ壮圖ハ国民ノ齊シク敬仰措カサル所ニシテ其ノ崇高ナル犠牲ハ後進ヲシテ愈々感奮惜起セシム
陸軍當局ハ特ニ生前ノ行績ヲ記念スル為茲ニ本碑ヲ建立シ以テ殉國ノ英霊ヲ慰ム

昭和十七年五月八日 陸軍省

副碑・碑文

勇躍壮途につきし大洋丸昭和17年5月8日遭難数多の俊英技術者を失ひ当時の南方諸地域の産業開発に重大なる影響を及ばせり
真に痛恨の極みにして此の粛然たる事実の風化を惜しむ聲星霜重ねると共に大なるものあり
当時の生存者及び関係者相呼應して大洋丸會結成となれり
即ち佐藤祐弘代表世話人、同志と共に東奔西走し関係各位との連繋を密にして諸事相図り後世への傳承の手段を講じ就中大洋丸誌の編纂に戦没英霊に對する大いなる菩提心の発露と謂いべし
昭和57年5月40周年を迎え追善法要を嚴修せり
平成弐年第50回忌を迎う■に當り各地より関係各位相集ひ思ひを遠く往時に馳せ香煙ゆらぐ裡に第50回追善大法要を奉修し戦没英霊追弔を為す
戦後整備及び第50回忌法要奉修を後昆に傳うべく■に記念として一文を篆して建立す

平成参年五月八日
聖林山第■四世 智曠院日修

本蓮寺



本蓮寺
(長崎県長崎市筑後町2−10)





(平成20年11月22日)

本蓮寺ほんれんじ

元和6年(1620)、大村本教寺おおむらほんきょうじ住職の日恵にちえが開創。
サン・ジョアン・バプチスタ教会、サン・ラザロ病院の跡地でした。
慶安元年(1648)、朱印地に指定され、長崎三大寺の一つでした。
江戸時代末、大乗院だいじょういんと一乗院いちじょういんという塔頭たっちゅうがあり、大乗院には、勝海舟が4年ほど滞在し、海軍伝習所で航海術や砲術などを学びました。
近所に住むお久ひさ(梶クマ)とのロマンスは、切れた下駄の鼻緒を直してくれたのが始まりといわれています。
一乗院には、シーボルトが息子アレキサンダーと滞在し、おタキや娘のおイネと会った場所です。
写真の二天門は原爆で焼失しましたが、往時の礎石の跡が残っています。

管理者:長崎市

(説明板より)

 二天門 (説明板より)


【南方産業開発派遣隊】

日本が南方の資源を確保するために国策として初めて資源問題を検討したのは開戦2年前の昭和14年(1939年)10月で、企画院が『帝国必要資源の海外・特に南方地域における確保方策』という案をまとめた時である。
その目的は「東亜大陸及び南方諸地域を我が経済圏に入れる如く施策することを第一義とす」というものだった。
そして翌年の7月、近衛内閣は『基本国策要綱』を閣議決定。
それに伴って企画院は『南方施策要領案』を作成した。

この南方地域(現在の東南アジア地域)の経済建設を積極に進めた官庁が企画院の第6委員会だった。
しかし現地の金融財政政策や占領地に進出していた南方軍の部隊間の物資の交流、あるいは資源対策などの全般的な経済政策は遅れており、そのため軍は「南方産業開発派遣要員」の徴用を始めた。

この南方産業開発派遣隊は、戦前、日本が海外に送り出した専門家集団としては最大の動員であった。
人選には官民を問わず優秀な人材を充てた官民合同の組織であった。
選考は陸軍、海軍、拓務、商工、農林の5省が当った。
とくに産業開発部門は民間大手企業から選抜された社員がほとんどで、分野は石油、鉱山、製糖、油脂、繊維、農業、灌漑、水産、牧畜など多岐にわたり、出征社員は「産業開発戦士」と勇ましい名で呼ばれた。

(参考: 斉藤充功 著 『昭和史発掘 幻の特務機関「ヤマ」』 新潮新書 2003年7月20日発行)

(平成27年3月22日追記)


客船「大洋丸」の遭難

客船「大洋丸」の前身はドイツのハンブルグ・南アメリカ社の南米航路用の客船で、1911年(明治44年)に建造された「カップ・フィニステレ」という客船だった。
この船はドイツが第一次世界大戦に敗北したことによって、連合国に提出された戦争賠償品の一つとして日本が受け取ったものである。
日本に供出された「カップ・フィニステレ」は「大洋丸」と名前を変えて、日本とアメリカ西岸航路の客船として長年使われた。
大東亜戦争開戦時には、すでに船齢30年の老朽船になっていたが、大量の人員を運べる大型船として貴重な存在だった。

昭和17年(1942年)5月5日、広島の宇品港を出港し、門司で飲料水や缶水さらには旧式なボイラー用燃料の石炭を積み込んだ。
この時「大洋丸」には軍人34名、民間人1010名が乗船し、軍需品2450トンが積み込まれていた。
乗船していた多数の民間人は、占領した東南アジアの民政と行政の運営に参加するため送りだされた多数の司政官や医者、さまざまな分野の教育者、技術者であった。
特に多数を占めていた技術者は、スマトラ島のパレンバンやボルネオ島のミリやバリックパパンなどの石油産出地の油井や石油精製施設の復興や新たな設備の建設、あるいはマレーやジャワ方面のアルミニュウム精錬施設の建設、フィリピンのダバオに建設予定のセメント工場の建設などに派遣される、日本の各分野のエキスパートたちであった。
5月7日、「大洋丸」は僚艦4隻と共に船団を組み、小型客船改装の特設砲艦「北京丸」と駆逐艦「峰風」の護衛を受けて六連島泊地を出港した。
船団は一列縦隊の隊形で9ノットの遅い速力で台湾に向かって進んだ。
5月8日午後7時頃、特設砲艦「北京丸」より「潜水艦出没の情報あり、警戒を厳重にせよ」との信号が入り、「大洋丸」では船橋見張り員を増員した。
午後7時45分、左舷船尾付近に魚雷1発が命中、その直後に今度は左舷船首2番船倉付近に2発目の魚雷が命中した。
「大洋丸」は左舷に傾斜を始める。
このとき船首に命中した魚雷と浸入してきた大量の海水のため、船首2番船倉に積み込まれていた150トンのカーバイトが猛烈な勢いで爆発。
船首部と船尾部の下甲板に広く配置されていた三等船室区域は不運にも魚雷の爆発の直接の被害を受け、さらにカーバイトの爆発と続く火災の被害も加わって、これらの区域の三等船室に乗り込んでいた多数の技術者が犠牲となってしまった。
かれら全員が各種生産設備の建設現場要員として東南アジアに向かう途中の有能な技術者たちであった。
その後、「大洋丸」は沈没。
左舷側に搭載されていた9隻の救命艇の殆どが、魚雷の爆発の衝撃で破壊されたり吹き飛ばされたりして使用不可能。
右舷側の救命艇の降下に必要な多数の甲板員が船首の居住区から脱出できない状態だったため使用不可能。
このため乗組員も乗客たちも海に飛び込むしかなかった。
「北京丸」からの連絡により、駆逐艦「峰風」と僚船の「富津丸」が遭難現場に接近し、敵潜水艦が遊弋する危険をかえりみず、全力の救助作業に当たった。
遭難翌日の5月9日も日の出と共に長崎県水産試験場の調査船や付近で操業中の多数の漁船が遭難現場海域に集まり、さらなる救助活動が展開された。
乗船していた乗客の重要性から救助活動はその後も徹底的に続けられたが、その後は多数の遺体を収容するにとどまり、戦時中としては異例の長期間の捜索の後、5月30日に一切の捜索は打ち切られた。

「大洋丸」の沈没による犠牲者は乗組員157名、乗客660名の計817名に達した。
乗客の犠牲率は64%。
この遭難事件の後遺症は大きく、その後の南方の各分野での設備建設や開発にさまざまなマイナス影響を与えることになった。

(参考:大内建二著 『輸送船入門』 光人社NF文庫 2003年発行)

(平成23年6月28日追記)


【東洋拓殖株式会社・大洋丸事件】

1941(昭和16)年11月2日、太平洋戦争に先立って、大本営政府連絡会議は「南方占領地行政実施要領」すなわち占領後の南方諸地域に対する軍政・資源開発の基本方針を決定した。
香港・フィリピン・英領マレー・スマトラ・ジャワ・英領ボルネオは陸軍主担当地域、蘭領ボルネオ・セレベス・モルッカ群島・小スンダ列島・ニューギニア・ビスマルク諸島・グアム島は海軍主担当地域という軍政の地域分担区分が取り決められた。
前者がA地域、後者がB地域と呼称された。

軍はA地域の産業開発を企画し、推進するため産業界のエキスパートを選りすぐって現地に派遣することとなった。
東拓(東洋拓殖株式会社)は、渡辺浩哉(東大法卒)を団長とし、近藤誠行(東大農卒・44歳)、安芸稔一(北大農卒・34歳)、井藤久夫(北大農卒・28歳)、藤田孝郎(北大農卒・27歳)、立見尚俊(北大農卒・33歳)と多田裕計(40歳)、ジョホールから引き揚げた児玉巌を加えて合計8名を派遣した。

陸軍徴用船・日本郵船所属「大洋丸」(14,457総トン)は1942年5月5日、1,360人を乗せて広島の宇品港を出港、フィリピン・ルソン島に向かった。
8日、午後7時45分。
九州西南の男女群島南南西沖85カイリで大洋丸は敵潜水艦の雷撃を受け、搭載したカーバイドに引火爆発して大火災になった。
たまたまコレヒドール陥落の祝宴を張っていた乗客は、18隻の救命艇に殺到したが、ボートはほとんど使用できず、乗客はすべて暗い海中に飛び込んだ。
1,360人のうち817人が死亡、543人が救助された。
東拓関係で救助されたのは渡辺浩哉・児玉巌の二人だけで他の6名は殉職した。

団長の渡辺浩哉は東大法学部卒業後直ちに東拓に入社した頭脳明晰豪放磊落なミスター東拓マンともいうべき人で社内の信望が厚かった。
昭和47年に逝去されたが、生前奥さんにだけ語っていた遭難話を未亡人が次のように語っている。
「もうだめだという時、ありったけの衣服を着て海に飛び込みました。板切れにつかまり、できるだけ船からはなれました。半日以上漂ったでしょうか。時々船が通るので一生懸命助けを求めましたが、船からは波にかくれて見えないらしく通りすぎてしまい無念の涙をのみました。とうとう1隻の船が我々を見つけ、ボートで助けてくれました。ボートから本船に乗り移る時、あわてて我先に乗ろうとして大波にさらわれて命を失った人もかなりあります。ほんとうにもう少しというところでしたが、こういう大変な時こそ人間は落ち着かねばならぬと切に感じたそうです。せっかく助けられても甲板にあがるとホッとして死んでしまうので、ぶったり、蹴ったりしてわざとひどい扱いをして反発心をおこさせて助けたということを後で聞いたそうです。結局この時助かった人は運が強かったことと、それから『こんなところで死ねるか』という精神力だろうと思います。東拓関係者で生き残ったのは二人だけと聞いております」

(参考:大河内一雄 著 『幻の国策会社 東洋拓殖』 日本経済新聞社 昭和57年1版1刷)

(平成29年2月1日 追記)




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