東京都港区愛宕2−1−1
平成18年7月25日
ようこそNHK放送博物館へ
NHK放送博物館は世界最初の放送専門のミュージアムとして、昭和31年に”放送のふるさと・愛宕山”に開館しました。
日本の放送が始まってから80年。
その間ラジオからテレビへ、さらに衛星放送やハイビジョンへと大きく進歩・発展してきました。
こうした放送の歴史を中心に、約2万件の放送資料と約6千5百点の放送関係図書を所蔵し、順次公開しています。
(リーフレットより)
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八木・宇田式アンテナ (平成18年7月25日) |
八木・宇田式アンテナ
1926年(大正15)、東北帝国大学(現在の東北大学)の八木秀次・宇田新太郎の両博士によって発明された極超短波用アンテナです。
使用波長は45センチ、周波数は667メガヘルツ。
当時は、このような短い波長の電波はまだ通信に利用されていなかったので、世界の注目を集めました。
これによって極超短波帯の電波が利用できるようになり、テレビ放送やFM放送が可能となりました。
この装置は1935年(昭和10)の”ブリュッセル万博”、1985年(昭和60)の”つくば科学万博”に出展されたもので、「高柳式テレビ」や「豊田自動織機」とともに日本の3大発明品とされています。
(説明板より)
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高柳式テレビ (平成18年7月25日) |
高柳式テレビ
送像機
円板に小さな穴をうず巻き状にあけた「ニプコー円板」による機械式走査です。
円板を回転させ、1つの穴が像の前を通過すると、1本の光の線(走査線)ができます。
その結果、穴の数と同じ数の走査線で像が描かれます。
走査線成分の明るさの変化を電流の変化に変えて受像機に送ります。
受像機
世界ではじめてブラウン管を使った電子式テレビ受像機。
(説明板より)
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中二階・『藤山一郎作曲部屋』 歌手、作曲家として”ラジオ体操の歌”などを数多く手がけた藤山一郎氏の”作曲部屋”を再現しました。 (リーフレットより) (平成18年7月25日) |
ごあいさつ
平成11年11月、藤山一郎さんのご遺族からNHKに、数々の遺品が寄贈されました。
それは70年余りにわたる藤山さんの歌手生活を偲ばせるものです。
藤山さんはNHKの放送がはじまったころから出演されているなど、ゆかりも深く、遺品の管理運用はNHK放送博物館で行うこととなりました。
今後、遺品は生きた放送文化の証しとして展示、公開いたします。
音楽はもちろん人間味あふれる、藤山さんの素顔も是非ご覧ください。
(展示パネルより)
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2階・『放送の歴史』展示室 (平成18年7月25日) |
◆ラジオ放送の始まりと広がり
ラジオ放送の開始から、「玉音放送」による終戦までの放送機器と文献などを展示しています。
◆テレビ実用化に向けて
幻の東京オリンピック(昭和15年)テレビ中継に向けての、戦前のテレビ研究・開発・実験放送時代を紹介しています。
(リーフレットから一部抜粋)
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「東京放送局」模型 1925年(大正14年)〜1939年(昭和14年) 大正14年7月、東京放送局は芝浦の仮放送所からここ愛宕山の新局舎に移り本放送が始まる。 (説明板より) (平成18年7月25日) |
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「東京放送会館」の模型 (平成18年7月25日) |
内幸町・東京放送会館の模型
内幸町(東京・千代田区)の放送会館は、1939年(昭14)5月から1973年(昭48)7月までの34年間、わが国放送の歴史とともにあゆみつづけました。
太平洋戦争開戦のニュース、終戦の詔書の放送、民主化をうたった戦後の新番組、テレビ本放送、教育テレビ、FM放送の開始など、時代の大きな流れの中で放送を送りつづけてきました。
「たずね人」「街頭録音」「話の泉」「二十の扉」「とんち教室」「鐘の鳴る丘」「君の名は」など、数々の番組がこの放送会館のスタジオから生まれました。
1955年(昭30)3月にはNHKホールが落成。
「ジェスチャー」「私の秘密」「お笑い三人組」「歌のグランドショー」など公開番組でみなさんにおなじみの場となりました。
(説明板より)
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3階・『放送が伝えた80年』展示室 (平成18年7月25日) |
放送局、設立!
1923年(大正12)12月、「放送用私設無線電話規則」が制定されました。
この「規則」では、放送無線電話(ラジオ)は民営にすると規定されており、放送事業の出願は、全国で100件を越えました。
当時、アメリカでは、大きな電気メーカーは、ラジオの大量生産と販売をしながら、放送事業の経営にあたっていました。
こうした実情は、新聞・雑誌などで日本にも紹介され、国内の電気メーカーや新聞社、研究団体などを刺激しました。
逓信省は、一都市一放送局という原則を守るために、出願者を統合しようとしましたが、大阪では順調にいきませんでした。
時の逓信大臣・犬養毅は「放送事業というものは、公益性の高いもので、これは営利の手段とすべきではない」と判断しました。
こうして1924年(大正13)12月11日、社団法人東京放送局が誕生しました。
(展示パネルより)
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放送局の自動制御時計 1939年(昭和14) (平成18年7月25日) |
放送局の自動制御時計
日本標準時に連動した自動制御時計の信号を受けて報時時計が音叉をたたき「プッ・プッ・プッ・ポーン」の時報を送り出します。
1960年(昭35)12月1日、水晶時計にかわるまで働きました。
(説明板より)
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「ひょっこりひょうたん島」 (平成18年7月25日) |
「ひょっこりひょうたん島」
1964年(昭39)〜1969年(昭44)3月放送
脚本:井上ひさし・山元護久
音楽:宇野誠一郎
人形:ひとみ座
キャラクターデザイン:片岡昌
人形指導:須田輪太郎
漂流しているひようたん島で、個性的なキャラクターたちが、くりひろげる物語は、古い価値観を打ち破り、大人にもファン層を広げました。
1992年(平4)に20回分を再制作
(説明パネルより)
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「スタジオから家庭まで」コーナー (平成18年7月25日) |
スタジオから家庭まで
放送の歴史は、技術の進歩に支えられています。
このコーナーでは、放送初期の時代からデジタル・ハイビジョン時代まで、スタジオで活躍したカメラやマイク、家庭のラジオやテレビなどを集めました。
一部の機器は、映像を出し、音も聞こえるようにしています。
(リーフレットより)
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4階・「放送文化賞記念コーナー」 300名をこえる受賞者を顕彰し、業績にちなんだ資料を展示しています。 (平成18年7月25日) |
放送発祥の地、愛宕山のNHK放送博物館に「テレビ放送開始50年」を機に、「放送文化賞」を記念するコーナーを開設しました。
「日本放送協会 放送文化賞」は放送開始25周年にあたる昭和24年に設けられて以来、毎年の放送記念日に、放送事業の発展に寄与し放送文化の向上に功績のあった方々に贈られてきました。
受賞者は、文字どおり、その道の日本を代表する方々で、お一人お一人の見識の高さや学芸・技能に長じた才能が、放送文化の歴史を築いてきております。
創設から半世紀を超えるなか、幅広い分野に及んでいます。
放送文化賞記念コーナーは、これまで放送が築いてきた歴史的財産を放送文化賞を受賞した人たちを中心にして、放送とのかかわりから見つめるコーナーです。
「放送文化人」の息吹がこもった「放送文化財」を展示することにより、放送と社会・文化のあゆみに想いを馳せていただければ幸いです。
(展示パネルより)
ご案内
開館:午前9時30分〜午後4時30分
休館:月曜日(月曜日が祝日または振替休日の場合は開館)・年末年始
入館:無料
交通:地下鉄日比谷線(神谷町下車)・地下鉄銀座線(虎ノ門駅下車)・地下鉄三田線(御成門駅下車)
【愛宕山分室】
愛宕山といえば、大正14年、日本放送協会が最初の本放送をはじめた場所である(試験放送は芝浦)。
現在は放送博物館となっているが、NHK愛宕山局舎の右端に赤い屋根、白い壁の、一見小学校の体育館を小さくしたような木造建築があった。
この赤い屋根の建物は、戦時中、国策通信社、同盟通信の情報受信部が使っていた。
戦前、各国の通信社のニュースはモールス信号で送ることが多かった。
真珠湾の奇襲以降、英米など敵国の情報は、通常ルートでは中立国を介して入ってくるだけで、それ以外の情報は多く放送や通信の傍受に頼っていたのである。
同盟の情報受信部では、海外の通信を傍受し、それを翻訳して同盟本社にまわしていた。
戦後、進駐軍に「東京ローズ」として騒がれ、アメリカ国家反逆罪で裁かれたアイバ戸栗さんは、臨時の雇いであったが、一時期、ここで連合軍の英語放送をモニターして日本語に翻訳する仕事をしていた。
戦時中、情報受信部では、モールス信号で入手した情報を、中立国の「ストックホルム発同盟」とか「リスボン発同盟」とかのクレジットをつけて配信していたという。
愛宕山の同盟ではモニター用の機械として戦前、すでにドイツのシーメンス社製のテープ・レコーダーを使用していたという。
いずれにしても、戦前同盟で使っていた受信機材を、戦後NHKがそのまま引き継いで管理し、それが愛宕山分室の創設の際、使われたようだ。
現在、その建物は取り壊されて跡形もないが、昭和28年から昭和34年まで、この赤い屋根の建物にNHK外国放送受信部の前身のひとつである、NHK国際局編成部愛宕山分室があった。
当時、建物の半分は、時事通信社の外郭団体である内外情勢調査会がつかっていた。
昭和28年10月の国際局編成部分室開設当時、外国放送受信部で傍受した海外放送の資料は、内幸町のNHK本館にあった報道局外信部に送られる一方、隣の内外情勢調査会(昭和30年までは、国際情勢調査会)にも提供されていた。
内外情勢調査会では、時事通信社の本部にはいってくる情報などもまじえて内外の政治、経済、社会情勢を分析し、それを政府諸機関に提供するのである。
NHK外国放送受信部には、内閣調査室から業務委託費として資金が出ていたことで、その後、国会でもとりあげられることになるのだが、当初の計画はともかく情報収集の下請け機関としては、出発はあまりにもささやかで、いじましいくらいのものであった。
昭和28年、愛宕山に国際局編成部の分室が開設されたのとほぼ時を同じくして、内幸町の本館の報道局内にも、小規模ながら海外の短波放送を傍受するセクションが作られた。
本館6階の屋上につくられた建物にあったので、通称「屋上」とか「短波班」とかいっていたようだ。
昭和34年、この短波班と愛宕山分室が合併し外国放送受信室となった。
それにともない愛宕山の分室は閉鎖され、内幸町の本館6階に移り、翌昭和35年外国放送受信部として部に昇格する。
(参考:香取俊介 著 『昭和情報秘史〜太平洋戦争のはざまに生きて〜』 1999年第1刷発行 ふたばらいふ新書)
(平成27年10月17日追記)
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