京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
平成19年3月17日
二条城は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採決された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録されました。
このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、とくに優れて普遍的価値をもっていることを国際的に認められたことになります。
二条城は、慶長8年(1603)に徳川幕府により京都御所の守護と将軍上洛の時の宿泊所として造営され、その後寛永3年(1626)に大規模な拡張・修復工事が行われました。
現在の二の丸御殿は基本的にはこの時のもので、このほか本丸内には弘化4年(1847)に造営された旧桂宮御殿が移築されています。
二の丸御殿は武家風書院造を代表する建築で、その主要部は遠侍及び車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の各殿舎からなり、これらが二の丸庭園の池に沿って雁行形に配されています。
内部は、床の高さや天井の形態、座敷飾り等によって各室に差異をつけながら配されており、また各室は部屋の目的に応じて障壁画が描かれ、欄間彫刻、飾り金具、釘隠し等が豪華に飾られるなどの意匠が凝らされています。
この御殿の西に大広間から眺められるように造られた二の丸庭園は池泉廻遊式の庭園で、池の法面や護岸に多くの豪華な石組を配するとともに、池の中に3つの島、奥に三段の滝を設けており、その力強い意匠は豪壮な建築群とよく調和しています。
登録年月日 平成6年(1994)12月15日決定、17日登録
京都市
(説明板より)
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東南隅櫓 (平成19年3月17日) |
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南門 (平成19年3月17日) |
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西南隅櫓 (平成19年3月17日) |
元離宮二条城
慶長7年(1602)、徳川家康の命により、奉行板倉勝重が差配、市中の多数の労役者の力により着工され、翌年3月に完成した。
京都の守護と上洛の際の宿所がその目的で、二条新御所などと呼ばれ、はじめは小規模のものであった。
家康の征夷大将軍せいいたいしょうぐんの拝賀および二代秀忠の将軍宣下は、この二条城で行われた。
その後も、造営は続けられ、伏見城の遺構をここに移し、寛永3年(1626)、三代将軍家光が、ここに後水尾天皇を迎えた頃、その規模はもっとも拡大され、五層の天守閣もそなえていた。
しかし、寛延3年(1750)、雷火のため天守閣を焼失、また、天明8年(1788)には、市中の大火にあい、本丸殿舎、櫓やぐらの多くを焼失した。
文久3年(1863)、十四代将軍家茂が入城、攘夷じょういの実行を誓い、また、慶応3年(1867)には、十五代将軍慶喜が、この城中で大政奉還を決意し、上表の使者を出している。
明治4年、二の丸内に京都府庁が設置され、明治17年宮内省に属し、二条離宮と改称、明治26、7年には、本丸御殿跡に京都御所にあった桂宮御殿が移築され、本丸御殿と呼称されている。
昭和14年(1939)、京都市の所有に移り、史跡に指定された。
城構は、平城ひらじろで、本丸・二の丸の二部よりなり、周囲には幅13mないし17mの濠ほりをめぐらし、東西約480m、南北360mあり、国宝二の丸御殿をはじめ、台所・御清所おきよどころ・東南・西南両隅櫓、東・北大手門・土蔵・本丸御殿などの重要文化財がある。
(説明板より)
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番所 (平成19年3月17日) |
番所
徳川将軍不在の二条城中は、二条在番ざいばんと呼ばれる江戸から派遣された大番組の武士によってその警衛けいえいの全責任がとられていた。
毎年2組(1組50人)が4月を期して交替。
要所要所の番に当った。
この番所はその番士の詰所の一つで正面十間(19.6メートル)、奥行き三間(6.06メートル)の細長い建物であり、前側の二間畳敷にけんたたみじきに門番が勤務していた。
現存の門番所の遺構は少なく、貴重な建物となっている。
(説明板より)
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二の丸・唐門 二の丸御殿の正面に設けられた御殿の正門 (平成19年3月17日) |
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築地塀と唐門 築地塀より一層高く桧皮葺ひわだぶきで唐破風を備えた四脚門 (平成19年3月17日) |
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二の丸御殿(国宝) 二条城で唯一残された江戸初期の遺構 すべて本瓦屋根だが、創建時は柿葺こけらぶき (平成19年3月17日) |
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釣鐘 (平成19年3月17日) |
釣鐘について
この鐘は、幕末の政変の時期、二条城と北側の所司代との連絡に使われたものです。
鐘は二条城と所司代しょしだいに設置され、二条城では東北隅の艮うしとら櫓跡に所司代の千本屋敷から火の見櫓を移築し鐘楼しょうろうも建て鐘が設置された。
明治時代二条城に京都府が置かれた時も非常時に備え使用されていた。
幕府の政務の場であった二条城と所司代は幕末の混乱の中、朝廷側との政争で緊迫していた。
薩摩・長州など朝廷側の動向に備え、鳥羽伏見の開戦など非常時の連絡を告げ、住民にも知らせるため鳴らされたものです。
(説明板より)
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二の丸御殿・大広間 将軍が諸大名と対面する場所 (平成19年3月17日) |
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二の丸庭園 小堀遠州が作庭した池泉ちせん回遊式庭園 (平成19年3月17日) |
特別名勝 二条城二の丸庭園
池を中心とした庭で、3つの島を置き、4つの橋を架け、西北隅に滝を落とし、池の汀に多くの岩石を配した景観は変化に富んで秀麗であり豪壮な趣がある。
庭園は大広間の西、黒書院の南に位置し、主として大広間から鑑賞せられるのであるが、寛永3年後水尾天皇行幸の際、行幸御殿が庭園の南に設けられた関係で、南方よりの鑑賞の事も考えて庭園南部の石組に変更を加えた形跡が見られる。
作庭年代については、記録や作風から推して慶長7・8年頃二条城が造られた時にその建築に調和させて築造せられたもので後水尾天皇行幸の際一部改修を加えられ今日に至ったものと考えられる。
そしてその作風は桃山末期乃至ないし江戸初期に大成された書院造りの大建築に伴なう庭園の特徴をよく示し、現存歴史的庭園中の優秀作品の一つに数えられる。
(説明板より)
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本丸櫓門と東橋 往時はここに本丸御殿と二の丸御殿をつなぐ橋廊下と二階廊下などがあった (平成19年3月17日) |
本丸御殿
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本丸御殿(重要文化財)・車寄 (平成19年3月17日) |
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本丸御殿(重要文化財)・御常御殿おつねごてん 明治半ばに京都御所今出川門内にあった元桂宮かつらのみやの御殿を移築したもので、公家住宅の貴重な遺構 (平成19年3月17日) |
天守閣跡
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天守閣跡 (平成19年3月17日) |
天守閣跡
天守台石垣高さ約21米、上敷地445平方米、この上に五層の天守閣が寛永3年、伏見城から移して建てられた。
寛延3年雷火により付天守と共に焼失し、以後再建はなかった。
(説明板より)
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天守閣跡と内堀 (平成19年3月17日) |
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本丸・西橋 (平成19年3月17日) |
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旧二条城の石垣 (平成19年3月17日) |
旧二条城の石垣
築城当時、日本において布教活動をしていたポルトガルの宣教師、ルイス=フロイスの記録によれば、旧二条城というのは、現在の二条城以前に、永禄12年(1569)2月に工事を開始し、常時1万5千人から2万5千人の人役を投入し70日間程でほぼ全容を整えたということであり、期間を極めて短くするために石垣の石材に近郷の石仏・板碑・燈籠等を徴集し、積み込んだと記載されているが、そのとおりの石仏などがこの遺構に見られる。
その後、信長は義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ「二条御所」と呼ばれていた。
天正10年(1582)の本能寺の変において明智勢に攻めいられ信長の長子、信忠が自刃し城郭建築は焼失した。
この石垣は、京都市高速鉄道烏丸線(地下鉄)建設に際し、烏丸下立売から発見されたものである。
石垣は「犬走り」をはさんで上下二段に分れて北面し、東西方向に走り、東南方向に折れる角をもつ。
この遺構は移築に際し方向が90度ほど変わったが、元来は東西方向が長く、8m強を測り、普通の石材約150個の他に40個程の石仏・板碑・礎石が使われている。
昭和52年 京都市
(説明板より)
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桃山門(重要文化財) (平成19年3月17日) |
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清流園 往時は城を守った城番武士の宿舎があった場所 明治期には苑地、大正期には大正天皇の御大典の殿舎が建った (平成19年3月17日) |
清流園
清流園は、面積約5千坪で池泉廻遊式山水園と、芝生の広場からなっている。
この庭園は、高瀬川一之船入のところにあった約3百年の歴史を持つ角倉了以の屋敷の一部と、名園であった庭園の池石約8百個をもとに、全国から集めた名石約3百個をそれに加え昭和40年に完成したものである。
庭内には、お茶室和楽庵や、香雲亭がある。
(説明板より)
1602年 | 慶長 7年 | 徳川家康が西国の諸大名に二条城の築城を命じる。 |
1603年 | 慶長 8年 | 二条城完成(現在の二の丸部分)、家康が入城。 |
1611年 | 慶長16年 | 家康が豊臣秀頼と二条城会見。 |
1614年 | 慶長19年 | 12月、家康、豊臣家攻撃のため二条城を出陣。(大坂冬の陣) |
1615年 | 元和 1年 | 5月、再度豊臣を攻めるため大坂に出陣。(大坂夏の陣) |
1624年 | 寛永 1年 | 三代将軍家光、行幸をひかえ二条城の天守、行幸殿を造営。 |
1626年 | 寛永 3年 | 本丸・二の丸・天守が完成し現在の規模となる。 9月、後水尾天皇・中宮和子と共に二条城行幸(5日間) |
1634年 | 寛永11年 | 将軍家光上洛し、大軍を率いて入城。 このあと二条城には二条在番(大番頭4人、番衆50人)が置かれる。 |
1662年 | 寛文 2年 | 5月、大地震により城内各所が被災。 |
1699年 | 元禄12年 | 二条城代を廃し、定番2名各与力10騎、同心20人を以って管理させる。 |
1750年 | 寛延 3年 | 8月、雷により五層天守が焼失。 |
1788年 | 天明 8年 | 1月、市中出火の大火により本丸殿舎、本丸櫓などを焼失(天明の大火) |
1862年 | 文久 2年 | 将軍家茂の上洛をひかえ、二の丸殿舎の整備・仮設建物の造営に着手。 |
1863年 | 文久 3年 | 家茂、将軍として家光以来230年ぶりに二条城入城。 |
1866年 | 慶応 2年 | 徳川慶喜への将軍宣下が二条城で行われる。 |
1867年 | 慶応 3年 | 10月、二条城に40藩の重役を集め、大政奉還の会議が行われる。 二の丸御殿大広間において慶喜が大政奉還を上表。 |
1868年 | 明治 1年 | 1月、城内に太政官代(現在の内閣にあたる)が置かれる。 |
1871年 | 明治 4年 | 二の丸御殿内に府庁を置く。 のち一時陸軍省の所管となる。 |
1884年 | 明治17年 | 7月、二条離宮となる。 |
1893年 | 明治26年 | 京都御所にあった桂宮御殿を本丸に移築し、本丸御殿とする。 |
1915年 | 大正 4年 | 大正天皇即位の大典が行われ、大饗宴場を造営。(現・清流園の位置) |
1939年 | 昭和14年 | 宮内省より二条離宮が京都市に下賜される。 |
1940年 | 昭和15年 | 2月11日、恩賜元離宮二条城として一般公開が開始される。 |
1952年 | 昭和27年 | 文化財保護法制定により、二の丸御殿6棟が国宝に指定。 本丸御殿、隅櫓など22棟の建物が重要文化財指定を受ける。 |
1953年 | 昭和28年 | 二の丸庭園が特別名勝の指定を受ける。 |
1965年 | 昭和40年 | 清流園造成。 |
1982年 | 昭和57年 | 4月、本丸御殿の保存修理工事開始。 |
1990年 | 平成 2年 | 本丸御殿の保存修理工事完了。 |
1994年 | 平成 6年 | 二条城が世界遺産に登録される。 |
(参考:京都新聞出版センター『元離宮 二条城』)
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