二宮尊徳資料館

栃木県芳賀郡二宮町物井2013−2・物井コミュニティー施設


二宮尊徳資料館 平成20年7月19日

二宮尊徳(金次郎)が小田原藩主・大久保忠真公から桜町の復興の命を受けたのは、文政5(1822)年のことです。
尊徳はそれまでに努力して積み上げてきた田畑や家財をすべて売り払い、「一家を廃して万家を興すなり」という不退転の決意で、桜町の復興のために、文政6(1823)年に一家そろってこの地にやって来ました。
以来、毎日早朝から夜遅くまで、まさに「至誠」の文字のごとく粉骨砕身で復興のために努力しました。
徹底した廻村による領内の実情把握、農民たちの勤労意欲を高めるための表彰、荒れ地の開発、堰や堀などの治水の整備等・・・・・。
しかし、それは困難の連続でした。
そして、、一部の役人や仕法に不満を持つ人々による妨害などで、復興事業が行き詰った7年目の文政12(1829)年、尊徳は成田山での21日間の断食を行いました。
すると、村民は尊徳が不在であることによって、改めて桜町における尊徳の存在の大きさを知ったのです。
そして、これを境にして、村民や役人たちの気持ちがひとつになり、桜町の復興は順調に進展しました。
尊徳が実践した『桜町仕法』を、私たちといっしょに学びましょう。

(『二宮尊徳資料館』リーフレットより)

展示品(一例)

尊徳直筆の、米の引替依頼状。
毎年、領主への分度として定められた年貢米(1005俵)以外の収穫米は、御任米として尊徳の管理下に置かれ、これを各村の名主に預け、開発扶持米や夫食米として村内に貸し付けていました。
尊徳の初期の仕法のあり方を伝える、貴重な資料です。

出精者への褒美として与えられた鍬。
尊徳は、困窮した農民が夜逃げするのを止めて鍬を与え、「この鍬のあらん限り働けば必ず幸福になる」と言って励ましたと伝えられています。

尊徳が廻村の際に使用していた陣笠・脚絆。
ちなみに尊徳は、身長6尺(182cm)、体重25貫(94kg)という堂々たる体格をしていたと伝えられています。

尊徳が小田原藩主大久保忠真公より拝領し、それをさらに横田村名主の円蔵に与えたと伝えられています。

桜町陣屋から江戸や小田原への所用の旅の際、着用していた道中脇差です。

尊徳が小田原藩主大久保忠真公より拝領したと伝えられています。

尊徳は農民の生産意欲を高めるために表彰制度を取り入れました。
自らも表彰者を選びましたが、農民間の投票によって表彰者を選ぶ方法を重視し、当選者には鍬や鎌、時には現金を与えました。

桜町陣屋で使用されていたものと伝えられています。

(『二宮尊徳資料館』リーフレットより)


報徳訓の碑



『報徳訓』碑

(栃木県芳賀郡二宮町・二宮尊徳資料館の近く)





(平成20年7月19日)
桜町陣屋



桜町陣屋跡
(栃木県芳賀郡二宮町物井105−13・二宮尊徳資料館の裏)





(平成20年7月19日)
桜町二宮神社



桜町二宮神社
(栃木県芳賀郡二宮町・二宮尊徳資料館の近く)





(平成20年7月19日)
二宮金次郎墓域



二宮金次郎墓域
(栃木県芳賀郡二宮町大字物井102・蓮城院)





(平成20年7月19日)

開館時間 9:00〜16:30
休館日   月曜日(祝日・休日を除く)
        祝日・振替休日の翌日(土曜日・日曜日を除く)
        年末・年始(12月28日〜1月4日)
入館料   無料


二宮尊徳



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