西嶋八兵衛 平成16年2月7日

西嶋八兵衛 にしじま・はちべえ

文禄5年・慶長元年(1596年)〜延宝8年3月20日(1680年4月19日)

三重県津市 国道23号線丸之内商店街(歴史散歩道)でお会いしました。


遠江国浜松生れ。
1612年(慶長17年)津藩主藤堂高虎に仕える。
1619年(元和5年)二条城、翌年大坂城普請に関わる。
1625年(寛永2年)讃岐国に派遣され満濃池など多くの溜池を築造しました。
1648年(慶安元年)伊賀国雲出村に井手を完成。
同年、山城国・大和国の津藩領の城和奉行となりました。


西嶋八兵衛銅像



西嶋八兵衛像

(三重県津市)




(平成16年2月7日)

水の守護 西嶋八兵衛

高虎に重用された八兵衛は、干ばつに苦しむ地域に出向き、優れた土木技術と努力によって、全国のまちづくりに多大の貢献をしました。
当地においては「雲出井くもずゆの開削かいさく」があります。
戸木へきの取水堰せきをを作り分水ぶんすいして干ばつに悩む雲出本郷くもずほんごう町・長常ながつね町・伊倉津いくら町などの田を美田に改良しました。
また讃岐さぬき高松などの灌漑かんがい用水事業にも貢献しました。
日本三大公園の栗林りつりん公園の整備は有名です。
水の守護として、土木事業者、農業関係者、水商売の市民に崇あがめられています。

(説明銘板より)


上野市歴史民族資料館
上野市歴史民族資料館
(三重県上野市丸之内116−2)
近鉄伊賀線上野市駅下車徒歩5分

開館時間:午前9時〜午後4時30分
休館日:12月29日〜1月3日
入館料:大人200円、高・大学生150円、小・中学生100円

企画展展示室
平成15年度第3回企画展
「安民のもののふ 西嶋八兵衛之友ーその足跡と顕彰の歩みー」

会期:平成15年11月8日(土)〜平成16年4月11日(日)



訪問した時、偶然にも西嶋八兵衛の企画展が開催されていました。


(平成16年2月8日)

(企画展小冊子より抜粋・要約)

村治圓次郎の『西嶋八兵衛翁』などによれば、八兵衛は、慶長元年(1596)遠州(静岡県)浜松で生まれたと記しています。
ただし、八兵衛自身の由緒書などの史料にはその記載もなく、家伝によってまとめられたのかも知れません。
幼名は之尤ゆきまさと云い、八兵衛は通称です。
寛永12年頃に之尤を之友と改めたようです。
このほかに俳号として、木端の名を持ち、晩年は拙翁とも号していました。
八兵衛の父は、西嶋九郎左衛門之光と云います。
父九郎左衛門は、藤堂高虎に仕えていましたが、年老いたため一旦、藤堂家を辞し、父は浜松へ居を移したようです。
八兵衛が満16歳(数え歳17歳)になった慶長17年(1612)、駿河国(静岡県)の駿府(静岡市)で藤堂古采女(采女元則)の肝煎(斡旋)で高虎(当時56歳)に初見え、父の跡を継いで仕え始めました。
徳川家康が、駿府を隠退の地として、江戸城から移っていましたから、藤堂高虎も付き添うように屋敷を設けていたと考えられています。

八兵衛は、慶長17年から高虎の右筆(近習役・記録役)として仕えたようです。
関ヶ原の戦いや大坂の陣で高虎の傍らにあって、戦闘の記録を担当しています。
主人の高虎は、当時、築城の名人とされ、和歌山城今治城江戸城・丹波亀山城(京都府亀岡)・安濃津城(三重県津市)・伊賀上野城など数多くの城を築城してきました。
八兵衛もまた経験豊富な高虎の側に仕え、土木現場の実情や技術者集団に接するうちに、築城に関わる諸知識を習得していったと思われます。
元和5年(1619)、徳川家康は、藤堂高虎に京都二条城の修築を命じます。
高虎の監修の元、23歳の八兵衛が、その絵図の作成・設計の実務にあたります。
また、翌元和6年(1620)、大坂城の修築にも当っています。

戦乱の時代が過ぎ、それぞれの大名の支配地でも、安定した生活が営まれるようになると、生活の安定の基盤作りに関心が向いていきます。
各大名は、生産の最も基本となった農地の整備に、力を注ぐようにもなります。
また、その頃、各地を干ばつなどの被害が襲うようになり、八兵衛の力が発揮されるようになります。
大名の家臣でも、このような、民衆の生活と深く関わる民政担当の家臣を『民政臣僚』と呼びます。
藤堂藩では、この時代、八兵衛や山中為綱といった民政臣僚が活躍します。

八兵衛は、元和7年(1621)から寛永17年(1640)までの間、都合4回、通算で19年、讃岐に派遣されます。
八兵衛が25歳から44歳の働き盛りの頃でした。
藤堂高虎に仕える八兵衛が、何故、他家に派遣されたかと言うと、讃岐で17万3000石の領地を治めていた生駒正俊は、藤堂高虎の娘を夫人としていたからです。

日本最大の池として著名な香川県多度郡満濃町にある満濃池は、古くに築堤された池です。
空海が、嵯峨天皇の勅命を受けて、弘仁12年(1184)修復を完成させました。
その後、満濃池は、仁寿元年(851)に大決壊し、その後修復工事がされますが、元暦元年(1184)にも大決壊をします。
その後、修復されずに推移し、池は農地になっていました。
池としての機能の復活に大きな働きを果たしたのが、八兵衛でした。
八兵衛は、寛永5年(1628)10月にこの満濃池の修築工事に着手し、完成まで工事は2年5ヶ月にも及びました。
その後、、安政元年(1854)6月に起きた「安政の大地震」による大決壊まで、地域に稔りをもたらしていきました。
八兵衛は満濃池をはじめとして、大小90余りの池作りを行い、農業用水の確保を図りながら、幾つもの新田の開発も行って行きました。

客臣として仕えていた生駒家が、幕府より改易された事に伴い讃岐を引き上げた八兵衛は、寛永18年頃より正保2年頃までの5年間ほどを妻子とともに津の妻の実家である藤堂仁右衛門高経(義兄)の下屋敷で過ごしていたとされています。

やがて正保2年(1645)、八兵衛は、江戸で藩主藤堂高次のもと1000石の江戸家老加判役となりました。
この少し前、寛永期を中心とした頃に、藤堂藩支配地の伊賀や伊勢でも、大干ばつに襲われ、被害も甚大になって農村の疲弊が著しくなります。
高虎の跡を継いだ2代目藩主高次は、農村部の復興を目指し、正保3年(1646)、江戸より帰国します。
その折、八兵衛も藩主の命を受けて、藩主高次と共に帰国し、伊賀地域で溜池の新設29池、修理14池を行ったといわれています。
伊賀では、まとまった新田開発として、正保4年(1647)から山畑で新田開発を始めました。

慶安元年(1648)、西嶋八兵衛は52歳で、城和加判奉行に任ぜられました。
大和(奈良県)・山城(京都府)に広がる藤堂藩領約5万石の支配地を預かる奉行職に就任しました。
この時は、本城のあった安濃津(現:津市)に居宅を置いた状態で城和奉行を務めていたようです。
その後10年間、津で城和加判奉行を務めていましたが、万治元年(1658)、62歳になって伊賀奉行を拝命します。
このため、八兵衛は、津から上野へ転居することになりました。
しかし、後任の城和奉行の中小路五郎右衛門が、その後まもなく死去する事態となります。
その結果、八兵衛が再度、城和奉行として復職することとなりました。
途中、わずかな中断期間がありますが、52歳の慶安元年(1648)から81歳の延宝5年(1677)の引退まで約29年間、城和奉行として執務しました。
引退後3年経った延宝8年(1680)3月20日、亡くなります。
享年84歳。


西嶋八兵衛旧宅跡



西嶋八兵衛旧宅跡
(三重県上野市丸之内・伊賀信楽古陶館)




(平成16年2月8日)



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