二式大型飛行艇12型


二式大型飛行艇 平成19年3月29日

二式大型飛行艇12型(H8K2)

二式大型飛行艇は、昭和15年(1940)に初飛行した当時世界一の高性能を誇った大型飛行艇です。
昭和17年(1942)に旧日本海軍に正式採用され、偵察、哨戒、輸送など多方面に活躍しました。
終戦後、二式大型飛行艇に注目した米国は本国に運び、各種の調査を行ってその高性能に驚嘆したといわれています。
しかし、米国内に保管されてから約30年を経過した昭和53年(1978)世界で唯一残された本機は適切な引き取り手が無ければ破棄されることとなり、これを知った船の科学館の故笹川良一館長が資金援助と受け入れを表明、米国議会の返還承認の後、昭和54年(1979)日本に里帰りをしました。
以来、船の科学館では次代を担う青少年に本機の雄大な構想と卓越した技術力を知っていただくため、当時の姿に復元し、保存展示をしておりましたが、平成16年(2004)4月24日当地で引渡し式が挙行され、船の科学館(神山榮一館長)より、海上自衛隊第1航空群(志賀洋介群司令)が引渡しを受け、展示公開しているものです。

(説明板より)

二式大型飛行艇



二式大型飛行艇
(鹿児島県鹿屋市・海上自衛隊鹿屋航空基地)

詫間航空隊所属「T-31号機」
昭和18年3月に川西で生産された26号機。


(平成19年3月29日)

二式大型飛行艇 主要目

全長:28.1メートル
全幅:38.0メートル
全高:9.2メートル
武装:20mm機銃×5 他
発動機名:火星22型(1,850馬力)
型式:空冷・星型14気筒
最大速度:453.2km/時
航続距離:7,152km(最大)

(説明板より)

海上自衛隊鹿屋航空基地



海上自衛隊鹿屋航空基地
(鹿児島県鹿屋市)





(平成19年3月29日)

二式大艇は、胴体が2階建てになっているため、離着水の難しい飛行艇だったそうです。

(平成16年6月16日記)


移転前

二式大型飛行艇12型 平成15年6月20日

二式大型飛行艇12型(H8K2)

二式大型飛行艇は、昭和15年(1940)に初飛行した当時世界一の高性能を誇った大型飛行艇です。
昭和17年(1942)に旧日本海軍に正式採用され、偵察、哨戒、輸送など多方面に活躍しました。
終戦後、二式大型飛行艇に注目した米国は本国に運び、各種の調査を行ってその高性能に驚嘆したといわれています。
しかし、米国内に保管されてから約30年を経過した昭和53年(1978)、世界で唯一残された本機は適切な引取り手が無ければ破棄されることとなり、これを知った当館の故笹川良一初代館長が資金援助と受け入れを表明、米国議会の返還承認の後、昭和54年(1979)日本に里帰りをしました。
当館では、次代を担う青少年に本機の雄大な構想と卓越した技術力を知っていただくため、当時の姿に復元し、保存展示をしております。

(説明板より)


船の科学館と二式大艇 「船の科学館」に屋外展示されています。

東京都品川区東八潮3−1
新交通「ゆりかもめ」新橋駅より(16分)船の科学館駅下車




(平成15年6月20日訪問)
通称:二式大艇
二式大艇
二式大艇 二式大艇

二式大型飛行艇 主要目

全長:28.1メートル
全幅:38.0メートル
全高:9.2メートル
武装:20mm機銃×5 他
発動機名:火星22型(1,850馬力)
型式:空冷・星型14気筒
最大速度:453.2km/時
航続距離:7,152km(最大)

(説明板より)


この二式大艇は鹿児島県鹿屋にある海上自衛隊鹿屋基地史料館に移管されることになりました。
平成15年12月17日、石破茂防衛庁長官らが出席して、「船の科学館」にて譲渡式が行われました。
飛行艇は来月以降に船で鹿児島まで運ばれるそうですが、鹿屋基地での展示開始時期は未定との事です。

(平成15年12月19日記)


【二式飛行艇】

昭和16年(昭和17年2月5日?)制式化。
高度4000mで巡航速度160ノット。
航続力は3860マイル。
攻撃兵器として魚雷2本または800キロ爆弾2発または250キロ爆弾8発を搭載可能。
輸送用36機を含み合計167機が生産された。
終戦時、1機が米軍に引き渡された。(終戦時の可動機は3機)

飛行艇に関係する航空隊
横須賀航空隊(大正5年4月1日開隊)
佐世保航空隊(大正9年12月1日開隊)
館山航空隊(昭和5年6月1日開隊)
佐伯航空隊(昭和9年2月15日開隊)
横浜航空隊(昭和11年10月1日開隊)・艦隊所属
  昭和16年9月頃から移動を開始。
  本部をマーシャル群島のヤルートに置き、周辺の各離島基地に兵力を展開。
  昭和17年4月時点での本部所在地はラバウル(16機)
  昭和17年8月7日、ソロモン群島ツラギにおいて、米機動部隊の奇襲を受けて玉砕。
  昭和17年11月1日、横浜にて再建。第801航空隊(801空)に呼称改変。
  昭和18年5月頃、第一線機は九七式大艇から二式大艇に全面的に装備を変換する。
  昭和19年11月以降、飛行艇作戦部隊は801空に一本化される。
  外地の基地をすべて撤収し、詫間基地に集結して作戦を続行。
  昭和20年2月10日、801空は大艇と中攻(攻撃第703飛行隊)の混合索敵隊となり、第5航空艦隊傘下に編入される。
  (二式大艇12機、クルー20組)
  昭和20年1月の飛行艇の生産中止に伴い、輸送部隊を除く全飛行艇隊(教育部隊、901空を含む)を吸収合併する。
  昭和20年4月25日、搭乗員教育の停止により、飛行艇隊が801空から分離。
  801空は中攻隊のみとなる。
東港航空隊(昭和15年11月15日開隊)・艦隊所属
  昭和16年11月、全力(九七式大艇24機)をパラオ基地に集結。
  以後の機動作戦に備える。
  昭和17年4月時点での本部所在地はアンダマン(インド洋)(16機)
  昭和17年11月1日、851空に呼称改変。
  昭和18年5月頃、第一線機は九七式大艇から二式大艇に全面的に装備を変換する。
  主として南勢方面に展開。一部は北方(アリューシャン)作戦のためキスカ島に分派。
  横浜空のツラギ玉砕により、総力をソロモンに集結して奮戦。
  その後、ガダルカナル島の陥落に伴い、再びインド洋、ジャワ方面に転進。
  昭和19年9月20日、兵力の漸減により801空と合併し、解隊となる。
第14航空隊(昭和17年4月1日開隊)
  横浜空・東港空の2隊48機を3隊(16機づつ)に分割して新設された。
  昭和17年4月時点での本部所在地はヤルート(16機)
  昭和17年11月1日、802空に呼称改変。
  昭和18年5月頃、第一線機は九七式大艇から二式大艇に全面的に装備を変換する。
  昭和19年4月1日、サイパンにおいて解散し、そのまま801空と合併。
  昭和19年6月15日、米軍のサイパン上陸により、その大部分が玉砕した。
詫間航空隊(昭和18年6月1日開隊)
  各地の水上偵察機・飛行艇搭乗員の教育を一元化した練習航空隊
  昭和19年3月、飛行艇教育を停止する。
  昭和20年4月25日、搭乗員教育の停止により、練習航空隊の詫間航空隊は解散。
  詫間空は教育部隊から作戦部隊に改編。
  801空から分離した飛行艇隊と水上偵察特攻隊とともに新たに詫間航空隊を編成し、第5航空艦隊に編入される。
  詫間空飛行艇隊と名称を変更。
  昭和20年8月23日、詫間において解散。
901航空隊(昭和18年12月10日開隊)
  第一線から退いた九七式大艇を集結させた飛行艇対潜部隊。(主基地は東港、指宿)
  昭和20年1月の飛行艇生産停止に伴い、801空に合併され解隊。

クルーの編成
大型機の機長は階級の上下に基づき、操縦・偵察のいずれかが機長となる。
機長は、空戦時に操縦席にいては全般の指揮ができないため、必ず指揮官席についた。
このため、パイロットが機長の場合は、パイロットは他に2名配員した。
空戦に入った場合、機長及び操縦2名、搭乗整備員(搭整)、通信各1名は所定配置を離れず、他は全部機銃に配員するよう配慮された。
したがって九七式大艇は11名、二式大艇は11〜13名を1個のクルーとしていた。
固有配置は、指揮官1名、操縦、偵察、レーダー(のちに追加)、通信、搭整各2名、二式大艇は見張り兼射手2名を追加した。

(参考: 日辻常雄 著 『最後の飛行艇』 文庫版新戦史シリーズ66 朝日ソノラマ 1994年9月 第1刷発行) 

(平成28年12月8日 追記)


【K作戦】(二式大艇による真珠湾攻撃)

十三試大艇は、長距離哨戒攻撃の目的をもって、競争試作の結果誕生したもので、昭和15年12月31日に初飛行をした。
以後、昭和17年2月までに5号機までが完成し、昭和17年2月5日に二式大艇として制式化された。

昭和16年12月8日の開戦劈頭の真珠湾攻撃は大戦果をあげたが、その後の偵察の結果、米軍は真珠湾の被害復旧作業に専念し、灯火管制もなしに昼夜兼行で作業を続行していることが判明した。
何とかこの復旧作業を妨害する手はないものかという発想から大型飛行艇による攻撃が計画された。
二式大艇を使用すれば、南洋基地を発信し、潜水艦による補給を実施して、ハワイ往復は可能である。
米側の復旧作業を妨害して精神的打撃を与えるため、少数機によるゲリラ攻撃の続行により、あわよくばハワイを根拠地とする米艦隊をおびき出して、決戦を強要しようという、遠大なる計画を考えた。

昭和17年1月15日、伊22潜水艦がフレンチフリゲート環礁を偵察し、環礁内での潜水艦による大艇への燃料補給が可能であることを確認。
昭和17年1月16日、大本営は伊15、伊19、伊26の3隻の潜水艦に対しクェゼリンにおいて燃料補給施設工事の実施を命じる。
伊号潜水艦の小型水上偵察機の格納筒に航空燃料タンクを設置して大艇へ送油できるように改造。(2月14日に工事完了)
昭和17年2月7日、横須賀航空隊の二式大艇2機と2個(20名)のクルーおよび予備搭乗員、整備員十数名が横浜航空隊付に転出。

1番機(3号機)
指揮官兼機長:橋爪寿雄大尉
2番機(5号機)
機長:笹生庄助少尉
操縦 橋爪寿雄 大尉 操縦 笹生庄助 少尉
小川新一 一飛曹 庄司金吾 一飛曹
森藤福己 三飛曹 勝野辰四郎 二飛曹
偵察 佐々木太兵衛 少尉 偵察 西川善雄 一飛曹
風間金輔 一飛曹 菊地吉人 一飛曹
電信 仁木島正憲 一飛曹 電信 梅田 実 一飛曹
山田敏秋 二飛曹 宮谷 勇 二飛曹
鬼武善高 一飛 町田六郎 一飛
搭乗整備 東 嘉一 一整曹 搭乗整備 高松 宏 一整曹
佐藤政雄 二整曹 山中徳一 二整曹

昭和17年2月12日早朝、二式大艇2機(3号機・5号機)が横須賀を出発。
2月13日、サイパンを経由してトラック島に到着。
2月14日、最後の進出基地ヤルートのイミエジに到着し、横浜航空隊の指揮下に編入される。
2月15日から訓練。
2月24日・25日、夜間400マイル進出の航法訓練を実施。
2月26日、すべての訓練を終えて、ウオッゼへの進出を待つ。
3月2日、二式大艇2機は、ヤルートからウオッゼに進出し、燃料・爆弾(各機、250キロ爆弾4個)の搭載を完了して待機。
3月4日、午前0時25分、出撃。
フレンチフリゲート環礁で、伊15、伊19潜水艦から補給を受ける(各機、約1時間で2000リットル)
午後9時頃、1番機がオアフ島カナエ岬付近に達する。(2番機との電話連絡が不良となり単独行動)
1番機は真珠湾に突入し、「1010ドック」(別名:テンテンドック)を目標としたが、探照灯、対空砲火に加え、雲により視認できず、やむなく推測爆撃で全弾を投下。
雲のため戦果は不明だが「奇襲成功」を基地に打電する。
米軍の調査では、テンテンドックの東方5マイルのタンタルス山中に爆弾は落下したらしい。(人員の損害無し)
2番機は爆撃進路に入ったが、雲のため投弾時期を失し、再突入して午後9時半ごろ推測爆撃により全弾投下。
米軍の調査では爆弾は大きく目標を外れ海上に落下したという。
爆撃終了後、両機は合同することなく、オアフ島を離脱。
午後8時6分にはレーダーが捕らえた目標(二式大艇)に対し、P-40戦闘機4機が邀撃に発進していたが、両機とも遭遇しなかった。
2番機はフレンチフリゲート環礁離水時の損傷修理のためウオッゼ基地に向かい、3月5日午前9時10分に無事に帰投。
1番機は燃料に余裕もあり司令部への報告もあって、ヤルートに向かい、3月5日午前9時20分に無事にヤルートに帰投した。

(参考: 日辻常雄 著 『最後の飛行艇』 文庫版新戦史シリーズ66 朝日ソノラマ 1994年9月 第1刷発行) 

(平成28年12月8日 追記)


1942年3月4日に、二式大艇が真珠湾を攻撃した時のジオラマ
二式大艇 燃料補給担当の伊第19号潜水艦

(平成22年6月5日)

【ハワイ・陸軍博物館】 (旅日記参照)

A SECOND BOMBING

Kawanishi H8KI flying boat Y-71,one of two that made a long-range reconnaissance and night bombing attempt
against Pearl Harbor,March 4,1942.No damage was done,the bombs fell harmlessly on Tantalus,and the planes
returned to their base in the Marshall Islands.

(説明文より)

(平成27年6月24日・追記)


【二式輸送飛行艇 「晴空」】

昭和18年初頭に、二式大艇の輸送機化が計画され、同年末、「二式輸送飛行艇」として改造型が完成。
翌年から就役し始めた。
艇体内は上下二層に分かれ、合計5つの客室に乗客を最大64名収容でき、非常口、防音、客席窓など所用装備を施し、患者輸送も可能であった。
改造や新造など合計36機造られ、のちに「晴空」32型と改称された。

(参考: 日辻常雄 著 『最後の飛行艇』 文庫版新戦史シリーズ66 朝日ソノラマ 1994年9月 第1刷発行) 

(平成28年12月8日 追記)


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