西尾城 にしおじょう

愛知県西尾市錦城町


本丸丑寅櫓 平成20年4月4日

西尾城

承久じょうきゅうの乱(1221)の戦功により三河国の守護に任じられた足利義氏が築城した西条城がはじまりと伝えられます。
足利氏は吉良氏と改め、この地を治めます。
戦国時代末には牧野成定、酒井正親、田中吉政と城主は代わり、城域も拡大しました。
田中氏の時代に城域はさらに拡張されほぼ確定しました。
田中氏の転出にともない、慶長6年(1601)に本多康俊が西尾2万石の藩主として入りました。
その後、藩主は松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏と頻繁に代わりますが、いずれも譜代大名でした。
明和元年(1764)に山形から大給松平氏が6万石西尾藩主として来て以来、廃藩まで5代続きました。
西尾城の中核はこの辺りであり、城下町は回りを外堀で囲んだ特色のある構えをしていました。

(リーフレットより)

丑寅櫓




丑寅櫓






(平成20年4月4日)

西尾城 丑寅櫓

丑寅(東北)櫓は本丸隅櫓の一つで、他の櫓に比べ高く、三層の櫓であった。
この櫓は城下を一望できることから、物見櫓として利用されたものと考えられる。
「西尾城郭覚書」によって、平成8年に再建。
小規模であるが、西尾城においては重要な建物の一つである。

西尾市教育委員会

(説明板より)

丑寅櫓内部 丑寅櫓内部
丑寅櫓内部
丑寅櫓から見た二之丸方向
丑寅櫓 丑寅櫓
丑寅櫓
本丸表門跡




本丸・表門跡






(平成20年4月4日)

西尾城本丸表門跡

姫丸から本丸に至る位置に築かれた二階建ての楼門ろうもん式の門で、規模が、東西2間2尺(4.2メートル)、南北4間2尺(7.9メートル)で、高さ2丈4尺5寸(7.4メートル)でした。
現在、南側の土塁と石垣は失われましたが、北側の丑寅櫓から伸びる土塁を断ち切る面に積まれた野面積みの石垣と、石垣に接して2つの礎石のみが残されています。
本丸は土塁が巡り、四隅に櫓が築かれていました。
その中で東北隅の最も規模の大きい櫓が丑寅櫓です。
郭内には西尾城守護神である御釼八幡宮があり、本丸は西尾藩の心の支えとなった郭と想像されます。
よってこの神社は代々の城主に尊崇され、拝殿前には城主寄進の石灯篭が建ち並んでいます。

平成18年2月
西尾市教育委員会

(説明板より)

西尾城址の碑



西尾城址の碑

(本丸跡)





(平成20年4月4日)
西尾神社



本丸跡

(西尾神社)





(平成20年4月4日)

西尾神社
祭神 殉国の英霊640余柱

由緒
昭和20年8月15日終戦ノ詔勅下リテ大東亜戦争モ終結シ多クノ勇士カ戦地ヨリ帰還シ漸ク世ノ中ハ平静ニ帰シ人心ニモ平和カ蘇リタリ
然ルニ此ノ大戦ニ召サレテ勇躍従軍各地ニ転戦武功ヲ樹テラレ西尾地区出身620余勇士ハ祖国ノ御盾トナリ散華セラレ護国ノ神ト化シ給ウ
昭和27年頃地区挙ケテ神社ノ創建ヲ議シ直チニ建設委員9名ヲ選ヒ時ノ町役場ヨリ旧西尾城址ノ一画ヲ借リ受ケテ昭和28年起工土盛工事其他ノ作業ニ全町民協力ノ下一致団結建設ニ東奔西走昭和30年3月現神社ノ創建ヲ見タリ
爾来殉国ノ諸霊鎮座マシマシテ年々歳々其神徳ヲ讃仰シ英霊ノ御心ヲ安ンスルト共ニ聊カ後人ノ訓化ニモ資セントス
遺族並ニ大方ノ市民斉シク感謝景仰ノ念ヲ捧ケテ参拝者日夜ソノ後ヲ絶タサルニ至レリ
茲ニ世ノ変遷ト先人ノ労苦ヲ偲ヒテ由緒ヲ記シ後世市民ノ上ニ永遠ノ御守護ヲ賜ランコトヲ祈念ス
敬白

附記
日清日露ノ両大戦従軍者並ニ今次大戦ニ参加セラレシ軍属戦病没者ノ英霊モ合祀ス

昭和53年10月
西尾神社奉賛会

(碑文より)

本丸井戸



本丸井戸
(西尾神社脇)





(平成20年4月4日)
石垣 堀
石垣
丸馬出




二の丸・丸馬出

(西尾市歴史公園)




(平成20年4月4日)

丸馬出

砂州を敷いた部分は発掘調査で明らかになった深さ2.5メートルの二重の堀の跡です。
堀で丸く囲まれた部分は馬出と呼ばれる小曲輪で出撃に際して集合場所であり、虎口を守るための重要な場所でした。
16世紀後半の戦国時代に築かれたと推定されます。

(説明板より)

鍮石門




二の丸・鍮石門

(西尾市歴史公園)




(平成20年4月4日)

西尾城二之丸鍮石門ちゅうじゃくもん

二之丸御殿の玄関の前にあった門で、古くは「中柵門」、「玄関前門」と呼ばれていました。
大給松平氏が入城した際、江戸城の本丸御殿の前門であった鍮石門の名に因み、この文字を充てたと考えられます。
御殿に至る高貴な門という意味です。
門は楼門ろうもん式で、規模が、東西2間2尺(4.2メートル)、南北4間半(8.2メートル)で、高さ2丈2尺5寸(6.2メートル)でした。
この門前の長さ18.4メートルを測る内堀に架けられた欄干付の土橋は、城郭中で最も規模の大きなものでありました。
二之丸は西尾城で最も重要で中心となる郭で、中央に西尾藩の政庁である二之丸御殿を置き、北西隅には三重四階の天守を配置していました。

平成18年2月
西尾市教育委員会

(説明板より)

辰巳櫓跡




姫丸・辰巳櫓跡






(平成20年4月4日)

姫丸辰巳櫓跡

姫丸は、南・東・北は塀により、西は内堀により囲まれる狭小な縄張りで、本丸表門前の馬出しの役割を担っていた。
そして、西尾資料館の北方東側に姫丸門があり、鍮石門前の広場と通じていた。
木立の茂る部分は庭園風に改造されているが、南東隅の平坦な場所に辰巳櫓があった。
隅櫓は東西7.3メートル、南北5.5メートル、高さ8.2メートルの二重の建物である。

(〜以下略〜)

(説明板より)

姫丸門跡



西尾城姫丸門跡

(西尾市資料館)





(平成20年4月4日)

近世西尾藩主一覧
城主 前封地 西尾所領石高 西尾在城 転封地
本多縫殿助康俊 (千葉県)
下総小篠
5千石
2万石 慶長6(1601)2月

元和3(1617)10月
(滋賀県)
近江膳所
3万石
松平左近将監成重 (栃木県)
下野板橋
1万石
2万石 元和3(1617)10月

元和7(1621)7月
(京都府)
丹波亀山
2万2千2百石
本多下総守俊次 (滋賀県)
近江膳所
3万石
3万5千石 元和7(1621)7月

寛永13(1636)6月
(三重県)
伊勢亀山
5万石
幕府代官
鳥山牛之助
鈴木八右衛門
    寛永13(1636)6月

寛永15(1638)4月
 
太田備中守資宗 (栃木県)
下野山川
1万5千石
3万5千石 寛永15(1638)4月

寛永21(1644)2月
(静岡県)
遠江浜松
3万5千石
幕府代官
鳥山牛之助
鈴木八右衛門
       
井伊兵部少輔直之(※) (群馬県)
上野安中
3万石
3万5千石 正保2(1645)6月

万治2(1659)1月
(静岡県)
遠江掛川
3万5千石
増山弾正少弼正利 (神奈川県)
相模高座
1万石
2万石 万治2(1659)2月

寛文2(1662)7月
 
増山兵部少輔正弥まさみつ   2万石 寛文2(1662)9月

寛文3(1663)7月
(茨城県)
常陸下館
2万石
土井兵庫頭利長 (茨城県)
下総大輪
2万石
2万3千石 寛文3(1663)7月

延宝9(1681)4月
 
土井式部少輔利意としもと(忠)   2万3千石 延宝9(1681)4月

享保9(1724)4月(閏)
 
土井淡路守利庸としつね   2万3千石 享保9(1724)6月

享保19(1734)4月
 
土井伊予守利信   2万3千石 享保19(1734)6月

延享4(1747)2月
(愛知県)
三河刈谷
2万3千石
三浦主計頭義理よしさと (愛知県)
三河刈谷
2万3千石
2万3千石 延享4(1747)2月

宝暦6(1756)7月
 
三浦志摩守明次   2万3千石 宝暦6(1756)8月

明和元(1764)6月
(岡山県)
美作勝山
2万3千石
松平和泉守乗祐(佑)のりすけ (山形県)
出羽山形
6万石
6万石 明和元(1764)6月

明和6(1769)9月
 
松平和泉守乗完のりさだ   6万石 明和6(1769)10月

寛政5(1793)8月
 
松平和泉守乗寛のりひろ   6万石 寛政5(1793)10月

天保10(1839)11月
 
松平和泉守乗全のりやす   6万石 天保10(1839)11月

文久2(1862)11月
 
松平和泉守乗秩のりつね     文久2(1862)11月

明治2(1869)6月
 

参考:『西尾城下町ガイドブック』より

(※)=直之は直好の誤記?


新門跡




三の丸・新門跡






(平成20年4月4日)

西尾城三之丸新門跡

城下町の東側から城内への入り口にあって、城の裏方に当たる搦手からめてと呼ばれる役割を持っていました。
門は土居の塁線より内部に縦6間(10.8メートル)・横10間(18.0メートル)の空き地をもつ内枡形の門で、門内の四方を高さ9尺5寸(2.85メートル)の石垣が囲んでいました。
堀側に「一の門」と呼ばれた高麗門こうらいもん、郭内に北向きの「二の門」と呼ばれた楼門ろうもん式の門を配置しています。
規模は、楼門が、東西5間(9.1メートル)、南北2間3尺5寸(4.7メートル)、高さ2丈3尺8寸(7.2メートル)、高麗門が、東西2間半(4.5メートル)、高さ1丈5尺(4.5メートル)です。
この門から内部に入ると、南に帯曲輪が伸び、西に向かうと太鼓門前に至ります。

平成18年2月
西尾市教育委員会

(説明板より)


太鼓門跡



東の丸・太鼓門跡

(西尾市立西尾小学校)





(平成20年4月4日)
太鼓門跡周辺




東の丸・太鼓門跡周辺






(平成20年4月4日)

西尾城東之丸太鼓門跡

三之丸より東之丸への入り口にあって、2階建ての楼門式の門で、田中吉政の三之丸造成以前には、この門は「追手門」、すなわち大手門の役割を担っていました。
門は、土橋を渡ると突きあたる石垣上に築かれた土塀に接続して東向きに建てられていました。
規模は、東西2間半(4.5メートル)、南北5間半(9.9メートル)、高さ2丈5尺5寸(7.65メートル)です。
塀の向こうの東之丸内には報時報知の太鼓を打ち鳴らす「時之櫓」ともいわれた太鼓櫓があり、この門の名前の由来となっています。
また門を入ると立ち並ぶ西尾藩米蔵の横を通り、外喰御門そとぐらいごもん、内喰御門うちぐらいごもんを経て、二之丸鍮石門前に至ります。
軍事上の配慮からいくつもの屈折や多くの門をくぐる複雑な通路となっていました。

平成18年2月
西尾市教育委員会

(説明板より)


大手門跡




三の丸・大手門跡






(平成20年4月4日)

西尾城三之丸大手門跡

城下町から城内に入る入り口、追手にあたり、城の正面の門です。
門は土居の塁線より突き出した6間(10.8メートル)の方形の空き地をもつ外枡形の門で、四方を高さ9尺5寸(2.85メートル)の石垣で囲み、強固にしています。
敵の侵入を困難にし、見方の出撃進退を容易にさせるため、枡の堀側に「一の門」と呼ばれた高麗門こうらいもん、郭内に「二の門」と呼ばれた楼門ろうもん式の門を配置していました。
規模は、楼門が、東西5間2尺(9.6メートル)、南北2間4尺(4.8メートル)、高さ2丈5尺5寸(7.65メートル)、高麗門が、東西1間4尺(3メートル)、高さ1丈3尺(3.9メートル)です。
門の前の土橋は欄干つきで、長さ11間(20メートル)でした。
この門を入った三之丸北西側には家老今井氏の広大な屋敷が構えられ、土橋の左方には西尾城下の高札場がありました。

平成18年2月
西尾市教育委員会

(説明板より)


鶴ヶ崎門跡



鶴ヶ崎門跡
(勤労青少年ホーム近く)





(平成20年4月4日)

追羽門跡



追羽門跡
(市立図書館の近く)





(平成20年4月4日)

天王門跡



天王門跡

(伊文神社脇)





(平成20年4月4日)

西尾城天王門跡

東海道藤川宿から小島橋を渡り西尾郷へ通じる主要道路が城下に入り、その入口に位置する門です。
門の前には大きな広場があり、門と土塁の間には柵が設けられていました。
東に向く門は、本柱の上に切妻破風の屋根がつき、その控柱の上にも屋根を設けた高麗門形式の門が建てられていました。
規模は、幅(南北)2間2尺(4.2メートル)、高さ1丈3尺5寸(4.05メートル)です。
門の内側に、東西6間4尺(12メートル)、南北7間(12・6メートル)の空き地をもつ枡形を作り、番小屋を設けて三道具が立てられていました。
この北側には土塁を隔てて伊文神社の鳥居、宮司家の塀が建ち並び、門を南に出て西に折れ、足軽屋敷中組の木戸前を経ると、天王町―中町に至ります。

平成19年3月
西尾市教育委員会

(説明板より)


義倉蔵



義倉蔵
(愛知県西尾市・伊文神社)





(平成20年4月4日)

義倉蔵
区分 西尾市指定・史跡
指定 昭和57年1月29日
管理者 西尾市伊文町 伊文神社宮司 新家正冬

徳川時代の終り頃には災害、凶作、飢餓が全国的に起ったが幕府や諸藩はこれに対処する政治力を失っていた。
西尾の城下町にも食糧難、物価高に苦しむ窮民がいだいに増加した。
この時に窮民救助に立ちあがったのが城下町の富裕町人たちであった。
若い頃、遠く長崎の鳴滝塾でシーボルトに学んだ、平井長兵衛を初め、鳥山伝兵衛、吉見善次郎、彦坂倭助、鳥山利兵衛、杉浦利右衛門、岩崎茂兵衛、外山清吉らが世話人となって安政元(1854)年に窮民救助団体として義倉蔵を創立した。
義倉の運用には、西尾藩御用達商人、一般町民の寄付米および藩からの借用米をあてた。
そしてこの運用米の貯蔵のためにここに現存する義倉蔵が、安政4年に建造された。
以後、幕末・明治・大正・昭和の各時代を通じて、この義倉蔵の貯蔵米の運用によって多くの城下町窮民が救われたのである。
特に万延元(1860)年の大風水害、明治22年の大津波、大正7年の米騒動に際しての、炊き出しや安売米の供給などは歴史に残る大事業で、よく西尾城下町の細民の生活を支えたのである。
しかもその事業が町民自身の手でなされたことに特別の意義がある。
幕末当時、諸藩にも義倉が組織され、義倉蔵が建造されたが、町民自身の発企で成立し、運営され、今日ここに見るようにほぼ完全な形で義倉蔵が残っているのは全国的にまれである。

昭和60年3月
西尾市教育委員会

(説明板より)

伊文神社



伊文神社

(愛知県西尾市伊文町17)





(平成20年4月4日)

伊文神社

神社等級 6等級社
鎮座地  西尾市伊文町17番地
祭神    素盞鳴尊すさのおのみこと・大己貴命おおむなちのみこと・文徳天皇もんとくてんのう

文徳もんとく天皇(827〜858)の皇子八條宮が渥美郡伊川津より西尾に御転住の際、天王社(現 伊文神社)八幡社(現 御釼八幡宮)も共に西尾の地に随遷ずいせんした。
当初は宮町(当時は伊文いもと称した)に祀られたが後醍醐天皇の元享年中(1321〜4)現在地(当時は伊文山いもやまと称した)に移った。
一方八幡社は承久3年(1221)足利義氏が西條城(西尾城)を築いた時、松山(現在の山下)より城内へ移されその守護神として祀られた。
社名も天王社から、伊文山天王いもやまてんのう・伊文山牛頭天王いもやまごずてんのう、後には伊文社いもんしゃ・伊文天王いもんてんのうとも称され明治元年より伊文神社となった。
西尾の産土神うぶすながみとして歴代城主を始め人々の崇敬厚く、朱印地18石5斗を有した。
安政元年11月29日正一位となる。
例祭である祇園祭は江戸時代より大変盛んで、みこしの渡御とぎょを始め天王町のしし舞、肴町の大名行列、本町の手踊り等は今も受け継がれている。

平成元年3月

(説明板より)


14代西尾城主松平乗全の墓



14代西尾城主・松平乗全と奥方の墓
(愛知県西尾市・盛巌寺)





(平成20年4月4日)
盛巌寺



盛巌寺
(愛知県西尾市馬場町70)





(平成20年4月4日)

久昌山盛巌寺に就いて

当山は大給おぎゅう松平家菩提所であり大給松平家14代の西尾城主松平乗全のりやす公と奥様の墓があります。
松平家は代々重要な幕閣にあり特に公は弘化2年3月(1845)老中職に就かれ安政2年(1855)病の為老中職から離れ、和歌をたしなみ四季折々にこよなく歌を愛され平穏な日を送っておられしも、安政5年(1858)再び老中職に就かれたが安政7年=万延1年(1860)桜田門外の変が起り、時の大老井伊直弼が殺害されその責を負って老中職を辞し、明治3年7月6日に御逝去されている。

建立 天正18年(1590)
開基 大給松平家6世の家乗
開山 総泉寺(江戸)第8世傳でん英大和尚
本尊 聖観世音菩薩の胎内仏があり、行基菩薩の作である。
脇仏
西尾藩主に尊崇されている浪切不動明王が西尾城内にあったが、廃藩置県から当山に依存され毎年4月29日に浪切不動大祭を行っている。
寺宝
涅槃像(狩野探幽作)慶安3年(1650)大給松平家7世乗壽のりながの寄贈

(説明板より)


桜田門外の変と松平乗全

万延元年(1860)桜田門外に井伊大老が討たれた時、その行列の後に続いていたのが、乗全で、銃声一発、乗全の行列は道を換えて難を逃れたという。


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