延応元年(1239年)〜応長元年(1311年)6月26日
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日弁の墓 (茨城県高萩市赤浜・高萩清松高校近く) (平成19年9月11日) |
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日弁の墓 (茨城県高萩市赤浜・高萩清松高校近く) (平成19年9月11日) |
中老越後阿闍梨日弁聖人
聖人は、もと天台の学僧にして、日蓮大聖人身延山在■中、その教化に浴せる高弟なり。
法華経弘通の大願やみ難く、夙に日本北辺の開教を志し、冨士山麓を後に、静岡、神奈川を■て千葉に入る、更に茨城、福島、宮城各県に亘り宣教、多くの寺院を開創す。
宮城県角田市佐倉に至り、説法中、暴徒の凶刃に遭い殉教さる。
随行の弟子2人、信徒4人等、急ぎ遺体を擔い、敵地を逃れ、当地に到着するや、柩動かず、よって荼毘に付し、この地に埋葬すと。
時に応長元年(西暦1311年)6月26日午の刻、御歳73才(妙法寺過去帳による)
嗚呼、死身弘法の法将、教団史上一大光彩を放つ俊傑たり。
因みに現地は当時の法華三昧堂(旧妙法寺)跡にして、聖人が数年に及び止住し、四方に正法を宣布せる畄魂の霊地なり。
南無妙法蓮華経
(碑文より)
【日弁】
越後房日弁は日蓮の弟子・日興に学び、日蓮にも教えを受けた中老である。
日弁はもともと真言宗の僧であり、日蓮に「真言亡国」を抗議したが逆に折伏され、これが縁で日興の弟子となった。
日弁は上総国鴻巣の鷲山寺を拠点に、太平洋側を北上しながら布教し、嘉元元年(1303年)、常陸国多珂郡に入り、赤浜の地に妙法寺、願成寺、安国寺を開いている。
さらに陸奥国伊具郡にまで布教に行ったが、応長元年(1311年)に同地で客死した。
弟子たちは、日弁の柩を携え、上総の鷲山寺に戻る途中、赤浜の地で柩が動かなくなり、妙法寺に葬ったと伝えられる。
それ以来、赤浜は日蓮宗の拠点となった。
妙法寺の過去帳は、応永年間から庶民層の記載が現われ始め、その範囲は現在の高萩市から北茨城市に及んでいる。
(参考:『特別展 常陸南北朝史〜そして、動乱の中世へ〜』 茨城県立歴史館 平成26年2月発行)
(令和2年9月30日 追記)
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