日蓮幼時像 平成15年6月26日

日蓮 にちれん

承久4年2月16日(1222年3月30日)〜弘安5年10月13日(1282年11月14日)

東京都台東区谷中 蓮華寺でお会いしました。


安房国小湊の海縁村落の”海人の子”として誕生。
12歳で故郷の天台寺院清澄寺にのぼり、16歳のときに「日本第一の智者」になるべく出家して是聖房蓮長と名乗りました。
以後、鎌倉・比叡山・南都・高野山などに修行した結果、仏法の真髄は「法華経」にあると悟って、建長5年(1253年)法華宗を開きました。
徹底した他宗批判を行い、「法華経」の採用を求め、文応元年(1260年)幕府へ「立正安国論」を上程しました。
元寇を目前にした予言的言動で、一定の信者を得ましたが、幕府からは常に弾圧されました。
文永8年(1271年)の佐渡流罪と、その後の身延入山を通して仏使としての自覚を強める一方、現世と来世を超越した「法華経」の世界を思索しました。


蓮華寺



蓮華寺



(平成15年6月26日)

略縁起

當山は、下総中山日蓮宗大本山法華経寺第十九世寂静院日賢聖人の隠室を以って、凡そ370年前創立となし、當山第三世常在院日在聖人に依り寛永7年2月この地に、創建せられる。
當寺は、山号を寂静山と云い、寺号を蓮華寺と申し、古来より赤門寺として、また谷中六三除・虫封の寺としても有名である。
御堂には、霊験あらたかなる清正公大神祗、毘沙門天王、鬼形鬼子母神の三神を安置し、参詣縁者の信仰の堂宇となっておる。
この赤門は、明暦、元禄、上野戦争などの災害を免れたもので建築様式は誠に、貴重なものとされている。
現在の御本堂等は、江戸文政年頃大檀越勘定奉行細田丹波守の寄進せられた貴重なる建造物であり、老朽の美を表している。
また浮世絵の細田時富(栄之)、新内中興の祖富士松魯中の菩提寺である。
尚、今日では、境内庭園の四季折々の樹木草花が、爛漫と咲き誇り、参詣縁者の心身に潤いを與うる寺として有名である。

昭和52年2月吉日
當山第四十二世日統敬白

(説明板より)

日蓮像 平成18年7月7日

茨城県常陸太田市・久昌寺でお会いしました。

日蓮像



日蓮像


昭和61年建立




(平成18年7月7日)
久昌寺


久昌寺
(茨城県常陸太田市新宿町239)

徳川光圀の生母・久昌院靖定大姉の菩提所




(平成18年7月7日)

略年表
承久 4年 1222年 安房国(千葉県)に生れる。
建長 5年 1253年 清澄寺で日蓮宗を開き法華経の布教を開始。
正嘉 2年 1258年 『法華宗』を開く。
文応 1年 1260年 幕府の政治を糾弾する内容の自著『立正安国論』を北条時頼に献上する。
鎌倉の僧徒が蜂起して日蓮の松葉谷草庵を焼く。
弘長 1年 1261年 幕府により伊豆国伊東に配流になる。
弘長 3年 1263年 幕府が日蓮の流罪を宥免する。
文永 5年 1268年 北条時宗らに書を送り法華帰依を勧める。
文永 8年 1271年 大干ばつのため幕府が雨乞いを極楽寺の僧にさせる。
これを日蓮が嘲笑したため幕府に訴えられる。
幕府は日蓮を竜口で斬ろうとするが落雷で失敗。
佐渡に流される。
文永11年 1274年 幕府から流罪を許される。
身延山久遠寺を創建する。
弘安 5年 1282年 池上郷で死去する。身延山に葬られる。

日蓮上人辻説法跡



日蓮上人辻説法跡
(神奈川県鎌倉市小町2−22)





(平成18年9月23日)
日蓮上人辻説法跡



日蓮上人辻説法跡
(神奈川県鎌倉市小町2−22)





(平成18年9月23日)

日蓮上人辻説法跡

承久4年(1222)、安房国に生まれた日蓮上人は比叡山に登り修業をつんだのち、「南無妙法蓮華経」の題目をとなえ法華宗の宣言をしました。
その後、鎌倉に来た日蓮は法華を広く普及させるためこの付近の辻に立って民衆に説法をしたと伝えられています。

(説明板より)


【日蓮宗(法華宗)】

日蓮の法華宗は、宗教精神における意志の力というものを重んじようとした。
つまり、仏教の仏典のなかで最も原理的なのは法華経であるとみなし、法華経に示された釈迦の根本精神を理解することによって、その信徒たちは仏の遣いとなる。
仏から遣わされたものとして、仏の意志を国に広めるべく、政治にもかかわる形で活動しなければならない、それが日蓮のいった立正安国りっしょうあんこくである。
つまり法華経の精神という正しい法を立てることによって、国の民人たみびとは救われるのである。

(参考: 西部邁 著 『国民の道徳』 扶桑社 平成12年11月 第2刷発行)

(令和2年8月31日 追記)


日蓮像 平成18年9月24日

神奈川県鎌倉市・妙本寺でお会いしました。

日蓮像



日蓮像
(神奈川県鎌倉市・妙本寺)





(平成18年9月24日)
日蓮聖人鎌倉開教聖地の碑





『日蓮聖人鎌倉開教聖地』の碑
(神奈川県鎌倉市・妙本寺)







(平成18年9月24日)

日蓮聖人鎌倉開教聖地

鎌倉の地たる洵に聖地なるかな
宗祖この山に憩ひこの町に叫びこの海より流さる
潮音耳を打てば今猶此経難事の聲あり
街衢塵を揚ぐれば杖木瓦石の響きあり
嗚呼この地を過ぎこの地に住む者其れ
宗祖當年の忍苦を偲び粛然奮然
信仰を増進せよや

塚本柳齋

(碑文より)

妙本寺



妙本寺
(神奈川県鎌倉市大町1−15−1)





(平成18年9月24日)

日蓮像 平成18年9月24日

神奈川県鎌倉市・長勝寺でお会いしました。

日蓮像と四天王像



日蓮像と四天王像
(神奈川県鎌倉市・長勝寺)





(平成18年9月24日)
長勝寺



長勝寺

(神奈川県鎌倉市材木座2−12−17)





(平成18年9月24日)

長勝寺ちょうしょうじ

石井山長勝寺と号し、開山は日蓮上人で、本尊も日蓮上人です。
上人の四大法難のひとつである「松葉ヶ谷焼打」はこのあたりで行われたといわれます。
またこの寺の法華堂は県指定重要文化財でもあります。

(説明板より)

日蓮像 平成18年9月24日

神奈川県鎌倉市・松葉ヶ谷御草庵霊跡でお会いしました。

松葉ヶ谷御草庵霊跡



松葉ヶ谷御草庵霊跡
(神奈川県鎌倉市大町5−4)





(平成18年9月24日)

日蓮像 平成19年3月16日

京都市中京区寺町・本能寺でお会いしました。

日蓮像



日蓮像
(京都市中京区寺町・本能寺)





(平成19年3月16日)
本能寺



本能寺

(京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522−1)





(平成19年3月16日)

由緒沿革

當山の宗名は「法華宗」くわしくは「妙法蓮華経宗」という。
宗祖日蓮大聖人の滅後133年開基日隆聖人が法華宗の正義を再興せんが為、應永22年(1415)布教の根本道場として創建された。
史上有名な「本能寺ノ変」は、天正10年6月2日、一代の英雄信長光秀の不意襲撃を受け、当山の大伽藍と共に一辺の煙りと化した。
時の本能寺は四条油小路に在り、秀吉の代、寺領換地となり現在地に移転、信長の第三子信孝の願いにより、当山内に信長公廟所をまつる。
現本堂は創建以来の第七建立、建築様式は鎌倉室町時代の粋を集め、およそ十ヶ年の歳月を費やして昭和3年に完成、大正昭和期に於ける我が国の代表的木造寺院建築といわれる。

大本山 本能寺

(説明板より)


蓮乗寺



蓮乗寺
(長野県長野市松代町松代御安町1142)





(平成20年10月27日)

蓮乗寺
象山先生の墓


象山は文化8年(1811年)2月旧松代藩に生れ元治元年(1864年)京都にて凶刃にたおれる。
蓮乗寺は日蓮宗の名刹で日蓮が佐渡へ流された時立寄られ一泊せられたと伝えられる。
又、佐久間家累代の菩提寺であり大正11年、京都妙心寺よりこの菩提所へ分葬する。
猶父一学並に一子恪二郎等の墓もある。

(説明板より)


 平成23年2月13日

福岡県福岡市・日蓮聖人銅像護持教会でお会いしました。





日蓮聖人銅像
(福岡市・日蓮聖人銅像護持教会)





(平成23年2月13日)

日蓮聖人銅像

日蓮聖人は、文応元年(1260年)『立正安国論りっしょうあんこくろん』を記し、当時の鎌倉幕府執権北条時頼にいち早く元げん(モンゴル)軍の襲来を警告しました。
明治37年(1904年)に完成したこの銅像は、高さ10.55メートル、重さ74.25トン。
8角形の台座には「立正安国」の文字と、日蓮聖人の一代記を描いたレリーフがはめ込まれています。
この像の木製原型は、当時東京美術学校の教授で彫刻家竹内久一たけのうちきゅういち、レリーフの原画は洋画家矢田一嘯やだいっしょうにより作製されました。

(説明板より)

福岡市指定有形文化財(彫刻)
銅像日蓮聖人立像

明治21年(1888)、湯地丈雄ゆぢたけお(1847〜1913)が起こした元寇記念碑建設運動に端を発し、日蓮宗僧侶 佐野前励さのぜんれい(日菅にっかん、浮羽町本仏寺住職 1859〜1912)がそれに共鳴して、建設が進められました。
明治37年(1904)に完成した像高は10.6mの大きさです。
東京美術学校(現東京芸術大学)の岡倉天心が制作を引き受け、原型(木型)の制作を木彫家初代教授 竹内久一が、頭部と両手首の鋳造を上野公園の西郷隆盛像などの制作で知られる鋳金科教授 岡崎雪声おかざきせっせいが手がけました。
本体部は佐賀藩の御用鋳物師の伝統をもち、明治維新後はヨーロッパの近代工業技術を移入した佐賀市の谷口鉄工所が鋳造し、その結果、伝統的技術と近代的工業技術の融合がみられる作となっています。
また、台座のレリーフは洋画家の矢田一嘯(1858〜1913)の原画によるものです。
烈風に法衣を翻し、理想を護持して堂々と厳しく立つ本像は伝統的「仏師」が近代的「彫刻家」として再生する過程の作品として、また制作技術の推移を示す作例としても近代彫刻史上、この時代を代表する貴重な作品です。

2001年3月
福岡市教育委員会

(説明板より)






日蓮聖人銅像護持教会
(福岡県福岡市博多区東公園7−11)




(平成23年2月13日)

 平成23年4月29日

東京都三鷹市・井の頭自然文化園彫刻園でお会いしました。





怪傑日蓮
(東京都三鷹市井の頭4−1・井の頭自然文化園彫刻園)





(平成23年4月29日)

 平成23年11月26日

東京都大田区・御松庵でお会いしました。





日蓮上人銅像
(御松庵)

老子製作所謹製



(平成23年11月26日)

銅像碑文

願はくばこの妙法により一切衆生の苦患を救ひ人々の願ひを満足せしめ人類永遠の幸福を念じ世界平和を祈るものである

日蓮上人七百年遠忌
寄進人 千葉県山武郡九十九里町作田
      牧野らく
昭和54年10月18日建立

日蓮上人銅像建立の由来

牧野らくは 明治22年 千葉県東金市に生まれ 幼き頃より 孝心厚く 日蓮上人の偉大なる徳に感動し 太陽を崇め 先祖を尊び 20才頃より 霊感を授り修行する
昭和12年5月 身延山参拝の帰路 御松庵に立ち寄り 冠水し おみくじを引き 8年間誰人にも授からなかった大吉1番を戴き感激にうたれ 神通力の妙を会得し 難行にもめげず 御題目を唱え続け 万病に苦しむ人々を 救済して 信仰を広める
七百年遠忌を目標として ここに 信者の皆様方の御協力を仰ぎ 91才にして 永年の念願を達成したものである

昭和54年10月吉日
牧野一子

(説明石碑・碑文より)






御袈裟懸松
(御松庵)




(平成23年11月26日)





妙福寺(御松庵)山門
(東京都大田区南千束2−2−7)




(平成23年11月26日)

日蓮上人袈裟掛けの松 由来

弘安5年9月(1282年)日蓮上人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍の松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。
この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称されるようになったといわれる。
天保期(1830〜1843年)の「嘉陵紀行」によれば、初代の袈裟掛けの松は「枝四面におおい長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり」程あったと記されている。
なお現在ある松は三代目であると伝えられる。

御松庵

社団法人 洗足風致協会

(説明板より)


日蓮像 平成20年5月19日

東京都大田区池上・池上本門寺でお会いしました。

日蓮大聖人説法像



日蓮大聖人説法像
(東京都大田区池上1−1−1・池上本門寺)





(平成20年5月19日)

日蓮大聖人説法像
星亨銅像跡

この像は宗祖第七百遠忌記念として昭和58年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納されたもので斯界の権威北村西望先生の作品です。(像の材料は純アルミ、高さ3.4米、重量1瓲)
もとここには明治の政治家星亨先生の銅像がありましたが、今般星家の御協力により台座を奉納頂きこの像を建立しました。

昭和58年10月吉日
大本山 池上 本門寺

(説明板より)


日蓮大聖人御廟



正面:日蓮大聖人御廟
(東京都大田区池上1−1−1・池上本門寺)





(平成20年5月19日)
日蓮廟所



日蓮大聖人廟所
(東京都大田区池上1−1−1・池上本門寺)





(平成20年5月19日)

 (関連商品のご紹介)

日蓮  法華宗  身延山  立正安国



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