平成21年11月4日
文久2年8月8日(1862年9月1日)〜昭和8年(1933年)10月15日
岩手県盛岡市・「新渡戸稲造生誕の地」でお会いしました。
札幌農学校在学中に洗礼を受ける。
東京大学選科生として美学・統計学を学ぶが、明治16年(1883年)退学し、アメリカ・ドイツへ留学。
アメリカでクエーカー教徒となる。
経済学・歴史学・文学・農政学などを学び、明治24年(1891年)帰国。
札幌農学校教授・京都帝国大学教授を経て、明治39年(1906年)一高校長に就任し、人格主義教育で多大な影響を与えた。
明治42年(1909年)から東京帝国大学教授を兼務。
明治44年(1911年)、最初の日米交換教授としてアメリカ各地の大学で講義する。
大正7年(1918年)東京女子大学初代学長に就任。
大正9年(1920年)国際連盟事務次長。
昭和元年(1926年)貴族院議員となる。
昭和8年(1933年)日本代表として太平洋問題調査会の国際会議出席のためカナダ滞在中に客死した。
昭和59年(1984年)以降発行の5000円札の図案に肖像が使用される。
新渡戸稲造像 (岩手県盛岡市・「新渡戸稲造生誕の地」) (平成21年11月4日) |
新渡戸稲造生誕の地 (岩手県盛岡市下ノ橋町4) (平成21年11月4日) |
新渡戸稲造生誕の地 (岩手県盛岡市下ノ橋町4) タクシーが止まっている隣りの公園 (平成21年11月4日) |
新渡戸稲造生誕の地
新渡戸稲造は、文久2年(1862)南部藩士新渡戸十次郎の三男としてこの地に生まれた。
父は青森県三本木野開拓の父と仰がれた人であるが、稲造は父の開拓事業にちなみ最初稲之助と称した。
稲造は、農政学を専攻し農学博士、法学博士の学位を受け、札幌農学校教授、京都帝国大学教授、第一高等学校長、東京帝国大学教授、東京女子大学長として青年の教育にあたった。
また行政官として台湾の開発にあたり、国際人として欧米に活躍した。
稲造は常に東西文明の融合を理想とし「太平洋のかけ橋たらん」と志し、第一次世界大戦後は国際連盟事務局次長に選任され、その公正なる言動は「連盟の良心」と称せられるようになった。
昭和8年10月15日(日本時間10月16日)、71歳で多くの人々に惜しまれつつ、ビクトリア市で亡くなった。
稲造の没後50年を記念して様々な行事が行われたのを機に、盛岡市、ビクトリア市の間で友好・交流の気運が盛り上がり、昭和60年5月23日(現地時間)、ビクトリア市で姉妹都市提携の盟約書が取り交わされた。
(説明板より)
平成21年11月4日
岩手県盛岡市・与の字橋の近くでお会いしました。
『新渡戸稲造先生』像 (岩手県盛岡市内丸・与の字橋近く・ビクトリアロード沿い) (平成21年11月4日) |
ビクトリアロード ビクトリアロードは「新渡戸稲造胸像」から中津川沿いに盛岡市役所、盛岡城跡公園を経由して「新渡戸稲造生誕の地」に至る延長約830mの道です。 盛岡市に生まれた新渡戸稲造博士は、カナダ・ビクトリア市で亡くなりました。 この縁で、盛岡市とビクトリア市は昭和60年5月に姉妹都市の提携を結びました。 ビクトリアロードは、平成7年の姉妹都市提携10周年を記念して名づけられました。(説明板より) |
平成22年5月26日
北海道札幌市・北海道大学でお会いしました。
新渡戸稲造像 (北海道札幌市・北海道大学) (平成22年5月26日) |
【碑文】
第二次世界大戦前の日本を代表する国際人・教育者であり、「五千円紙幣」の肖像としても知られる新渡戸稲造博士(1862ー1933)は、明治14年、二期生として札幌農学校を卒業した。
博士にとって札幌は、キリスト教に基礎をおく人格と、広い学識を身につけた「精神的誕生地」である。
卒業後の一時期、開拓使御用掛に籍を置き、黎明期の北海道開拓に力を尽くしたが、学問への情熱断ちがたく、明治16年、東京大学に再入学した。
さらに、アメリカ、ドイツに留学し、米国人の妻・メリー夫人を伴って帰国した博士は、明治24年から7年間、母校の札幌農学校教授として、当時閉校の危機にあった農学校の立て直しと学制改革に尽力し、のちの北海道大学の基礎を築いた。
勤労青少年のための教育施設である遠友夜学校の創設(明治27年)も、農学校教授時代の貴重な遺産である。
その後、博士は京都帝国大学教授、第一高等学校校長、東京帝国大学教授、東京女子大学学長などを歴任し、人格、社会性、教養を重視した教育によって戦前・戦後の教育界に多大な影響を与えた。
さらに、名著『武士道』による日本の精神文化の紹介、国際連盟事務次長としての平和文化活動は、博士の名声を国際的に高めることになった。
この顕彰碑は、北海道大学が札幌農学校創立から数えて120年を迎えるのを記念し、卒業生を中心とした数千人の篤志家の浄財によって建立された。
碑文の一句は、博士の英文著作から引用した。
「太平洋の橋にならん」とした、若き日の理想を語ったものであり、サインは直筆である。
1996年10月7日
新渡戸稲造博士顕彰碑建立事業会
発起人代表 堂垣内尚弘
碑文揮毫 丹保憲仁
彫刻制作 山本正道
(銘板より)
ハルニレの木 (北海道札幌市・北海道大学) (平成22年5月26日) |
新渡戸夫人寄贈のハルニレ
この木は、学名・ハルニレと言い、1905年(明治38年)春、新渡戸稲造夫人メリー(和名、万里)氏の寄贈により植樹されたものである。
夫人はフィラデルフィアの富豪エルキントン家の娘で、新渡戸が24歳の時、アメリカ留学中に知り合う。
その翌年、新渡戸は札幌農学校の助教に任命されるが、農政学研鑽のためドイツに留学、4年後の1891年(明治24年)留学を終えた新渡戸29歳の時結婚する。
そして札幌農学校に赴任する新渡戸と共に来日、札幌で7年間を過ごす。
新渡戸は、1894年(明治27年)長年の夢であった夜学校(遠友夜学校と命名)を開設するが、その資金はメリー夫人の実家から送られてきた遺産が元になったという。
夫妻は精魂込めて学生達に学問を吸収させるが、4つの学校をかけ持ちするなど激務のため、共に健康を害し、1897年(明治30年)療養のため気候温暖なカリフォルニアに渡る。
古記によれば、夫人は札幌を離れても学生を慈しみ、札幌農学校を想う心篤く、本校の校舎新築に際しハルニレ24本を寄贈せられ、宮部金吾教授の細心の注意の下、路傍樹として構内各所に植樹されたとある。
そのとき正門付近に植えられた内の5本(事務局前2本、南向い3本)がこの樹であり、樹齢はおよそ百年である。
「2002(平成14年)11月」
ハルニレ
ニレ科 一名アカダモ エルム(Elm)はニレの英名
分布=日本各地 樺太 千島 朝鮮 中国北部 東シベリアなど北国を代表する木で北海道には大木がみられる
花は春に咲く 材は堅く家具・床材などに用いる
(説明板より)
新渡戸夫妻 (説明板より) (平成22年5月26日) |
【新渡戸稲造】
新渡戸は札幌農学校の2期生である。
入学した時には「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士はすでに帰国しており、指導を受けることはかなわなかった。
新渡戸は米国のジョンズ・ホプキンス大学に留学し、1900年(明治33年)に『武士道』を英文で書き上げた俊才である。
日清戦争に勝利した直後で日本への関心が高まっていたこともあり、この本は世界的なベストセラーになった。
新渡戸はベルギーの法学者から、宗教教育のない日本に道徳があり得るのかを問われて、日本の社会規範は神道でも仏教でもなく、武士道によって保たれていると述べている。
新渡戸は『武士道』に続く『修養』と『世渡りの道』などがベストセラーになり、小日向に敷地数千坪の大豪邸をたてるほどだった。
その華麗な生活ぶりから、順風満帆で平穏な生涯にみえるが、実は何度も神経症を患っている。
『武士道』をカリフォルニアで書き上げたときも、彼は神経症の療養中であった。
(参考:湯浅博 著 『全体主義と闘った男 河合栄治郎』 産経NF文庫 2019年4月 第1刷発行)
(令和2年5月4日 追記)
新渡戸稲造旧居跡 (東京都文京区小日向2−1−30あたり) 現在は関東財務局の宿舎になっているようです。 (平成18年3月11日) |
新渡戸稲造旧居跡
(小日向2−1−30あたり)
新渡戸稲造(1862〜1933)は、農学者、教育家、国際人、南部藩士の子として盛岡で生まれ、幼くして上京した。
明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。
さらに、東京帝国大学に学び、またアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。
明治24年、メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国、札幌農学校で教えた。
後、京都帝大教授を経て、明治39年第一高等学校校長となり、学生に深い影響を与えた。
その後、東京帝国大学教授、東京女子大学初代学長となった。
また、地元拓殖大学の学監(学長)も務めた。
「太平洋の橋」になることを若い時から考え、国際的にも活躍し、わが国の思想や文化を西洋に、また西洋のそれをわが国に紹介することに努めた。
大正9年には国際連盟事務局次長となり、”連盟の良心”といわれた。
昭和2年帰国して、太平洋問題調査会理事長となり、きびしい国際情勢のなか平和を求めて国際会議に出席してカナダで亡くなった。
ここは、明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。
文京区教育委員会
昭和59年3月
(説明板より)
【年表】
年号 | 西暦 | 年齢 | 出来事 | 世の中の出来事 |
文久 2年 | 1862年 | 1歳 | 父・十次郎、母・勢喜の三男として生まれる | 坂下門外の変 |
慶応 3年 | 1867年 | 6歳 | 父、死去 | 王政復古の大号令 |
明治 4年 | 1871年 | 10歳 | 叔父・太田時敏の養子となり、太田稲造と改名 | 廃藩置県・『西国立志編』発行 |
明治 6年 | 1873年 | 12歳 | 東京外国語学校(大学予備門)に入学 | 征韓論破れ西郷隆盛ら下野する キリスト教解禁 ウィーン万国博覧会 |
明治 8年 | 1875年 | 14歳 | 東京英語学校に入学 | ロシアと千島・樺太を交換 |
明治10年 | 1877年 | 16歳 | 札幌農学校に入学(第2期生) | 西南の役・全国にコレラ流行 東京大学創立 |
明治13年 | 1880年 | 19歳 | 母、死去 | YMCA(キリスト教青年会)創立 |
明治14年 | 1881年 | 20歳 | 札幌農学校を卒業 農商務省御用掛となる |
自由党成立(総裁:板垣退助) 開拓使官有物払下げ事件 |
明治15年 | 1882年 | 21歳 | 札幌農学校予科教授となる | 立憲改進党成立(総裁:大隈重信) 日本植物学会創立 |
明治16年 | 1883年 | 22歳 | 東京大学選科生となる | 帝国教育会成立 |
明治17年 | 1884年 | 23歳 | 東京大学を退校 米ジョンズ・ホプキンズ大学に入学 |
清仏戦争起こる |
明治20年 | 1887年 | 26歳 | ドイツ・ボン大学で農政・農業経済学を研究 | ドイツ軍備拡張 独露再保障条約 |
明治21年 | 1888年 | 27歳 | ドイツ・ベルリン大学に転校 | ドイツ、カイゼル=ウィルヘルム二世即位 |
明治22年 | 1889年 | 28歳 | 長兄・七郎の死去により、新渡戸姓に復帰 ドイツ・ハレ大学に転校 |
大日本帝国憲法発布 第1回汎米会議 |
明治23年 | 1890年 | 29歳 | 米ジョンズ・ホプキンズ大学より名誉文学士号を受ける | ビスマルク下野 |
明治24年 | 1891年 | 30歳 | メリー・エルキントンと結婚、日本に帰国 札幌農学校教授となる |
大津事件 露仏協商 |
明治25年 | 1892年 | 31歳 | 長男誕生(8日後に早世) | |
明治27年 | 1894年 | 33歳 | 札幌に遠友夜学校を設立 | 日清戦争 |
明治30年 | 1897年 | 36歳 | 札幌農学校を退職、鎌倉に居住 | 台湾総督府設置 |
明治31年 | 1898年 | 37歳 | 米カリフォルニア州モントレーで療養 この頃『武士道』の執筆開始 |
キュリー夫人、ラジウムを発見 |
明治32年 | 1899年 | 38歳 | 佐藤昌介らとともに日本初の農学博士の称号を得る | 外国人の内地雑居を許す 米国の対清門戸開放宣言 |
明治33年 | 1900年 | 39歳 | 『武士道』を出版 | 北清事変 |
明治34年 | 1901年 | 40歳 | 台湾総督府民政部殖産局長心得に就任 製糖業の発展に貢献 |
日英同盟 |
明治36年 | 1903年 | 42歳 | 東京帝国大学法科大学教授となる | 東京市内電車敷設開始 |
明治39年 | 1906年 | 45歳 | 第一高等学校・校長に就任 東京帝国大学農学部教授を兼任 |
東京市電焼打ち事件 |
明治42年 | 1909年 | 48歳 | 東京帝国大学法科大学教授となる | 伊藤博文暗殺される |
明治43年 | 1910年 | 49歳 | 韓国併合 | |
明治44年 | 1911年 | 50歳 | 第1回日米交換教授として渡米 排日法案を未然に防ぐ |
日米修交通商航海条約 辛亥革命 |
大正 6年 | 1917年 | 56歳 | 拓殖大学第2代学監に就任 | 日米協会成立 |
大正 7年 | 1918年 | 57歳 | 東京女子大学学長に就任 | 原敬の政友会内閣成立 シベリア出兵 スペイン風邪(インフルエンザ)流行 |
大正 8年 | 1919年 | 58歳 | 国際連盟事務次長に就任 | 朝鮮万歳事件 上海に排日運動 シベリア派遣軍撤兵開始 パリ講和条約・ヴェルサイユ条約 |
大正 9年 | 1920年 | 59歳 | 国際連盟第1回総会 尼港(ニコライエフスク)事件 間島事件(朝鮮人の反日暴動) 日本、国際連盟に正式加入(常任理事国) カリフォルニア排日土地法成立 経済恐慌 |
|
大正10年 | 1921年 | 60歳 | バルト海オーランド諸島帰属問題を解決する | 原敬、暗殺される ワシントン会議 四国協定(日・英・米・仏) 日英同盟廃棄 |
大正11年 | 1922年 | 61歳 | 日中山東条約 ワシントン軍縮条約(海軍主力艦制限) |
|
大正12年 | 1923年 | 62歳 | 関東大震災 日露漁業協約 |
|
大正13年 | 1924年 | 63歳 | 米国排日移民法成立 日ソ漁区条約 |
|
大正14年 | 1925年 | 64歳 | 米国・オレゴン州の排日暴動 ロカルノ欧州安全保障条約 |
|
大正15年 | 1926年 | 65歳 | 貴族院議員に勅撰される 国際連盟事務次長を退任 |
蒋介石、北伐開始 ギリシャ革命 ドイツ、国際連盟加入 |
昭和 2年 | 1927年 | 66歳 | 日本に帰国 盛岡などで講演 |
田中義一、政友会内閣成立 中国各地に日貨排斥運動起こる 第一次山東出兵 ジュネーブ軍縮条約不成功 |
昭和 3年 | 1928年 | 67歳 | 女子経済専門学校(現・新渡戸文化学園)の初代校長に就任 | 張作霖爆死事件(満州某重大事件) |
昭和 4年 | 1929年 | 68歳 | 太平洋問題調査会理事長に就任 | 世界恐慌(ニューヨーク株式大暴落) |
昭和 5年 | 1930年 | 69歳 | ロンドン軍縮条約(補助艦艇制限) | |
昭和 6年 | 1931年 | 70歳 | 上海開催の第4回太平洋会議に出席 | 満州事変 |
昭和 7年 | 1932年 | 71歳 | 軍部批判をする(松山事件) 渡米して100回以上の講演をし、日米協調に奔走する |
五・一五事件(犬養毅、暗殺される) 上海事件 満州国建国宣言 |
昭和 8年 | 1933年 | 72歳 | カナダ・バンフでの第5回太平洋会議に出席 カナダ・ビクトリア市にて死去 |
国際連盟脱退の詔書 インド、日印通商条約を破棄 ロンドン世界経済会議 ドイツ、ヒトラーが首相に就任 米国、ニューディール政策開始 |
(参考:『歴史街道 2012年9月号』)
(平成25年9月22日 追記)
【第一高等学校・校長】
新渡戸は京都から東京帝大に移り、一高の校長を兼任すると、そのキリスト教の西洋型教養主義を学内に注入する。
海外生活の長い新渡戸は米国人の妻をめとり、「ソシアリティー」「フレンドシップ」をよく語る。
それまでの一高のバンカラ精神を、ものの見事に覆した。
質実剛健、弊衣破帽へいいはぼうの気質を旨とし、剛毅に親しんできた生徒たちは大いに戸惑った。
弁論部の魚住影雄うおずみかげお(評論家)、安倍能成よししげ(学習院大学院長)、阿部次郎(哲学者)らが新渡戸の人格主義や理想主義に傾倒していく。
これに対し、文芸部の谷崎潤一郎、菊池寛、芥川龍之介ら、後の文豪たちが自然主義に向かって行った。
(参考:湯浅博 著 『全体主義と闘った男 河合栄治郎』 産経NF文庫 2019年4月 第1刷発行)
(令和2年5月4日 追記)
【確たる理想主義】
明治42年(1909年)3月1日、第一高等学校祈念祭の夜の全寮茶話会で短躯たんくの男が、突然、壇上に立って新渡戸稲造校長を弾劾する演説を始めた。
運動部を代弁する一高OBの帝大生、末弘厳太郎すえひろいずたろう(のちの東京帝大教授)である。
末弘は新渡戸の鼓吹する個人主義や理想主義は外来の軟弱思想であり、「一高の剛健尚武の気風を破壊するものである」と非難した。
これが引き金となって、運動部と弁論部による「言論の白兵戦」(「著者自らを語る」『全集第17巻』)へと広がった。
新渡戸が勇躍して演壇に立った。
とたんに、水を打ったように静まりかえった。
新渡戸は臆することなく「剛健もよい、尚武もよい、しかし私の教育の究極のねらいは人格の向上にこそある」と説いた。
一高生を狭隘きょうあいな天地から解放し、豊かな広い世界に引き出し、人間としての教養を説いた(「故人の思い出」『全集第16巻』)。
新渡戸の演説は札幌農学校の出身者らしく、確たる理想主義の信念がみなぎっていた。
反対者の前に進み出て、堂々と所信を述べるには相応の自信と胆力が欠かせない。
新渡戸の弁舌は、進取の気性に富む寮生の心に火をつけた。
(参考:湯浅博 著 『全体主義と闘った男 河合栄治郎』 産経NF文庫 2019年4月 第1刷発行)
(令和2年5月4日 追記)
【一高を去る】
大逆事件の幸徳秋水らが、東京・市谷の東京監獄で処刑されて1週間後の明治44年(1911年)2月1日、作家の徳富蘆花は、武蔵野の寓居から人力車で本郷区向ヶ丘ににある第一高等学校へ向かった。
一高内の第1大教場は数百人の聴衆であふれかえっていた。
紋付き、羽織姿の蘆花が登場すると、「演題は未定」であるのに場内は不思議な空気に包まれていた。
主催者の河合栄治郎、河上丈太郎(戦後の社会党委員長)、鈴木憲三(のちに弁護士)ら一高弁論部の3年生委員は、この記念講演会をもって2年生の新委員と交代することになっていた。
引継ぎにあたっては各界の著名人を担ぎ出すことを習いとしていたので、彼らが真っ先に考えたのが徳富蘆花である。
今回は前年の天皇暗殺計画とされる大逆事件で、つい1月に幸徳ら12人が処刑されて世は騒然としていた。
蘆花は兄の徳富蘇峰を通じて、首相の桂太郎に幸徳らの助命嘆願を試みたが、国民新聞社長の蘇峰は動かなかった。
蘆花が講演を受ければ、なんらかの思いを披歴するだろうと彼らが考えてもおかしくはない。
舞台の袖には、墨で黒々と「演題未定 徳富蘆花」と書かれていた。
委員の河上が1枚目の紙を一気に引き裂いた。
すると、それまで隠されていた本来の演題「謀反論」が浮き出てきたのである。
彼らは大逆事件批判が事前に漏れて、講演会中止に追い込まれることを警戒して奇計を案じたのだ。
蘆花はゆっくりと「僕は武蔵野の片隅に住んでいる」と語り始めた。
自宅に近い豪徳寺には暗殺された大老、井伊直弼の墓があり、谷を越えると処刑された吉田松陰を祀る松陰神社があるという。
敵対した二人ではあるが、蘆花は「50年後の今日から歴史の背景に照らしてみれば、畢竟ひっきょう、今日の日本を造り出さんがために、反対の方向から相槌を打ったに過ぎぬ」と独自の議論を展開した。
蘆花は改めて、「諸君」と注意を喚起した。
「僕は幸徳君らと多少立場を異にする者である」と明確にしたのち、それでも社会発展のためには「謀叛むほんを恐れてはならぬ。自ら謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となることを恐れてはならぬ。新しいものは謀叛である」と語った。
最後に蘆花は、一高生に向かい「幸徳らも誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんで、その志を悲しむであろう」と訴えた。
蘆花は大逆事件に見る明治の官僚主義を批判し、次代を担う学徒に「自由を殺すは即ち生命を殺すことになる」と人格の陶冶とうやを呼びかけていたのである(佐藤嗣男「蘆花講演『謀叛論』考」明治大学人文科学研究所紀要1997)。
だが、恐れていたことが現実に起った。
「謀反論」が直ちに文部省の知れることになったのだ。
翌日、校長の新渡戸稲造は文部省に呼び出され、弁論部長の畔柳郁太郎くろやなぎいくたろう教授とともに譴責けんせき処分を受けた。
新渡戸は3日、全校生徒を集めて改めて一高の校風を語り、子の責任は親たる校長一人にあるとして「忠君愛国の精神」を忘れぬよう訓示した。
この記念講演会を遠因として、それまで抑えられていた新渡戸批判が出始めた。
一高復古派による「剛健尚武の気風」の声の広まりである。
事件から2年後の大正2年(1913年)4月23日の各新聞に「一高校長 新渡戸稲造の免職」が報じられ、矢内原忠雄らの校長復職運動もむなしく、新渡戸は一高を去ったのである。
(参考:湯浅博 著 『全体主義と闘った男 河合栄治郎』 産経NF文庫 2019年4月 第1刷発行)
(令和2年5月4日 追記)
【東京女子大】
東京女子大学は大正7年4月に開学して学長の新渡戸稲造、学監の安井てつの指導のもと、教員12人、学生76人、仮入学者8人という小所帯でスタートした。
新宿角筈の粗末な木造の仮校舎で、キリスト教に基づく人格教育が行われた。
建物は粗末でも、講師陣には片山哲(戦後社会党の首相)、大内兵衛、森戸辰男、鈴木義男という顔ぶれである。
これに気鋭の河合栄治郎が加わった。
第一高等学校の恩師、新渡戸学長は東京帝大助教授ポストが宙に浮いたままの河合栄治郎を見かねて招いたのであろう。
(参考:湯浅博 著 『全体主義と闘った男 河合栄治郎』 産経NF文庫 2019年4月 第1刷発行)
(令和2年5月4日 追記)
新渡戸稲造文学碑 (岩手県盛岡市・盛岡城二の丸跡) 『願はくはわれ太平洋の橋とならん 新渡戸稲造』 昭和37年9月1日 新渡戸稲造先生を生誕百年を記念して有志これを建つ (平成21年11月7日) |
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