新田義貞像 平成16年9月12日

新田義貞 にった・よしさだ

?〜延元3年閏7月2日(1338年7月27日)

群馬県太田市・東武鉄道太田駅北口前でお会いしました。


元弘3年(1333年)本国上野で挙兵して鎌倉へむかい、途中、分倍河原ぶんばいがわら合戦などで幕府軍を撃破。
まもなく鎌倉幕府を滅亡させました。
ついで建武政権に従い、建武2年(1335年)鎌倉で反乱した足利尊氏の討伐にむかったが、竹ノ下の戦いで敗れました。
その後、京に攻め上がった尊氏を一旦撃退しましたが、建武3年・延元元年(1335年)5月の湊川の戦いで敗れ、京都を追われました。
10月、後醍醐天皇の皇子・恒良つねよし親王を擁して越前に逃れ、以後、同国で活動。
金崎かねがさき(現:福井県敦賀市)に拠ったが、翌年、室町幕府軍に包囲されて落城。
延元3年(1338年)藤島城(現:福井市)付近の戦闘で負傷し、のちに自殺しました。


駅前の銅像 銅像は太田駅前北口のロータリーのところに建っていました。

説明碑文

新田義貞公は清和源氏新田氏直系の郷土出身の武将である
元弘3年(1333)5月8日卯刻生品明神の社前に義旗を挙げ坂東諸国・越後・信濃・甲斐の源氏を糾合して鎌倉を攻め同月22日執権北条高時の鎌倉幕府を滅ぼした
この功により建武新政が成り後醍醐天皇より越後守・播磨守・上野介に任じられ武者所頭人・左近衛中将となる
その後北条時行の乱を契機に南北朝の戦乱が起こり義貞公は南朝方の忠臣として各地に転戦した
延元元年(1336)吉野に移った後醍醐天皇は恒良親王・尊良親王と義貞公を越前に下らせて再起を図った
義貞公は越前平野を支配下に置いたが、南風競わず延元3年(1338)閏7月2日越前藤島燈明寺畷で斯波高経の軍勢との遭遇戦において壮絶な最期を遂げた
御年38歳であった
御遺骸は福井県丸岡町の称念寺に葬られた
公の御霊は太田市新田神社 福井市藤島神社にまつられている
太田市金龍寺には供養塔と顕彰碑がある

昭和63年5月 新田義貞公銅像建設委員会

新田義貞公銅像 「新田義貞公」像

彫刻制作:分部順治
鋳造:櫻井淳一
石工:永井昭二
JR太田駅北口



東武鉄道太田駅北口

意外にも小さな駅なので驚きました。



(平成16年9月12日)

新田義貞像 平成18年2月19日

東京都府中市・JR分倍河原駅前でお会いしました。

新田義貞之像



新田義貞公之像

(分倍河原駅前)





(平成18年2月19日)

説明板

この像は、新田義貞と北条泰家の軍勢が鎌倉幕府の興亡をかけて火花を散らした分倍河原合戦を題材に、武士の情熱と夢をモチーフとして制作したものである。
元弘3年(1333)5月8日、上州生品神社(群馬県新田町)の社前で鎌倉倒幕の旗を上げた新田義貞は、越後・甲斐・信濃の同族軍等を糾合、翌9日には利根川を渡って武蔵国へ入り、千寿王(後の足利義詮)と合流し一路鎌倉を目指して南下した。
一方、幕府軍は入間川で新田軍を阻止するため北上、同月11日、両軍は小手指原(所沢市)で遭遇し合戦となった。
合戦の勝敗は容易に決しないまま12日の久米川の合戦につづき新田軍有利の中で、幕府軍は陣立てのため急ぎ府中の分倍河原まで退いた。
同月15日未明、新田軍は多摩川突破を目指して武蔵国府中を攻め分倍河原において大いに戦ったが、泰家率いる幕府軍の逆襲にあって大敗を喫し、堀兼(狭山市)まで敗走した。
この時、新田軍の手によって武蔵国分寺の伽藍は灰燼に帰してしまったといわれている。
その夜、堀兼まで後退した焦燥の義貞のもとに相模の三浦義勝らが相模の国人衆を引き連れて参陣した。
幕府の本拠地である相模の国人衆の加勢に意を強くした義貞は、翌16日の未明に怒涛の如く分倍河原を急襲、前日の勝利におごり油断していた幕府軍は、武具を整える間もなく総崩れとなり、鎌倉の最後の防衛線である多摩川は一気に破られ分倍河原合戦は新田軍の大勝利に終わった。
多摩川を越えて鎌倉に進撃した新田軍は、鎌倉で激しい市街戦を展開し、終に140年余り続いた鎌倉幕府を滅亡させたのである。
こうした史実を通して市民の郷土史への理解を深めるとともに、これを後世に伝えるため、日本の中世史上重要な意義を持つ分倍河原合戦ゆかりのモニュメントを制作し、この地に設置するものである。
制作は、我が国彫刻界の重鎮で文化功労者・日本芸術院会員の富永直樹先生、題字は、府中市長吉野和男の揮毫による。
この「新田義貞公之像」が永くふるさと府中の歴史を伝え、市民の心に生きつづけることを願うものである。

昭和63年5月
府中市


分倍河原古戦場の碑


「分倍河原古戦場」の碑
(東京都府中市・新田川分梅公園)

正五位男爵 新田義美敬書




(平成18年2月19日)
分倍河原古戦場跡



分倍河原古戦場跡
(東京都府中市・新田川分梅公園)





(平成18年2月19日)

分倍河原ぶばいがわら古戦場

所在地 府中市分梅町2−59 新田川分梅公園
指定 大正8年10月

文永(1274)、弘安(1281)の役を経験した頃、北条執権政治は根底からゆるぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。
元弘3年(1333)5月、新田義貞は北条高時たかときを鎌倉に攻めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国こうずけのくに新田庄にったのしょうから一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破り(5月11日)、さらに、久米川の戦で優勢に立った。
北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田勢を迎撃した。
新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。
その夜(5月15日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、16日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め22日に鎌倉幕府は滅亡した。

平成10年3月 建設
東京都教育委員会

(説明板より)


九品寺


九品寺くほんじ
(神奈川県鎌倉市材木座5−13−14)

鎌倉攻めの時の義貞の本陣跡。
鎌倉幕府倒幕後の建武3年(1336年)に戦死者の霊を弔うために建立されたといわれる。


(平成18年9月24日)
『内裏山』の額




山門に掲げられている新田義貞の筆になる『内裏山』の額(複製)





(平成18年9月24日)

 (関連商品のご紹介)

新田義貞



 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送